26. Missing link 〜黒狼〜 #3(アルヴィード)

 昏々と眠り続けるディルの顔は、まるで息をしていないかのように蒼ざめている。微かに銀の睫毛が震えるたびに、彼は今度こそはと腰を浮かせたが、わずかに眉を顰めるばかりで、三日経った今も目を覚ます気配はなかった。


 ディルが彼を庇って銃弾を受けたその時、彼はその身を抱き留めて、流れ出す血を見ているしかできなかった。撃った男を始末した——後で確認したところ、その男は首を落とされて絶命していた——ロイが血相を変えて駆け寄ってきて、ディルの傷を確認すると、ひとまず押さえつけて止血し、それから彼を睨みつけるようにして叫んだ。

呪符じゅふは⁉︎」

「何……?」

「あいつ——イングリッドのところにいたんだろう! あいつのところに跳ぶ呪符か、あいつを呼び出すような物を何か持っていないのか⁉︎」


 どうやらあの魔女の知己ちきらしいと悟って、それからぼんやりする頭を振って、懐から呪符を取り出す。それは、彼があの魔女の元から送り出される時に手渡された物だった。必要になるかもしれないから、と。かつて、ディルと出会う前に渡されたのと同じように。


「召喚の呪符か……俺より先見視さきみの能力があるんじゃねえのか……」

 ぼそりと呟いた声はそれでもどこかほっとした様子で、すぐにロイはその呪符を握って何か一連の音を呟いた。その瞬間、呪符の文字が浮かび上がり、光と風を巻き起こす。

「あら、一刻を争うようね?」

 現れた女は一目で状況を悟ったのか、時を無駄にしなかった。すぐに彼ら全員を自分の館に転移させ、そしてロイと共に治療にあたった。黒鋼くろはがねの弾丸で撃ち抜かれたその傷は、魔法では癒せない。傷を塞ぎ、流れ出る命を何とか堰き止めて、あとは本人の生きようとする力に賭けるしかない。


 何とか一命を取り留めたが、ディルは目を覚まさない。死んだように深く眠るその寝顔をただ見つめながら、彼はこの状況を考え続けていた。


 初めて会った時、ディルは少年たちに蹂躙じゅうりんされようとしていた。その後、イェルドに引き摺り込まれ、さらには、その残党から彼を守るために、世界にかけられた呪いをその身に受けた。

 やむなく呪いの遂行者である狂った精霊——狩人たちから守るため、どこへともわからぬ場所へ転移させた。そして、ようやく見つけたその時には、自らの腕を切り裂いて、死にかけていた。


 彼と関わるほどに、ディルは危機と死の影を濃くするように思えた。


「お前のせいだぞ」

 自身の声が漏れ出たのかと思った。目を上げれば、険しい顔をしたロイが立っていた。

「何のことだ」

「三年も待たせた挙句、お前を庇って死にかけた。それだけじゃない、その腕の呪いも——」

 言いかけて何か痛みを感じたかのように顔を顰める。

「……いや、それは俺の責任か」

「どういうことだ?」

 尋ねた彼に、ロイはただ首を横に振る。ゆっくりと歩み寄ってきて、静かに眠るディルを見下ろし、まっすぐに彼を睨み据えるように見つめる。

「こっちの話だ。それにしたって、いくらなんでも苦難が多すぎる。それでなくとも生まれてすぐに狭間の世界で捨てられて、挙句、お前を守るために呪いを受けた。こっちの世界では、常に安らげる場所もなく、自らの腕を切り裂いて死のうとするほどに追い詰められていた」


 常には飄々とした色を浮かべていた青紫の瞳が、今は燃え上がるような怒りを浮かべている。激怒しているといってもいいほどに。


「お前が、のんびり獣の姿でふらふら彷徨さまよっていたせいで、この有様だ」

「それは——」

「そんな気はなかったなんて言うなよ? お前はイングリッドの知り合いだった。なら、たとえ魔法が使えなくても、ここにくればその姿を取り戻すことも、少なくともディルへの手がかりをもっと早く手に入れることができることを知っていたはずだ。どんな理由があったかは知らん。だがお前は三年も無駄にして、そして挙句、同じことをこいつに繰り返させたんだ」


 満足か? と苛烈な瞳でロイは問うてくる。


「何が……」

「運命とやらの相手が、まんまとその運命に囚われて、お前のために二度も命を投げ出すのを見て、それで満足か⁉︎」

「言い過ぎよ、ロイ」

 今にも掴みかかってきかねない勢いでそう言ったロイに、静かな声がかけられた。振り向くと、イングリッドがいつも通りの艶やかな笑みを浮かべて部屋に入ってくるところだった。だが、どこかその表情には常にはない翳りがあるように見えた。

「怪我人の枕元で大喧嘩なんて感心しないわ。いくらあなたがその子に心惹かれていて、早く目覚めて欲しいと思っていても、ね?」

「俺はそんな話をしているわけじゃ——」

「どちらでも同じことよ。けれど、そうね。ねえアルヴィード、はこの子とあなたの『運命』について、何か言っていなかった?」

「何か、とは?」

 尋ね返した彼に、イングリッドはその顔に今度ははっきりと憂いを浮かべる。長い金の睫毛が伏せられ、緑の瞳がどこか遠くを眺めたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……何か、期限のようなことを口にしていなかったかしら?」

「期限……?」


 ——三年くらいかな。


 ふと、脳裏に涼やかな声が蘇る。同時に、心をどこかに置き忘れたかのような、凍りついた眼差しも。


「まさか——」

「心当たりがあるのね?」

 イングリッドは何かを憐れむような顔で彼とディルを交互に見つめた。話についていけていないロイが、それでも何か不吉なものを感じたかのように顔を顰めて腕を組んだまま、先を促す。

「どういうことだ?」

「……あいつは言っていた、あいつが用意するのは運命であって宿命じゃない。だから、もし俺が本当にそれを望まないのなら、押し付ける気はない、と」

「あの人は正確に、なんて言ったか覚えている?」

「君が私の『祝福』に出会ってもなお、それを望まないなら、その祝福は消える。それでいいだろう? と」

 その言葉に、イングリッドだけでなく、ロイもまた愕然としたような顔をする。それから、イングリッドに向き直り、しばらく迷うように視線を彷徨わせてから、組んでいた腕を解き、白くなるほどに拳を握りしめた。

「イングリッド」

「なあに?」

「あの人、というのはアストリッドのことだな?」

「……ええ」

 知り合いだったのか、と目を見開いた彼に、だがロイはさらに厳しい表情になる。怒りというよりはもっと複雑な——それは、ほとんど絶望しているような。

「なら、それは祝福なんかじゃない——呪い、だ」

「何だと?」

「お前に用意された祝福というのがディルのことだというなら、あいつは、アストリッドはおそらくは無意識のうちにディルに呪いをかけたんだ」

 曖昧な言葉はだが、途方もなく不吉な予感を呼び起こした。ロイは、昏い目をしたまま続ける。

「お前が彼女と出会ってから三年が過ぎた。そして、その間にお前が本当に彼女を望まない——少なくとも世界あいつがそうと理解できるほどには、お前がディルを愛した証がない、だから……」

 顔を上げ、彼をまっすぐに見つめた青紫の瞳には苛烈な光と、そして苦悩の翳が浮かんでいた。半ば顔を隠すように右手で前髪を掴みながら、ロイは絞り出すように続けた。

「あいつの力は今や世界中に張り巡らされている。だとしたら——これは、お前のせいじゃない」

「どういうことだ?」

 ただ問い返すことしかできない彼に、ロイはふと泣き笑いのような、今まで見たこともないような弱々しい表情を浮かべた。

「これは、俺のせいだ。俺が浅はかにあいつにあんなことを願ったばかりに、今、ディルは死にかけてる」

 何かがおかしいと思ったのだ、とロイは続ける。

「あの森の泉で、ディルは何かに惹きつけられるように月水晶に触れようとしていた。あれに触れていたら間違いなく狩人たちがやってくると、知っていたはずなのに」

 まるで、何かに操られているかのように。

「いつも夜眠る時にうなされているのも、お前がいる時だけ落ち着いたように見えるのも、すべてがその呪いのせいだというのなら、納得がいく」

 苦しげに眉根を寄せたまま、まっすぐに彼を見つめて続ける。

「盟約を違えた者を死に至らせる呪いは、世界にかけられた汎用的なものだ。だが、そこに、お前への祝福の破棄という別の呪いねがいが上乗せされた。ディルは常に世界から脅かされている」


 ——つまり、世界がこの世から彼の祝福ディルという存在を消そうとしているのだ、と。

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