第105話 幕引くその手は誰が為に ③

 「馬鹿なっ!」


 アジ・ダハーカは狼狽して叫んだ。


「馬鹿な、馬鹿なっ! ヴァンス・ダラだと!? 魔杖将まじょうしょうが――魔なるもの共の救世主が――何故こんな所に!?」

「お前とそう変わらぬよ、アジ・ダハーカ。遊興のためだ」


 あっさりと、ヴァンス・ダラは応じる。


「昔から、蒼薊闘技祭そうけいとうぎさいは何度か見物に来ている」

「今年は参加までしちゃったけどネ、お父様」


 コヨイがくすくすと笑って口を挟んだ。


「お兄様達まで巻き込んで。なのに、一回戦でわざと負けちゃおうなんて言うもんだから、お兄様すごーい膨れっ面になってたヨ」

「仕方あるまい、娘よ。思いがけずギデオンが来おった。この姿を奴に見られると、厄介な騒ぎになる」


 そう言って振り向いたヴァンス・ダラの姿は、再びアビゲイルのそれへと、一瞬のうちに変容している。


「ギデオンめ、昔は騒がしい場を嫌っておったはずだが。奴も歳を取れば丸くなる、か」


 軽く鼻先で笑い飛ばして、アビゲイルは杖を振る。するとまたしても、ヴァンス・ダラがその場に現れた。

 ただでさえ疲労と酸欠で意識の朦朧としていたエイダンは、もう目の回るような気分になっている。


「ア……アビゲイルさんが、ヴァンス・ダラさん……? ほいじゃったら、あの、チーム・サウスティモンのグレンさんらは……」

「ワタシのお兄様達ネ。みーんな魔物モンスターヨ。勿論、本当の力はあんなものじゃないヨ」


 コヨイの回答にエイダンは、ホワイトフェザー騎士団のモーガンが、チーム・サウスティモンの実力を不審がっていたのを思い出した。

 モーガンの洞察は流石と言う他ないが、いくら彼女でも、シルヴァミスト軍の仇敵とその家族が、首都の祭りに遊び半分で紛れ込んでいるとは予想しなかっただろう。


「さて、アジ・ダハーカよ」


 と、ヴァンス・ダラは改めて、大蛇へと向き直った。数十ケイドル級の魔物モンスターを前に、まるきり躾のなっていない犬でも見下ろすような眼差しである。


「見てのとおり、ここにあるエイダン・フォーリーなる人の子は、我が娘の気に入りだ。何を勝手に殺そうとしている?」


 水の上で悠然と歩を進めるヴァンス・ダラに対して、アジ・ダハーカは川辺まで後退する。


「わ――儂が知る訳もなかろう、そのような! 無論……魔杖将よ、そなたと刃を交えるつもりはない。退けというならばこの場は退こう!」


 アジ・ダハーカは明らかに焦っていた。ヴァンス・ダラの事は、その実力も含めよく知っているらしい。


「そも、人の命をほふり、世の混沌を求めるは魔のものらの本能。抗えぬ運命さだめではないか! 北の地で魔を統べるそなたも、そなたの配下らも、同じ事をしている……」

「やれやれ」


 首を振って、ヴァンス・ダラは相手の言葉を遮った。


「全く、誤解する輩が多いな。俺は統率者になった覚えなどない。の面倒を見てやっているのだ。それにたまたま魔物が多いだけの事」


 そこでヴァンス・ダラは、赤く鋭い両目をすうっと細める。


「しかし、お前は気に入らん」

「う――」


 温度を低めた声音に、アジ・ダハーカはまた怯んだ。


「他者の命を奪うは、魔物のみならず生ける者全てのさが、それはその通りだ。しかし、命のやり取りは公平な戦いであるべきだろう。祭りをぶち壊し、借り物の魔力を誇り、この街で最も弱き者らを虐げようなどと。不粋の極みだ、反吐へどが出る」


 冷え冷えとした言葉が、グラス川の水面に響く。

 しばしの沈黙ののち――


「だっ……」


 アジ・ダハーカは尻尾を打ち鳴らし、先程までと打って変わって、臨戦態勢でしゅうしゅうと威嚇を始めた。ヴァンス・ダラの容赦ない物言いが、腹に据えかねたらしい。


「黙れ、黙れ黙れ黙れッ! 儂を愚弄するか、魔杖将! 所詮は貴様も人の身ぞ、恐れるとでも思うたか!」

「アラ、怒っちゃったヨ。さっきまでスッゴく怖がってた癖にネ」


 コヨイが鼻先を持ち上げて、ふんと鳴らした。それから彼女は、背中で伸びているエイダンを振り向く。


「エイダンくん、もうしばらく頑張って掴まっててネ。後ろ退がるヨ! そっちのドゥン族とテンドゥのヒトも付いて来てネ!」

「ガルルッ」


 川から顔を出し、体勢を立て直したタマライが、ラメシュを助け起こして唸った。


「あれが……西方の禁術使い、ヴァンス・ダラだと!? 何をする気だ?」


 どうにか片脚で立ち上がり、タマライの首根に肩を預けながら、ラメシュは呆然と呟く。


「そんなの、決まってるヨ」


 と、川岸に上がったところで、コヨイが牙を剥いて笑ってみせた。


「お父様は、売られた喧嘩は全部買う人ネ!」


 アジ・ダハーカの方は、ヴァンス・ダラに喧嘩を売る気などなかっただろう、とエイダンは胸中で思う。

 エイダンがアジ・ダハーカと戦う理由も、実を言えばない。彼としてはダズリンヒルの人々を、ベニーやアイザックを助けられればそれで良かった。

 あえて言うならば――蛇身の悪王が愚弄したのは、貧民街の少年達の命である。

 少年達に売られた喧嘩を、ヴァンス・ダラが買った。つまりこの幕引きは、彼らのために成されるのだ。



   ◇



 アジ・ダハーカが、反対側の川岸から仕掛けた。


「人間の魔術士風情が、思い知れ!」


 先刻の洪水のせいで、川岸の地面はぬかるんでいる。その水気を帯びた土が、アジ・ダハーカの周囲でせり上がった。波打ちうねる泥の姿は、蛇の群れにそっくりだ。

 数十の泥の蛇が鎌首をもたげ、ヴァンス・ダラへと襲いかかる。

 それを見上げるヴァンス・ダラは、ごく僅かな動作で杖を掲げた。

 途端、川底から、目にも留まらない速度で鋭い形状の巨岩が出現する。黒曜石の剣山を思わせるそれらは、泥の蛇の突進を難なくはじき、あるいは貫いて空中で霧散させた。


「ぐううッ」


 歯噛みするアジ・ダハーカへと、黒い火炎が迫る。ヴァンス・ダラが、巨岩に隠して出現させていたらしい。

 が、今度はアジ・ダハーカが、自身の前方に砂塵を発生させてそれを弾いた。


「甘く見るでないわ!」


 アジ・ダハーカの気勢を掻き消すかのように、火球が続けざまに宙を駆ける。その数は既に、常人には把握出来ないものとなっていた。負けじとアジ・ダハーカも砂塵を収斂させ、岩石の刃として発射する。

 絶え間ない魔術の応酬で、両者の周辺は砂煙と黒煙に覆われ、上空まで真っ暗になっている。耳が割れる程の轟音が、首都を揺るがす。


「その程度か、アジ・ダハーカ!」


 暗闇の中で、ヴァンス・ダラが哄笑を上げた。


「弱き者らを利用する戯れにばかり耽溺たんできしていては、百年生きようとも魔術の腕など向上せぬぞ!」

「黙れ! 黙れぇぇぇッ!」


 アジ・ダハーカの咆哮が、エイダンの耳に微かに届く。

 ヴァンス・ダラの発生させた黒炎は温度を上げ、いかずちへと変容していた。暗闇の中を、墨色の稲妻が縦横無尽にほとばしる。


「がああああああああッ!」


 人間離れした、獣の断末魔に近い悲痛な声。見渡す限りの火炎、雷撃、更には突風までもが吹き荒れている。水上を炎が走り、岩が空へと舞い上がる様は、伝承歌で詠われる異界の光景のようだった。


 コヨイがもう半歩ばかり後方に退がり、背中のエイダンをタマライの傍らに下ろした。


「お父様盛り上がってるから、ちょっと結界張るヨ。エイダンくんをお願いネ」


 そう呟くなりコヨイは身を捻り、華やかな民族衣装をまとった東洋系の少女の姿に変わる。

 彼女は腰に提げたつづみを手に取り、ポン、と軽やかに打ち鳴らした。

 青嵐鼓せいらんこと呼ばれていた、あの鼓である。かつて一度壊れたはずだが、修復されたようだ。


「ソーラ、ヤットコセェー! オイサッ!」


 こぶしの効いた唄声を朗々と上げ、コヨイは突風の吹き荒れる中、広がる袖をなびかせて舞った。

 雷鳴と風の立てる轟音を伴奏に、鼓を鳴らし、跳ね踊るコヨイのシルエットが、稲妻の中に映る。何もかも、常識の埒外のような眺めだった。


 黒煙の彼方に、アジ・ダハーカの姿が薄っすらと見える。

 大蛇の体躯が保てなくなったのか、彼の身の丈は二回り程も縮んでいた。分裂したものらしい二匹の蛇が、地面に倒れている。


「馬鹿な……」


 再び、アジ・ダハーカはそう呟いた。消え入るような声である。


「こんな所で、この儂が……? 儂は……『悪王』……大陸を陥れたる魔物……アジ・ダハーカなるぞ……」

「卑劣漢として生きるにも、覚悟はいるのだ。アジ・ダハーカ」


 どこか同情を篭めた静かな声色で、ヴァンス・ダラが語りかける。


「さっさと退ていれば、背中を見せる相手まで撃ちはせぬものを」


 アジ・ダハーカはそれを聞いて――意外にも、笑った。


「ふ……はは、は……!」


 それは何に向けた笑いだったのか。混沌をもたらし淀みを喰らってきた魔物としての矜持きょうじから、自分自身の運命までも嘲弄してみせたのか、単に追い詰められた精神の異常作用か。

 何にせよ、それがラズエイア大陸を震撼させた蛇身の悪王の、最期の一声となった。


 突如、アジ・ダハーカが身構え、シャッと尾から威嚇音を鳴らすと、みずからヴァンス・ダラ目掛けて挑みかかった。鋭い牙の生えた上下の顎が開かれ、黒衣の男の頭を齧り取ろうとする。


 しかし、牙がヴァンス・ダラに届くかと思われた直前、川底から黒々とした大岩の刃が出現した。岩はアジ・ダハーカの下顎を貫き、頭蓋の頂点まで突き抜ける。


 アジ・ダハーカの長い胴体が、川面に水飛沫を上げて痙攣した。


 幾度か震えるうちに、蛇の身体からざらざらと、鱗と砂粒のようなものが落ちていく。それは砂で造った城が、波に洗われる様を思い起こさせた。

 やがて、動かなくなったアジ・ダハーカの全身が崩れ落ち、川の中へと溶け消え、彼にとどめを刺した黒い岩も、ふうっと空気の中に掻き消えていった。


「お父様……」


 コヨイが舞踊を止めて、父親に呼びかける。


「消えちゃったネ? あの蛇」

「あれは本来、死体を遺す種のはずだが。生命力も他者から吸い上げて、強引に寿命を延ばしていたのだろう。大分身体にガタが来ていた」


 哀れだな、とヴァンス・ダラは、さして気のない風に肩を竦めた。


 周囲を見渡せば、風も雷もすっかり鎮まり、黒煙は晴れている。

 街や見物人に被害が出ているのではないかとエイダンは危ぶんだが、見る限り、晴れ渡った街並みは平穏なもので、恐る恐るこちらを窺う人影もあった。

 ヴァンス・ダラが、周辺に被害の及ばないよう、何か仕掛けをしてくれたのかもしれない。


 安堵すると同時に、エイダンは抗いがたい急速な眠気に襲われた。

 タマライの肩口にもたれていた背が、ずるずると地面にずり落ちる。


「おい、エイダン! しっかりしろ!」


 ラメシュが慌てて駆け寄ってきた。何とか答えを返そうとしたのだが、まぶたも口も鉛のように重く、上手く動かせなくなっている。

 やむなく、エイダンは目を閉ざした。意識を引き止めようとする何人かの声が聞こえてきたが、それもすぐに遠のき、静かで真っ暗な世界が訪れた。

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