7. 救いの手

 森の中で浮かび上がる、外套の下まで全て黒の装束は明らかに普通ではなかった。男は感情の読めない静かな顔のまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。ディルも含めて、誰も身動きができなかったのは、その手に黒光りする大きな銃が握られていたからだ。


 間近に立ったその男は随分と背が高い。短い黒い髪に、鮮やかな金の瞳が目を引く。頬にはいくつもの傷があり、その身体には筋肉が無駄なくついて引き締まっている。隙のない身のこなしは、いかにも戦い慣れた様子だ。傭兵か何かだろうか。


 彼はディルとラーシュの前にしゃがみこむと、ごく自然な動きで少年の額に銃を突き付けた。

「いいか、坊ちゃん。力で誰かをねじ伏せようとするなら、自分も常にねじ伏せられる側に回ることがあるってことを、忘れるな」

 そう言って不意に笑った顔は、一見人懐っこくさえ見えるのに、その眼だけがその印象を裏切っていた。知らず背筋が冷える。

「お、俺……は……」

「失せろ」

 低く言い捨てられて、ラーシュだけでなく、エイリークと呼ばれた少年も弾かれたように逃げ出した。ルドウィグだけはまだその場に留まっていたが、男は立ち上がると彼に銃を向ける。

「お前もだ」

 冷ややかな眼差しと声に、ルドウィグはなおも何かをためらうようなそぶりを見せたが、男が引き金に指をかけたのを見て、あとずさると背を向けて駆け出していった。


「さて」

 男は銃を下ろすと、いまだ両腕を拘束され、吊り下げられたままのディルの方に向き直る。その姿をまじまじと見つめてニヤリと笑った。

「悪くない眺めだが、俺好みに育つにはあと五年はかかるかな」

 言うほどには視線に悪意や欲望を感じなかったが、羞恥に身じろぎすると、男は笑みを消して近づいてくる。思わず身を固くしたが、彼は小さく首を振って懐から短剣を取り出すと、縄を切り、そっと外套でディルを包み込んだ。

「大丈夫か?」

 何か大切なものでも扱うかのようなその優しい手つきに、ディルの中で凝っていた何かが溶け出しそうになる。震える体を何とか制して、抱きすくめられるような形になっていた男の胸を手で押した。

「……平気。どうして、助けてくれたの?」

「どうしてって、あんな現場を見れば普通は手を出すだろう?」

 少し驚いたように目を見開いた彼の顔を、ディルはぽかんと見上げた。その表情に、男は怪訝そうな目を向けてくる。

「何だ?」

「今まで、誰も助けてくれる人なんていなかった」

「一人も、か?」

 頷くと、男は戸惑ったように眉根を寄せる。何か、面倒ごとに首を突っ込んでしまった、とでもいうように。ディルはぎゅっと自分を包む外套を握りしめて立ち上がる。そこからふわりと何だか甘いような辛いような匂いが立ち上って、その香りになぜだかくらりと目眩がした。

 慌ててその外套を剥ぎ取って男に押し付けて、そのまま駆け出そうとすると後ろから腕を掴まれた。


 思いの外、強い力に小さく声を上げると、男は慌てたように力を緩めたが、握った手は離さない。

「待てよ、どこに行くつもりだ?」

「帰る」

「礼もなしか?」

 じっとこちらを見据えるように向けられる金の眼差しは強く恐ろしいのに、なぜか目が離せず、ディルは見惚れて動きを止めてしまう。男はもう一度外套を広げると、ディルを包み込んで引き寄せた。

「な……っ!」

「そんな格好で歩き回ったら、またあいつらみたいな連中に絡まれるぞ」

「あ、あんただって」

「言っただろう、子供に手を出す趣味はねえよ」

「子供じゃない」

「何言ってんだ」

 呆れたように言うその顔には、ありありと困惑が浮かんでいて、だからディルはもう一度その腕から抜け出そうともがいたが、むしろもっときつく抱きしめられた。背中が折れてしまうのではないかと思うほどに。

「逃げるな」

「あんたには、関係ない」


 誰もディルを救ってはくれなかった。気まぐれで、今はこの名も知らない男が助けてくれたとしても、次にまたラーシュやルドウィグたちに会ったときに、彼が助けてくれるとは思えない。


「俺は、一人で生きていく。だから、いらない」

 自分に言い聞かせるようにそう宣言する。そうやってディルは一人で生きてきた。だから、大丈夫だとそう呟いている側で、深いため息が聞こえた。ぐいと顎が持ち上げられて、見上げた金の双眸がなぜが滲んで見えた。

「助けて欲しいなら素直にそう言え、ガキが」

 言った声はこれ以上なく冷たく不機嫌そうなのに、頬に触れた手がひどく暖かい。それが濡れていることに気づいて、ディルは呆然とする。

「泣きたいときに泣くのは、子供の特権だろうが」

 柔らかく髪を撫でた手の温かさに、ディルはついに堪えきれずに嗚咽を漏らした。


 

 どれほどそうしていたのか、ふと何かの甘い匂いで意識が浮上した。どうやら、あのまま眠ってしまっていたらしい。目を開けると、間近に先ほど自分を抱きしめていた男の顔があって、思わず息を呑む。今は眠っているらしいその顔は、無精髭が気にはなるものの、総じて端正といえる。きっと街に出れば女たちが放っておかないだろうと思えるほどの。

 しばらくその顔に見惚れ、ややして我に返って、ようやく自分が寝台の上に横になって、その男に抱きしめられていることに気づいた。

 泣きじゃくって、抱きしめられたまま眠ってしまうなんて、まるで幼い子供そのものだ。それでも身を包む温もりはひどく心地よくて、早く抜け出さなければとわかっていても、体が動かない。先ほど、ラーシュに触れられた時は、ただ背筋が震えるほどに不快だったのに。


 ためらっているうちに、耳元で低い声が聞こえた。

「起きたのか」

 間近に見上げた金の双眸は鋭いが、そこに浮かぶ光は先ほどより随分と和らいでいる。どうしていいかわからず、ぼんやりとその顔を見つめていると、その顔が近づいてきた。

「お前の瞳、そんな色だったか?」

 孤独に生きてきたディルにとって、これほどに誰かと近づくのも初めてのことだった。早鐘を打ち始めた心臓に戸惑いながらも窓の外に目を向けると、空は薔薇色に染まっていた。その視線の先を追って、男は驚いたように声を上げる。

「空の色を映して変わるのか」

 言って、顎をすくい上げられる。

「おもしろいな。お前、種族は何だ?」

「知らない」

「知らない?」

「生まれてすぐに、『祈りの家』の前に捨てられてたって」

「何の手がかりもないのか?」

 顔をしかめた相手に、ディルはただ小さく首を振る。わかっているのは、この空の色を映して刻々と変化する瞳と、男女両方の性の特徴を備えていること、それから、わずかに水を操る魔力があること。故に、人間ではないだろうということだけだった。

 容姿は限りなく人間に近いし、魔力の弱さから、人間と何か他の種族の混血ではないかと言われてはいた。性に関しては、いずれ成長するにつれて、どちらかに「分化」する可能性が高いであろうとも。


「そうか……。それにしても、この匂い、何だ?」

 首筋に顔を寄せてそう尋ねてくる。同時にディルも先程からふわりと香っている甘いような辛いような複雑に絡み合った匂いが、男から漂ってきているのに気づいた。

「匂いって、甘いのと辛いのが混ざったみたいな? あなたからしてるんじゃないの?」

 言って、その匂いの元をたどるように、大きな肩に手をついて首筋に顔を寄せると、男がびくりと体を震わせた。ほんのわずか、その瞳に何かに酔ったような熱が浮かぶ。肩に置いていた手を握りしめて、顔が近づいてくる。


 強い金の双眸に魅入られたように見惚れていると、だが、唇が触れる寸前になって、我に返ったかのようにその目が見開かれ、男はぱっと身を離して寝台から下りた。それからがしがしと黒髪をかき回している。

「……まったく、これじゃああいつらを笑えねえな」

「そういえば、何で隣で寝てたの?」

 もしや、だろうか、とほんのわずか眉根を寄せたディルに、彼は心外だというような、あからさまなため息を吐いた。

「言っただろう、子供に手を出す趣味はねえよ。お前が俺の服を握って離さなかったんだよ」


 ため息混じりに言われた言葉に、記憶にないその行為に羞恥が湧き上がったが、今さらどうしようもない。離れていくその背中に、声をかけようとしてまだその男の名前も知らないことに気づいた。


「名前」

「あ?」

「名前、まだ聞いてない。俺は、ディル」

「ああ、アルヴィードだ。お前、自分のことっていうんだな」

「だって、女じゃないから」

「でも、男でもないだろう? どっちかっていうと女に見えるぞ……って、それで苦労してるからか」

 アルヴィードと名乗った男は、寝台の横に立ってくしゃりとディルの銀色の頭を撫でる。それはまるで子供にするような仕草で、その瞳から先程の熱を浮かべたような色は消えていた。こちらを見下ろす眼差しの優しさに、どうしてだかまた目元が熱くなって、視線を逸らしたとき、ばん、と大きな音を立てて部屋の扉が開いた。


「アル、いるか——って何その子供? あんたそんな趣味あったっけ?」


 目を向ければ、燃えるような赤毛の男が、扉の前で目を丸くして二人を見つめていた。

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