第1話 邪神襲来 その五
浴室のなかには誰もいない。
ただ、水をはった浴槽が、かすかに波打っていた。まるで、たった今まで、そこに誰かがつかっていたかのように。
「お客さん。勝手なことしちゃ困るよ」
「すいません。トイレと間違えて」
「トイレはこっちだよ」
キッチンをはさんで反対側のほうを指さす。
龍郎はあわてて、そっちへむかった。が、キッチンに入ったところで、岩崎が待っていた。
「龍郎。どこに行ってたんだ。勝手に歩きまわるなよ」
「ああ。すまない」
フレデリックの姿はない。岩崎がくっついてきたから、ほんとにトイレに行かざるを得なくなったのかもしれない。
(それにしても、さっきの浴室の水音は……)
絶対に空耳などではなかった。誰かがあの場所にいたのだ。龍郎がドアをあける直前まで。
(でも、いなくなった。一瞬で。たとえ邪神だとしても、姿を見えなくすることなんてできるのか? それとも別の魔法か? 結界に逃げこんだ?)
わからないが、このまま帰るわけにはいかない。なんとしても、ここに巣食う悪魔の正体を明かさなければ。
しかし、岩崎の父がついてきてしまった。キッチンのテーブルセットの席につく。これでは、いよいよ調べにくい。
「はい。龍郎。コーヒーだよ。早く飲まないと冷める」
「ありがとう……」
困っていると、そのとき、玄関のほうがさわがしくなった。誰かが帰ってきたらしい。
「離せ! 離してよ! 誰か助けてェーッ!」
「ウルサイ。黙れ。さっさとなかへ入れ」
「イヤーッ! イヤだ! 離せー! 化け物になんかなるもんか。離してよッ!」
「グラーキは偉大なり」
女の子の声だ。殺されかけているかのように絶叫している。
龍郎が玄関へ行ってみようとすると、岩崎が前に立った。
「龍郎。どこへ行くんだ?」
「あの声、ただごとじゃない。助けに行かないと」
「声? なんの?」
「なんのじゃないだろ? 女の子がさわいでる」
「そうか?」
やはり、岩崎の態度は変だ。
龍郎は岩崎の肩を押しのけた。ギャッと岩崎が悲鳴をあげる。見れば、肩から細い煙が立ちのぼっていた。
(悪魔だ!)
悪魔が化けているのか。憑依されているのか。
どっちにしろ、龍郎の来るのが遅かったのだ。友人はすでに悪魔と化してしまった。
ということは、叫んでいる女の子のほうが正常だ。
龍郎は岩崎をつきとばし、玄関へ走った。高校生くらいの少女が中年の女に手をひかれて、家にひき入れられようとしている。女の子は必死に抵抗していた。
(岩崎の妹だ!)
龍郎は玄関まで走り、岩崎の母と見られる女に体あたりした。
「逃げろッ!」
少女はぼうぜんとしている。龍郎は靴もはかずに玄関へおり、手をひいて外にとびだした。フレデリックと離れてしまったが、彼なら潜入になれている。心配はないだろう。
「大丈夫か?」
少女は泣きだして話にならない。
「とりあえず、おれの車に戻ろう」
靴下ごしのアスファルトが冷たい。小石もころがっていて、全力で走ることはできなかった。が、追っ手もなく、坂の下まで逃げることができた。
「君、ケガはない?」
少女は首をふる。
「岩崎の妹だよね?」
これには、うなずく。
「えーと、菫さん?」
なんと、首をふった。
「あれ? 岩崎が妹の名前は菫だって言ったんだけど」
「あたし、
「うん。明鐘ちゃんか。岩崎、自分の妹の名前もわからなくなってるのか……」
明鐘は切長の目から、ボロボロ涙をこぼす。
「みんな、おかしくなっちゃった。うちだけじゃないよ。となりのおばさんも、学校の先生も、友達も……」
「なんで、こんなことになったの?」
「夜になると、何かが這ってるの」
「何かって?」
明鐘は首をふった。何者かの姿は見てないらしい。
「わかった。とにかく、ここにいては危険だ。君をおれの自宅まで送るよ。スイーツ作りの得意なお姉さんがいるから安心してくれ」
「うん……お母さんやお兄ちゃんたちはどうなるの?」
「君を送りとどけてから、もう一度、おれがここに戻る」
明鐘が自力で歩くようになったので、手を離し、コンビニの駐車場へとむかう。
少し日がかたむいてきた。影が長く路面に伸びる。日が短くなると、冬が近づいてきていることを実感する。
青蘭と出会って、ちょうど一年。あの燃えるような夕景の日がすべての始まりだった。
これから新しい一年が来ようというのに、もう、あの人はいない。
夕焼けを見ると、そんな感傷にひたってしまう。
あの日の出会いがあまりにも鮮烈だったから。
物思いにふけっていたせいで、異変に気づくのが遅れてしまった。我に返ったときには、周囲をかこまれていた。
小学校の表門から、大勢の子どもが出てくる。教員らしい大人もだ。全部で四、五十人はいた。目つきがおかしい。正気とは思えなかった。
坂はコンビニへ続く一本道だ。ここをふさがれると、車へたどりつけない。なんとか通りぬけたいところだ。
龍郎は右手をあげ、力をこめた。浄化の光が夕焼け空をも白く切り裂く。
だが、どうしたことか、変化がない。子どもたちは倒れることも消滅することもなく、こっちへ走ってくる。
(なんなんだ? なんで浄化できないんだ?)
戸惑う龍郎の背後に影が立った。悪魔の匂いが急激に強くなる。
ふりむくと、そこには岩崎が立っていた。ここまで追ってきたのだ。
ゆがんだ笑みを見せて、岩崎が眼帯を外す。その下から、ふいに長いトゲが伸びてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます