最終話 終天の朔

(この沈黙こそが、如実に恭平の胸中をもの語る)


 新見は賭けに出た。


「天野さんはね、実は妊娠していなかったのだよ」



「えっ……」

 半眼の瞼が一瞬のまばたきの後、大きく開かれた。


「彼女は流産していたことを知らなかったんだ」



「……流産」



「早発卵巣不全という不妊症だった。それは自身も知っていた。しかし、ある日、体調の異変に気付いた彼女は妊娠検査薬を使って調べてみたんだ。検査薬は陽性を示した。卵巣不全を克服し、確かに妊娠はしていた」


「…………」

恭平の身体が震え始めた。


「でもね……枯渇した卵胞から生まれた卵子に、完全には着床出来ていなかった。一度は着床したものの流れてしまった...それに気がつかなかったんだよ。その後完全に月経がなくなり閉経した為に、妊娠したと思い込んでいた、最期の時まで」


「…………」


「これは彼女がその日の為にと用意していたものだ」


新見はショルダーバッグから靴下を取り出すと、机の上に静かに置いた。


「これは、赤ちゃんの……くつした」

恭平は見つめたまま肩を大きく震わすと、右手でゆっくりと靴下に触れた。


「さぞ、嬉しかったんだろうね」



「うっ……」



暫く咽び泣いたあと、恭平は静かに犯行を自供し始めた。


「コンサートが終わった後に、会う約束をしていたんです」


「直接ビルの屋上に行ったんですね。初めてではなかった」


「あそこには、以前も二人で行きました...夜景が綺麗だった……」


「天野さんは、そこであなたを待っていたんですね」



「はい……」



 ・・・・・・・・



「あなたとはもう会わないと決めていたのに……」


「なぜ、解らないよ……。今日のコンサートに来てくれて本当に嬉しかった。ここからが勝負なんだ、やっと掴んだチャンスなんだ」


「だからもう、一緒に居られないの」


「邪魔になると思ってるの、逆だよ。君が居てくれないと……、俺は成功して君を幸せにするから」


「ああ、神様……、あなたとはもう会わないと決めていたのに……でも、ひとりではきっと、わたしには出来ない……」


「なぜ、なぜ泣くんだよ。歳なんか関係ない。君が隣に居てくれなきゃ俺は……」


「もうやめて、お願いだから。あなたと居てはいけないの。一緒に居たらまた、闇の中で生きることになる。お願いだからわたしの事は忘れて……」

 礼子は一瞬言葉を詰まらせ、恭平の手をとると


「どうかお願い、殺して下さい」

 と、懇願した。


「訳が解らないよ」


 恭平は動転し、すがる礼子が持つショルダーバッグを払いのけた。


 礼子は点滅を繰り返す街灯を頼りに、バッグの中の小銭入れから飛び散った数枚を、一枚一枚ゆっくり拾い上げながら、


「わたしたちはコインの裏と表。わたしは朔、漆黒の暗闇。あなたは展望の新月...出会ってはいけなかった……」

 と咽びながら、震える声で呟いた。


「椎名、いえ……大原 恭平」


「……なぜ、以前の名字を……」


「あなたは、わたしの息子……」


「えぇ、いま……なんて言ったんだ」


 恭平は自分の耳を疑った。


「あなたは、わたしと大原 愛明のこどもなの」


「嘘だろ」


「あなたがお守りにしてるロザリオは21年前、わたしが授けたものよ。この前見せてくれた時全てを知ってしまった」


「…………」


「裏に刻んだのは、イニシャルなんかじゃない……My Moon。わたしのお月さま。そして、あなたの父親を殺したのはわたし……。あの時炎の中で、あなたを見つけられなかった」


 恭平は悪夢を見ているかのように、目を瞑ったまま眉間に皺を寄せ首を振る。


「死んだとばかり思っていた……」


「えっ」


「あの夜、朔の暗闇に紛れて……あなたを捨てたのよ」

 恭平の両手をとり、静かに自身の喉元に導く礼子の瞳から、一筋の涙が頬をつたう。


「殺して……」


 言葉が詰まった。


「殺して、あなたの子がお腹の中にいるの...こんな恐ろしいこと、許される訳がない……殺して、そうでないと、わたし……産んでしまう」



「なんだって……」

 恭平の声もまた、震えている。


「聞こえなかったの、あなたの子がいるの。わたしの中に……」


 恭平は空を仰ぎ、涙で曇る星々をただ見つめる。


 胸の十字が疼いた。


「自分では死ねないの……この子を殺せないのよ、だからお願い……おねがいぃ」


 懇願する礼子は、頬を伝う涙を抑えることが出来ない。


 礼子の溢れた涙が手の甲に辿り着いた瞬間、恭平の瞼にマンハッタン ヴィレッジ・ヴァンガードの客席が映った。


「あぁ」


 恭平は深く嗚咽をはきだすと、両の掌に力を入れた。



(通りものにあたる……。これは夢なのか、現実なのか、脳内に靄がかかったような感覚。魂が抜け堕ちて行く瞬間ふと恭平に、通り悪魔が訪れた……)



 恭平の手から崩れ堕ちてゆく礼子の顔に苦痛の表情は無い。ただ 眠るように、静かにゆっくりと倒れてゆく。



 君は、「死の欲動」Thanatosに脅迫されつつ、自己欺瞞的に、「生の欲動」Erosに自らを委ねる。人間には、虚無……死へ誘惑される衝動がある。それは主題化されないまま不吉に君を誘い続ける。「生の欲動」の基礎に、「死の欲動」がある。これが君の欲動、リビドーの真の姿だ。

 彼女にとって月の光は眩し過ぎた、たとえそれが新月の、月と闇の間から僅かに溢れ落ちる雫のような光でさえ……朔の漆黒に堕ち入った天野 礼子には眩しかったのだ。

終天しゅうてんさくに支配された彼女には。



「真実だけを照らし出す、見えない光があなたを射ぬき、其処に落ちる影。仄暗いその影がわたしの全て」


 詩を綴る礼子の想いに触れ、新見は目を瞑ったまま右手の握り拳を額にあてた。


 草花そうくわ静寂にして、銀杏を揺らした風は止んでいた。しかしそこに先程までの暖かい陽光はない。

 枝に佇む鳥たちは知っているのだ、虚ろな秋空を。風凪の暫し異様な静けさは、いずれ嵐となる前触れなのだということを。

 故に、じっと留まるのだ。


 風凪……

 礼子はその一瞬に魂の宿り木を想い、恭平は人生の安らぎを見た。二人に、どう結末を知ることが出来ようか……

 神の悪戯か、この世に生を受けた時からの運命さだめだったのか。

 もしあの日、どちらかが前を横切らねば、二人の人生の方向は別だったかもしれぬ。



 そして深く、ため息をついた。

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「終天の朔」流浪の運命 ~ラクリモサ 麻生 凪 @2951

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