25. Missing link 〜黒狼〜 #2(アルヴィード)

「お前の策ってのは結局どうなってんだ?」

「もう完璧に配置済みだよ」

「お前の完璧なんて全然当てにならないんだよ。信用できない」

「散々な言われようだねえ」


 何やら言い争う声で目が覚めた。寝かされていたのは、広い豪奢な寝台の上で、何が起きたのか理解できずに、彼はしばし呆然とする。

「ああ、目が覚めたかい?」

 こちらに近づいてくる人影を見て、思わず目を見開いた。淡い金髪に記憶にある通りの薔薇色の一対、だが、その身体は柔らかく丸みを帯び、胸元には豊かなふくらみがある。

「……あんた、女だったのか」

「ああ、君と会った時はまだ未分化だったからね。必要に応じて分化したんだが、この身体が気に入ったかい?」

「分化……?」

「君さえよければ、私が相手をしても構わないよ?」

「ガキ相手に何言ってんだ、この変態」

 後ろから歩み寄ってきたのも、見覚えのある青年だった。

「ひどいな、彼だってすぐに大きくなるだろう」

「せいぜいまだ十歳くらいだろう? 少なくともあと五、六年はかかるだろう、どう見ても」

「……話が全く見えないんだけど」

 そう問いかけると、アストリッドはにこりと微笑んだ。

「端的に言えば、君のために祝福を用意した。ちなみに君が眠ってからおよそ三百年が経っている」


 一瞬、言われたことを全く理解できなかった。特に後半部分。


「何……だって……?」

「だから、大戦が終わって、三百年後に君は目覚めた。特に縁者もいないから問題はないと思うけれど、何かあるかい?」

 部屋の奥にある鏡を見る限り、自分の容姿に変化はないようだった。そして目の前の二人も、アストリッドの性別が変わっているのと——それだけでも十分な変化だが——服装以外は、眠る前と変わったところはないように見える。

「何かの冗談か?」

「残念ながら、本当だ」

 口を挟んだのは、藍色の瞳の青年の方だった。ひとつため息をついてから、寝台の横に腰かけて、まっすぐに彼の眼を見つめる。

「アストリッドがかけた術はお前を深く眠らせ、ついでにその時を止めるものだった。さすがは黒狼だな、あいつでさえ、術を完遂するのに丸一日かかった」

 見事な毛並みだな、とどうしてだか感心したように呟く。

「……まさか」

「眠っている間は獣の姿だった。そうでもしなければ、抑えきれなかったんだろう」


 彼の一族は二形を持つ。黒い狼と、人の姿だ。どちらが本性というわけでもなく、どちらもが自然な形だが、特に強い呪いを受けた場合などは、獣形になってしまうことがある、というのは聞いたことがあった。


 それを聞いて、自分が一糸纏わぬ姿である理由がわかった。

「……服、寄越せ」

「はいはい、今持ってくるよ」

 どこまでも軽い口調で答える絶世の美女に、彼は何度目かの深いため息をついた。


 着替えを済ませると、アストリッドは窓際のテーブルへと彼を誘った。そこには食事が用意されていた。

「三百年ぶりの食事ということで、腕を振るってみたよ」

「……あんたが作ったのか?」

「そうだ。料理は好きなんだ」

 得意げにそう言う表情はどこまでも明るい。その美貌だけ見れば、惹きつけられてもおかしくないはずなのに、ちぐはぐな言動のおかげで全くその気にもならない。

「ああ、私に魅力を感じないって思っただろう」

 率直な言葉に頷くわけにもいかず顔を顰めた彼に、アストリッドは天を仰ぎながらも楽しげに笑っている。

「どうしてこんなに伝わらないのかなあ」

 そこへ、冷ややかな声が追い打ちをかけた。

「お前の愛は広範に歪みすぎだ」

「あなただって変わらないじゃないか。今だに恋に落ちたこともないだろう」

 軽やかに笑ってそう言われ、藍色の瞳の青年がぐっと言葉に詰まるのが見えた。恐ろしくおかしな状況だと言うのに、この信じられないほど和やかな雰囲気はいったい何なのだろうか。彼のため息に気づいたのか、青年の方が肩を竦める。

「気にするな。こいつは精霊の中でもっとも変人だ。まともに付き合ってると気が狂うぞ」

「そうだねえ、これだけ長く付き合って正気でいてくれるのは、イーヴァル、あなたくらいなものかもしれない」

 にこにこと笑うアストリッドに、イーヴァルと呼ばれた青年は心の底から嫌そうな顔をしていた。


 食事をしながら、アストリッドは大雑把に状況を説明した。曰く、大戦からおよそ三百年が経っていること。人間の兵器と精霊たちの歪んだ魔力によって疲弊し汚染された大地と海は、彼らの努力によってほぼ元の姿を取り戻していること。二度と同じような戦を起こさないため、世界を三分したこと。

「無茶苦茶だな……」

「それでも、今この世界でもっとも優秀な先見視さきみによれば、それが最善手なのだそうだ」

「本当かよ……」

 疑いの眼差しで見つめた彼に、アストリッドは両肩を竦めて笑う。

「少なくともあれから大きな戦は起きていない。あちこちでいざこざはあるし、全員が幸福かと言えば、そんなことはないけれど、まあだよ」


 何が幸福なものか、と彼は内心で思う。大地と海が回復しても、失われた命は二度と戻らない。彼が、未来永劫孤独であることにも変わりはないだろう。


 そんな彼の表情を読んだように、アストリッドが今度は不意に柔らかく微笑んだ。それから、子供が大切な秘密を話すように、声を潜める。

「さっきも言ったが、君のために祝福を用意した。準備ができたら『狭間の世界』へ行っておいで」

「祝福……?」

「詳細は秘密だよ。運命というのは、思いがけなく目の前に現れるもの、と相場が決まっているからね」

 何が楽しいのか、にこにこと満足げに笑んでいる。

「……花嫁でも用意してくれたってのか?」

 険しい眼差しでそう尋ねた彼に、だがアストリッドは、目を丸くして首を傾げる。

「おや、鋭いね。でも、それは秘密だと言っただろう?」

「何だか知らないが、あんたに運命とやらを押し付けられるのなんてまっぴらごめんだ」

 はっきりと怒りを露わにしてそう言った彼に、アストリッドは表情を改める。

「私はただ祝福を用意しただけだよ。君が本当にそれを望まないのなら、きっと出会う事もないだろう」

 けれど、と静かな眼差しのまま、言葉を続ける。

「もし出会ったとしても、それでも君が望まないなら、二度と君を煩わせることのないようにしておくよ」

「どういう意味だ?」

「……三年くらいかな?」

「だから、何がだ⁈」

 曖昧な言葉に流石に苛立ちを感じて声を荒らげた彼に、だがアストリッドはどこか感情の読めない冷たい眼差しを向けてくる。

「君が私の『祝福』に出会ってもなお、それを望まないなら、その祝福は消える。それでいいだろう? 私が君に用意したかったのは運命Destinyであって宿命Fateじゃない。君が望まないのなら、押しつける気はないよ」


 その薔薇色の一対は美しいのに、今はどこかに感情を置き忘れたような凍りついた色をしていた。その硝子のような瞳にぞくり、と背筋が冷えた。

「アストリッド、お前、何を考えている?」

 藍色の瞳の青年がその肩に手をかけて厳しい表情をしている。その顔を見て、ふとアストリッドの表情が和らいだ。つくりものめいた色が消え、元の飄々とした軽やかな笑みを浮かべる。

「いや、大したことじゃないよ。でもそうだね、あなたがそうやっていつも叱ってくれるから、私は正気でいられるのかもしれない」

 それから、そうだ、と彼女は続ける。

「あなたには、別に頼みたいことがあるんだ」

 そう言って彼を見上げるアストリッドの顔には深い信頼の色が窺えた。だが、青年はただひたすらにうんざりしたような表情を浮かべる。

「断る」

「聞いてもみないで?」

「お前の頼み事なんて、厄介事でなかった試しがあるか?」

「それを言われると困るねえ」


 和やかな会話をよそに、結局彼はその青年——イーヴァルと共に狭間の世界へと渡ることになった。だが、彼と共に過ごしたのは初めの数年だけで、その後は何かに呼ばれたらしく、突然消えてしまった。

 元々こまめに世話を焼いてくれるような男でもなかったし、彼も一人で生きていくことにさほど不便を感じることもなかったから、その身体能力を活かして、傭兵まがいの警護や、遺跡発掘という名の盗掘など、さまざまなことに携わって生きてきた。狭間の世界は荒れており、天涯孤独の身の上になってしまった彼にとっては、同じような境遇の者たちが多いその世界は荒んではいても、却って都合がよかった。


 そして、呆れるほど長い時を経て、確かに彼は、そこで運命に出会ったのだ。

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