Ch 6. True Love break any Curse
32. 罠と襲撃
屋敷を出て、何かに惹かれるようにして森の中に入る。みっしりと葉の多い木々が頭上を覆うその森は薄暗く、不思議と鳥の声も獣の気配も何もしない。森自体の息吹は感じられるのに、生き物たちはしんと息を潜めているような、そんな感じだった。
ぞくりと背筋が震え、引き返した方がいい、という声が聞こえた気がした。それでも足は止まらなかった。まるでどこかに導かれているように、むしろ速度を上げて、森の奥へと進んでいく。
進んだ先には大きな滝があった、遥か高いところから流れ落ちる水は、大きな泉を作っている。なのに、なぜかその場は静まりかえっていた。その水の勢いを思えば、あたりの音を全てかき消すほどの轟音を立てているはずなのに。
不思議に思いながらも、ディルは何かに呼ばれているように、さらにその滝に近づいていく。自身は気づいていなかったが、その呼び声は黒狼と別れたあの森の中のそれと、同じ響きを宿していた。案の定、滝のすぐ側に淡く輝く結晶が見えた。それは、あの森のものほど大きくはなく、滝の岩壁に埋め込まれた小さな欠片だったが、それでもディルはぼんやりとしたままそれに手を伸ばす。
止める者のないまま、ディルがそれに触れた瞬間、その結晶が淡く輝いた。と、同時に、いつかも聞いた、美しいのに身の毛もよだつような歌声が響いた。振り返った先に、丸い闇が開いてそこから美しい金の髪と、紫水晶のような瞳を持った精霊が滑り出してくる。ふっとその闇はすぐに消え、続いて出てくる様子はなかったが、その精霊はディルを見とめると、にこり、と嬉しげに微笑んだ。
「ようやく見つけた」
「お前、は……」
「ふむ、そなたの時はずいぶん
言って、三日月の形の鎌を持ち、ゆっくりと近づいてくる。ふわりとまるで宙に浮いているような静かな動きだった。あるいは本当に浮いているのかも知れない。その美しいけれど、どこか虚ろな眼差しに捕らえられ、ディルは身動きが取れなくなっていた。
「世界から存在を
美しく白い手が握る鎌が三日月そのもののように輝き、ディルに向かって振り下ろされる。目を閉じることもできずに、ただ呆然とそれを見つめた。
その刃が届く寸前、疾風のように黒い影が立ちはだかった。
黒味がかった刃が煌めき、今にもディルに届こうとしていた鎌ごと、狩人の腕が斬り落とされる。狩人に向けられる金の双眸は、触れれば切り裂かれそうなほどに鋭い光を浮かべていた。
だが、精霊は驚いたような顔をしただけで、平然とこちらを見返してくる。
「おや、そなたはてっきり、その子を諦めたものかと」
「馬鹿を言うな! なぜ今さらお前がここに現れる!?」
「そなたとてわかっておろう。『盟約』を破ったものは死すべき定め。それが世界の
「勝手なことを抜かすな!」
叫びながら、アルヴィードが苛烈な眼差しで剣を振るう。その剣は、精霊の胴を切り裂いた。だが、精霊はただ静かに微笑んでいる。その傷口から一滴の血も流れていないことに気づいて、アルヴィードが唖然としたように目を見開く。
「お前たちは一体……」
「知らなかったのかえ? 我らは精霊の、そのなれの果て。いくら黒鋼の刃でも、我らを傷つけること
そう言ったそばから、切り落とされたはずの腕が、ふわりと幻だったかのように元通りになり、その手に鎌が握られる。切り裂かれたはずの胴も、元通りになっていた。
「馬鹿な……不死だとでも言うつもりか⁈」
「
嘲るようにそう言った精霊に、だが、アルヴィードは不敵な笑みを浮かべた。何かを見つけたかのように。
「なるほど、そういうことか」
そう言って、ちらりとディルの方を振り返る。その表情にはわずかに何かをためらうような色があった。それでも、すぐに諦めたような苦笑を浮かべて、そしてふっとその姿が
そこに現れた姿を見て、ディルは思わず目を瞬いた。自分で見たものが信じられずにただ呆然としていると、黒い獣が笑ったような気がした。だがすぐに、狩人へと向き直り、しばらくじっと何かを探るように見つめた後、目にも止まらぬ速さでその左腕に食らいつき、引きちぎった。それから何かを噛み砕くような音がしたかと思うと、ぺっぺと吐き出す。
視線を戻すと、狩人が驚愕と苦痛に満ちた表情を浮かべていた。
「馬鹿な——黒狼の姿でなら見えるとで……も……!?」
なおも言いかけた言葉は、だがもう言葉にならなかった。美しかったその顔が急速に皺で覆い尽くされ、その姿全体が
呆然と見つめる前で、美しかったその姿は跡形もなく全てが灰となって、風にさらわれていった。残されたのは、大きな鎌と黒い獣が吐き出した透明な結晶だけだった。
「何だ……あれ……」
ぺたりとその場に座り込んだディルに、黒い獣が近づいてくる。金の双眸がじっとこちらを見つめ、何か言いたげにその顔を首筋に擦りつけてきた。まるでただの獣のようなその仕草に、張り詰めていた何かも解けていってしまう。
「ずるい」
その首を撫でていると、不意にその姿がまた陽炎のように揺らぎ、柔らかかった毛並みから筋張った硬い感触に変わる。
「何がだ」
目の前に現れた精悍な——しかも一糸纏わぬその姿にさすがに戸惑って、自分の外套を差し出すと、肩を竦めて笑って羽織る。それから立ち上がって、自分の服を回収し、手早く身支度を整えた。そうした状況にも慣れているらしかった。
そうして、ぺたりと座り込んだままのディルの前に膝をつく。
「何がずるいんだ?」
そこには、先日の熱に浮かされたような狂おしい光も、戸惑う色もなかった。ただ、何か憑き物でも落ちたかのようなさっぱりとした顔で、温かい手を頬に伸ばし、獣の姿の時と同じように首筋に顔を寄せてくる。柔らかな黒髪が頬に触れて、その柔らかさと、触れる唇の優しい動きに、ディルの目から涙がこぼれ落ちた。
「……ずっと、待ってた」
その胸元を掴んで、拳を叩きつける。硬い筋肉に包まれた体の前では、むしろディルの手の方が痛んだけれど。
「アルヴィードの、馬鹿」
情けないほどに震える声で、拳を叩きつけながら繰り返す。
「ずっと……ずっと待ってたのに! 約束したくせに……!」
来てくれて、嬉しかったのだと、それこそが伝えなければならないのに、その想いは言葉にならなかった。けれど、アルヴィードはそんなディルを強く抱きしめた。まるで全て分かっているとでもいうかのように。その力強さに、さらに涙が溢れる。
「なのに、訳のわからないことばかり言って——!」
「ディル」
「あなたがいない世界に意味なんてない。それは私の本心だよ。初めて私を助けてくれたあなたに、そばにいて欲しいってそう思った。でも、迷惑だったのなら、ただそう言えばよかったのに」
——そうしたら、もっと早くにこんな命なんて捨ててしまったのに。
そんなことは言うべきではないと、そうわかっていても言葉は止まらなかった。
もっとずっと幼い頃、ルドウィグに傷つけられたあの時に、もう期待することはやめようと、そう決意した。その決意を
期待すればするほど、待ち続けるだけの三年という年月は、それまでの日々よりも遥かに辛かった。なのに、それだけを頼りに生き抜いた、この想いがただ一方的な勘違いだというのなら——。
なおも叫ぼうとしたディルの耳に、低く柔らかい声が届いた。
「悪かった」
目を向ければ、常には強い光を浮かべている金の双眸が、揺れていた。
アルヴィードは、怒りのあまり
それでももがこうとするディルを、アルヴィードはもう一度強く、けれど優しく抱きしめた。宥めるように背中を撫で、髪に唇を寄せる。
「お前を怯えさせて、傷つけたことは本当に悪かった」
一つ呼吸をおいてから向けられた眼差しは、それでもまた強い光を取り戻していた。何か、大切なことを告げようとするように。
「俺は、ずっとお前を探していた。お前と出会うよりもずっと前から。だが、それが本当に俺の望みなのか、ずっとわからなかったんだ」
その表情は穏やかなのに、なぜか同時に深い悲しみを宿しているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます