33. 運命
ディルの額の髪をかき上げ、空を映すその瞳をじっと見つめながら、アルヴィードはゆっくりと話し始めた。
「俺の生まれた里は三百年前、精霊と人間の最後の小競り合いで滅びた」
「え……三百年前……って?」
いきなりの突拍子もない話に、思わず涙も引っ込んだディルに、アルヴィードは苦笑して頷いた。
「その辺りのことはまた後で話すが、俺はたまたま出かけていて難を逃れた。だが、俺以外のすべての黒狼の同胞は精霊と人間の炎に焼かれ、影しか残らなかった」
淡々とそう語る表情には、憂いと悲しみの影はあったが、悲嘆するというほどでもない。彼にとってはもう遠い過去のことになっているようだった。
「ああ……そうだな。当時はただ自失していた。そして、呆然と村の焼け跡を眺めていた俺の前に、奇妙な精霊が現れたんだ」
その精霊は、彼に望みは何か、と尋ねたのだという。
「この世界にたった一人で取り残された俺は、望みなどないと答えた。黒狼は、他の種族とは交わらない。だから俺が最後の黒狼になるはずだった。だが、そいつは笑って頷いた後、俺を三百年もの間眠らせた。そうして目覚めた俺に、祝福を用意した、と言ったんだ」
そうして、狭間の世界へと送られた彼は、自分に用意されたその祝福というものが何かをずっと探していたのだという。
「お前と出会って、お前に惹かれた自分を自覚して、それでも迷っていた。全てを失ったはずの俺に、運命の相手なんて、そんな都合のいいものが本当に存在するのかと。万が一にもそれが存在するとして、あいつの手の内で踊らされているんじゃないか、と」
その言葉に、また微かに怒りが滲んだ眼差しに気づいたのか、彼は少し困ったようにディルの髪を撫でてから、続ける。
「
「封じられて……?」
尋ねると、一つ頷いた。
「お前を転移させたあの呪符はイングリッドが俺に預けたものだ。だが、呪符というのは基本的には魔力のあるものにしか扱えない。あれは特殊仕様だが、そうして世界の
「じゃあ、あなたはそのせいで人の姿に戻れなくなって、ずっと、三年間も獣のまま、私を探し続けてくれていたの?」
姿を変える生き物は、この世界では珍しくない。だが、共に過ごした間、彼の様子は人と変わらなかった。人と同じように食べ、眠る。だとすれば、いくら二形を持つとは言っても、人の姿に戻れず、獣の姿のままずっと過ごすことは、
しかも彼は魔力を持たないと言っていた。ならば、彼は本当に独力でディルを探し出し、辿り着いてくれたのだ。この広い世界で、たった一人。
「——運命なんて、知らない」
口から
「運命なんて、そんなの知らない。私はあなたの同胞でもない。でも、私はあなたに救われて、他の誰でもない、あなたにもう一度会いたかった。それだけが、私の生きる希望だった」
ぎゅっと彼の首にしがみつくように抱きしめて。
「何度同じ選択を迫られても、私はきっと同じことをする。だって——」
「もういい」
ディルの言葉を遮るように言われたそれは、だが否定ではなかった。アルヴィードはもう一度強くディルを抱きしめ、それから何かを諦めたかのように苦笑する。
「俺も同じだ。たとえこの想いが、運命とやらに起因するものだとしても、俺はお前を諦められなかった」
いつからその想いが変化したのかは、自分でもよくわからないのだと言う。初めは綺麗で哀れな子供だと、そうとしか思っていなかったはずなのに、と。
「お前が黒狼の姿の俺に縋って眠ったあの時から、たぶん、俺はずっとお前を守りたかった。お前が泣くなら、側にいて慰めるのは俺でありたかった」
耳元で囁かれる甘く優しい言葉に体が震えるほどの喜びを感じながらも、ディルはどこかで不安を感じる自分を自覚する。
安らぎや温もりを得たことがなく、それがずっと自分の側にあることを信じられない。だから、それを手に入れたその瞬間に、そのまま消えてしまいたいと、どこかでそう願っている。
そんな内心を見透かすかのように、するりと後ろに外套が敷かれたかと思うと、肩を押され、気がつけば強い金の双眸がじっとディルを見下ろしていた。
「ディル、俺を望め」
頭の脇に右手をつき、大きな左手の五指がディルの右手に絡められた。その手はひどく熱い。
「お前はずっと孤独に生きてきた。俺は、十歳の時に全てを失った。最後の黒狼として滅びるつもりだったが、お前と出会った」
鮮やかなその金の眼差しは、今はもう逃さないとでも言うように、ひたとまっすぐにディルの瞳に据えられている。
「あの森の中で、お前の命が尽きていくのをただ見ているしかできなかったあの時、俺は心底後悔した。そして、お前の側にいることが正しいのか、また、わからなくなった」
だが、と彼は続ける。何かの決意をその瞳に秘めて。
「もう迷わない。お前を守るのは俺だ。お前が望むだけ抱きしめて、側にいてやる」
それは、ディルへの言葉であると同時に、何かの宣言でもあるように聞こえた。どんな運命が待ち受けていようとも、立ち向かってみせる、と。
「……私は、この呪いですぐに死んでしまうかもしれない」
「そんなことはさせない。絶対にその呪いを解いてやる」
間髪入れないその返事に、だがディルはふっと表情を和らげた。同じような言葉を聞いたばかりだったので。
「ロイも、同じことを言ってくれたよ」
「……お前、この状況でそれを言うか?」
思い切り顔を顰めた彼に、ディルはさらに柔らかく微笑んで、それから彼が握りしめている手をぎゅっと握り返した。
「本当に、信じてもいいの?」
「ああ」
「本当に、ずっと側にいてくれる?」
重ねて問えば、微かに呆れたように、それでも強い眼差しがさらに近づいて、その言葉を告げる。
「ただ一人、お前を愛し、守ると誓う」
射抜くような金の眼差しと、あまりに率直な言葉に、ディルは思わず目を閉じた。そんな言葉をかけられる日が来るなんて、一度も信じたことがなかった。だが、握っている指が、そして触れている身体すべてから伝わる熱が、それが幻でも何でもないと伝えてくる。
眼を開ければ、わずかにその眼差しが甘く緩んで頬に暖かな手が触れる。近づいてくる端正なその顔に、それでも羞恥と戸惑いがどうしても湧き上がって思わず軽口がついて出た。
「……真実の愛の口づけは、どんな呪いも解くんだって」
「なら、なおさら試さないとな?」
今度こそはっきりと甘い笑みを浮かべた顔に、どきりと胸が高鳴った。そのまま早鐘を打ち始めた心臓に、どうしていいかわからず視線を逸らす。
「ずるい……」
「何がだ?」
「そんな顔されたら、もうどうしていいかわからなくなる」
拗ねた子供のようにそう呟くと、笑う気配が伝わって、頬に触れていた手がまっすぐに視線を合わせるように促した。そのまま、深く口づけられる。先日のそれよりは、ずっと優しく、それでも何かを刻み込むような。
唇が離れた後、間近に迫っているその瞳は、はっきりと熱を宿していた。
「ディル、お前が欲しい」
何のためらいもなくそう告げてくる金の双眸に、どこか腰が引ける自分を感じながらも、それでも気がつけばその頬に手を伸ばしていた。
「呪い、まだ解けないよ?」
触れる手と、絡みつく蔦のような黒い文様にちらりと目をやってから、アルヴィードは蕩けるように甘く、そして獰猛な笑みを浮かべた。
「なら、解けるまで、お前に刻み込んでやる」
——どれほど、俺がお前を愛しているかを。
絡めとるようなその強い視線と伝わる熱に逆らう術を、ディルはもう持たなかった。
何より彼女自身が、それを望んでいたから。
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