第106話 騒乱過ぎ去りて ①
声が聞こえた。
二人の男女のものである。エイダンの記憶にはない声だったが、奇妙な事に、ひどく懐かしく感じた。
――ああ、ライアン。
若い女の声が弾む。
――エウェル、どしたん?
応じるのは男の声だ。
――今、お腹の子が動いたわぁ。元気じゃなあこの子は。
――おお、ええ事じゃなぁか。そろそろ名前を考えちゃらんとな。男の子かいな、女の子かいな。
――うち、二つ考えたんじゃけどね。女の子じゃったら、母さんから名前貰うて、『ブリジット』はどがぁかあて。
――うん、ええな。もう一つは?
――男の子じゃったら、名前は『エイダン』……
◇
エイダンは目を開けた。
長い間、とても穏やかな心地で夢を見ていた気がする。内容はさっぱり覚えていないが。
視界はまだぼんやりとしている。ただ、柔らかな陽射しだけを感じた。
誰かがエイダンの顔を覗き込み、「あっ、患者の意識が戻りました!」と高い声を上げた。それからすぐさま、数名の人間に取り囲まれる。
まとったローブからして、今エイダンの傍らに立つのは魔術士、それも首都の治療院に勤める上級
何度かゆっくりと瞬きを繰り返すうちに、周囲の景色が輪郭を鮮明にし始めた。
ここはどうやら、治療院の病室のようだ。エイダンはベッドに寝かされているらしい。
身を
そこに、どやどやと大勢の足音が近づいてきた。何事かと思っているうちに、部屋の中にその音が飛び込んでくる。
「エイダン!」
「目が覚めたか!」
「エイダン兄さん!」
複数の言葉が一度に浴びせられたが、どうにか聞き取れたのはそれだけだった。シェーナとフェリックスと、イーファの声だ。
室内に入って来たのは、シェーナにフェリックスにイーファ、ハオマ、マディ、ホウゲツ。それにやや遅れて、ラメシュとタマライ。ミカエラとハリエット、更にはエドワーズまで顔を見せた。
そしてエドワーズに連れられて現れたのは、祖母ブリジットと、ロイシンとキアランの三人である。
これには、エイダンはぽかんと目と口を開く他なかった。
「え……?」
思わず、そう口に出す。妙に喉が枯れていて、掠れ声しか絞り出せなかった。
「ばあちゃ……ロイ……なんで……ここ、どこ?」
途切れ途切れになりつつも、エイダンは部屋中にぎっしり詰まった人々に向けて問いかける。
「ダズリンヒルの治療院だ」
「ほれ、
マディとホウゲツが、代わる代わる質問に答えてくれた。しかし回答があったのは良いが、ここがダズリンヒルだとすると、故郷イニシュカ村で待っているはずの三人が、目の前にいる理由が分からない。
「困惑している様子ですが、心音をなるべく乱さないよう聞いて下さい。貴方は、半月程の間意識を失っていたのです」
「はっ?」
今日の天気でも説明するような淡白な口調で、ハオマがとんでもない事を言うので、エイダンは仰天し、跳ね起きそうになった。――ただ、やはり腹筋に力が入らず、僅かに首を傾けただけで終わった。
「はんつ……はん、つき?」
何度かその単語を繰り返し、エイダンは混乱の極みに陥ったが、一方で納得もした。十五日程も眠ったままでいれば、身体は動かなくなるし喉も枯れるだろう。
いやしかし、喉が枯れるだとかそれ以前に、ものが食べられなかったはずだから、まだ生きているのはおかしい。
「寝てる間、ラメシュが
言葉にして紡ぎきれないエイダンの疑問を、先回りする形でシェーナが説明した。ラメシュも、誇らしそうに自分の胸を叩いてみせる。
「おう。鼻から
「鼻」
あの辛くて酸味も効いた刺激的なスープを、鼻から摂取したのかと考えた途端、鼻孔の奥がツンと痛んだような気がして、エイダンはぎこちなく手を動かし、顔に触れた。
「なんだ、変な顔して。……戦士にとって、
「グルルル」
タマライが、どうやら賛意と激励と思われる首の振り方をする。
エイダンはテンドゥの戦士とは違うのだが、ともあれ、今は細かい事を気にしない方が良さそうだ。彼はラメシュや皆の治療により、一命を取り留めたと、そういう事らしい。
「治療院に運ばれてきた時点では、かなり危ない容態だったんだ」
そう発言したのは、エドワーズである。
「だから万一の事態を考えて、僕の船を出した。ご家族と、故郷の村からの見舞客代表を連れて来るためにね。……無事に目覚めて良かったが、正直ヒヤヒヤしたよ」
「ほんまじゃって。もう、こがぁな年寄りの寿命を縮めて、この子は――」
エイダンの枕元まで進み出たブリジットが、感極まった様子で涙を溢れさせる。
「良かったわぁ、目ぇ覚めてくれて、ほんま……ああ、精霊王よ感謝します……」
後は言葉もなく、ブリジットはエイダンの頭を抱きしめて、ただ嗚咽を漏らした。
「ば、ばーちゃん……心配かけてごめん……」
エイダンもまた、謝罪を述べたきり言葉を失う。
されるがままになっていると、ロイシンとキアラン、それにイーファが、ベッドの反対側に歩み寄ってきた。三人とも涙ぐんでいる。
「エイダンお前、このあほ……! 二度とブリジットのばーちゃん泣かしたらいけんぞって、言うたじゃろうが! 村のみんなはなぁ、今も心配しとるんだけんな!」
「エイダン兄さん、ほんま、良かった……起きんかったら、どがぁしよて……」
揃ってぐすぐすと啜り泣くキアランとイーファは、どこから見ても兄妹だというくらい、とても良く似た顔立ちに見えた。
村に帰ったら、イーファはきっと村の大人達に家出の件を叱られるだろうから、エイダンとしては出来るだけ庇うつもりでいたのだが、この分だとどうやらエイダンも、彼女と並んで説教を喰らう事になりそうだ。
「なぁ、あのハンノキの杖、折れてしもうたんじゃろ? エドワーズさんから聞いた」
と、ロイシンが語りかける。
同時に彼女は、背中に負っていた長い布包みを下ろし、エイダンの前に掲げてみせた。
「じゃけぇね、うちらが見舞いに行く事になった時、村のみんなが大急ぎで、これ作って持たせてくれたんよ」
包みの布が解かれる。
エイダンの目の前に現れたのは、真新しい木の香りのする長杖だった。
杖自体は、この前折れてしまったものと似たシンプルな外見だが、持ち手のあたりに色とりどりの組紐が括りつけられ、いくつもの木札が下げられている。
水の精霊王、
「快癒祈願 フォーリー先生へ イニシュカ小学校在校生、卒業生一同」
そう記された大きな木札が最も目立つ。
他の木札にも、大体「快復願う」「慈涙の加護あれ」といった言葉が並んでいる。添えられた名前は様々だ。ロイシンの父ディラン、治療院の院長タウンゼント、ヒュー・リードに、キアランの両親。湯治場の常連客である老人達の名もあった。
エイダンは力の入らない両腕を上げて、ロイシンから杖を受け取った。素材はハンノキだ。ほぼ同じ長さ、同じ材質の杖をついこの間まで振るっていたというのに、今はそれがずっしりと重く感じる。動かす度に、からからと木札が鳴った。
「俺……」
「うん?」
首を傾げるロイシンと、エイダンは目を合わせた。
「生きとって良かったな……」
「当たり前じゃ。何言うとるかいね、この子は」
横合いから、ブリジットに髪をくしゃくしゃにされる。
皺だらけの祖母の手の温かさを、エイダンは心から噛みしめていた。
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