第4話 仄暗い影1

「ここから諏訪湖まで、丁度一時間ですね。私が運転しましょう」

 吉田 雅子の実家は諏訪湖のほとりにある。


「天野 礼子は、御光の家時代に卵巣摘出と、出産の経験があるということでしょうか」

 中央自動車道に乗ったところで、原田はバックミラー越しに新見に尋ねた。新見は腕を組み窓の外を眺めている。先程までの雨は止み、南東の空が明るく抜けていた。


「なんとも言えません。ただお局……吉田 雅子さんは知っているかもしれませんね」

(出産の経験があるとしたら、相手は……)

 新見は目を瞑り、加茂川との会話を振り返る。丁度その時、胸ポケットのスマホが振動した。大木からのダイレクトである。


「警部、お疲れ様です。今、大丈夫ですか」


「ああ、お疲れ様、構わない。それでどうだ、何かわかったか」


「ルナ・ルプスはやはり、ヴォルフガング 椎名 恭平です。コンサートパンフレットの最終頁に載せた新曲は『朔月』でした。尚、恭平は現在行方不明で、音楽事務所社長の話では長野に居るのではないかと」


「『朔月』を……そうか、間違えないな。恭平と長野との接点はなんだ」


「以前、長野に住んでいました。本籍を調べましたが、もともとは諏訪の児童擁護施設に居たようで、その後8歳の時に、椎名 徹郎なる人物の養子となっております」


「児童擁護施設……、何と言う施設なんだ」


「諏訪修道院という、カトリック系の施設です。椎名 徹郎の本籍は茅野市になっております」


「茅野市、諏訪湖の手前だな、詳しい住所を教えてくれ。ところで捜査本部には連絡をしてあるか」


「はい、川村警部補には全貌を伝えてあります。大木はこれから茅野市に飛べと、只今、世田谷署の車両を借りて、署員と二人で長野に向かっているところです」


「そうか、あとどのくらいで着きそうだ」


「はい、今しがた中央自動車道に入りましたので2時間程かと」


「はい解った、現地で落ち合おう。着いたら連絡をくれ」

 大木から茅野市の住所を確認すると電話を切った。


「原田さん、先に茅野市に向かいます。諏訪インターで降りたら茅野市方面にお願いします」


「承知しました。茅野市になにか……」


「ルナ・ルプスとヴォルフガングは同一人物です。恭平は今長野に来ている。運が良ければ身柄を確保できる」


 ・・・


「椎名 徹郎。この家ですね、しかし、人が住んでいる様子がないが」

 インターホンを鳴らしても反応はなかった。


「椎名先生は、ここにはおりませんよ」

 隣家から出てきた中年女性が、訝しげに声を掛ける。


「先生……ああ、そうなんですね。どちらにいらっしゃるのでしょうか」


「どのようなご用件かしら」


 原田は警察手帳をかざしながら、

「失礼しました。富士吉田署から参りました。それで徹郎さんはどちらに」


「あぁ、ご、ごめんなさいね。椎名先生は今年の春から入院しております」


「入院、どこかお悪いんですか」


「胃ガンだそうですが...諏訪の総合病院に」


「そうなんですね、もし……、息子の恭平さんはご存知ですか」


「恭平くん、懐かしいわねぇ。どうしているかしら……、16の時に家出してしまってね。あれ以来、先生随分と力を落とされて」


「先生といいますと、教師か何かを」


「いいえぇ、ピアニストですよ。長野では有名なね。恭平くんはピアノの才能があるからと、先生が養子になさったのよ。でも、ショパンコンクールを目前に家出してしまって」


「ショパンコンクールですか、そいつはすごいな」


「国内の予備予選は通過していただけにねぇ、先生暫くは寝込んでしまってね」


「……ありがとうございます。諏訪の総合病院ですね」

 女性に頭を下げると、二人は直ぐに車を出した。


・・・


「大木か、どうだ、あとどれ程で着きそうだ」


「はい、先程諏訪南インターチェンジを過ぎましたので、諏訪インターまで10分程かと」


「世田谷署員と一緒なのだな、では諏訪インターで降りたら諏訪総合病院に向かってくれ。そこに椎名 徹郎氏が入院している。恭平がいたら身柄の確保を」


「諏訪総合病院ですね、承知しました。ところで警部達はどうされます」


「我々は諏訪湖近くに住む御光の家、元女性信者の自宅に向かう。この事件では物的証拠が少な過ぎる。恭平を落とす唯一の方法は彼の自白しかない。犯行の裏付けが必要なのだ、それを探しに行く」


「わかりました、病院に恭平が居なかった場合はそちらで合流しましょう。女性信者の住所を教えて下さい」

 手帳に住所をメモした後、大木は、

「警部は、マンハッタンにあるヴィレッジヴァンガードという、ライブハウスをご存知ですか」

 と尋ねた。


「ああ、知っている。開店した当初は、前衛芸術家の発表の拠点だったが、1940年代後半からジャズのライブを行うようになり、ジャズ界の名門クラブとして知られるようになった。ソニー・ロリンズがここで『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』を録音し、以後ビル・エヴァンスやジョン・コルトレーンなど著名なジャズ・アーティスト達が、優れたライブ録音を残した……」


「流石です!恭平はアッシュ・ハーパーなるミュージシャンと共に、12月のクリスマスウィークにヴィレッジヴァンガードでの公演が決まっております。ライブアルバムも収録されるそうです」


「ギタリストのアッシュか、こいつは凄いな。彼に認められたとなると、一躍国内でのジャズメンとしての評価が上がる、それどころか、世界に名が轟く」


「社長は相当意気込んでいました」


「…………」

(なぜだ、なぜそこまで将来を約束されていながら、人をあやめたのだ)


「警部、あっ、警部聞こえていますか、そろそろ諏訪インターチェンジに入ります。また連絡させて頂きます」


「わかった、くれぐれも慎重に頼む」


 ・・・


「さすがに此処まで来ると、9月と言えど肌寒い。警部は御神渡りをご存知ですか」


「おみわたり……いえ、知りません」


「御神渡り、神の渡る道。真冬になると、諏訪湖は全面結氷するのです。最低気温が-10℃前後の日が続くと、氷の収縮と膨張が繰り返されて亀裂が生じ、くねくねとした道のような御神渡りが出現すると言われています。 この神秘的な自然現象には、出来た道を伝って、諏訪大社の上社かみやしろ男神おがみ下社しもやしろの女神に会いに行ったという伝説が古くから言われているんです」


「女神と男神が出会う、なんだか織姫と彦星の、七夕のような伝説ですね」


「結氷が早い年は豊作、遅い年、できない年は不作、また下諏訪側にできた時は豊作、天竜川の河口方面にできた時は不作という、言い伝えがあります」


「原田さん、良くご存知ですね」


「へへっ、女房が諏訪の出でして、若い頃はよく真冬に、それ見たさに諏訪湖まで足を運んだものですから、なんだかあの頃が懐かしい」


 昨夜からの雨はすっかり上がり、南西から差す陽が、キラキラと湖畔の水面を照らしていた。知らずと郷愁を誘うその景観に、新見は息を呑んだ。


 ・・・


「ごめんください、吉田 雅子さんはご在宅でしょうか、吉田さん、いらっしゃいますか」

 玄関の引き戸に手をやると、鍵がされているのか動かない。

「おかしいな、朝は電話に出られたのに……吉田 雅子さん、いらっしゃいませんか」

 原田は土塀で囲われた裏庭に向け、大きな声で呼んでみる。


「はいはい、おりますよ。裏で野良をしていたものでね、まったく大きな声で、聞こえていますとも」

 程なく、塀に沿って裏庭から藍色の作務衣さむえを着た60過ぎの女性が、険しい表情で現れた。

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