第95話 そして夜は明ける ②
ほんのりと、周囲の情景が把握出来るようになってきた。
夜明けが近いのだろうと、床を一心に見つめながらエイダンは思う。
アジ・ダハーカの眷属である蛇の群れに取り囲まれてから、数時間。シェーナとラメシュは、交替で結界を張り続け、飛び掛かり食いつこうとしてくる蛇の牙を、何とか凌いでいた。
エイダンはというと、床の上に鉛筆で、新しい呪文を書き連ねている。蜂蜜を媒介とした火属性結界治癒術を、今ここで開発しようというのだ。
「一つ思うんだけどさ……」
結界担当をラメシュと交替し、疲労回復用のカリーを一口啜って、シェーナは呟いた。
「何だ?」
「これ警備兵、詰所で寝てるんじゃない?」
厳重な警備下での、祭事の真っ最中である。夜間も会場内に見張りくらいは残るし、見回りもあるはずだ。にもかかわらず、一晩中、誰も厨房まで巡回に来なかった。足音すらも近づく気配がないというのは、おかしい。
「可能性はあるな。例えば、ドナーティが差し入れとかなんとか言って、不寝番の兵に夜食を食わせて、それに一服盛ってたとしたら?」
「あり得るし、ヤバいわねそれ」
夜が明ければ、闘技祭の最終日だ。フィナーレを狙って何らかの事件を起こすため、今まさに、テロリスト達が着々と準備を進めているのかもしれない。
「一服盛るにしても、麻痺毒とか命に関わる毒とか、そんなものは飲ませないと思うのよ。闘技祭決勝戦どころじゃない騒ぎになるから。本人が『うっかり寝過ごした』程度の認識で済むような、軽い薬でしょうね。大きな物音でも立てれば、起こせるかも……」
「……おい。オレも今、気づいた事がある。明るくなってきたお陰で」
三人分の結界を張り巡らすラメシュが、顔に疲労の色を浮かべつつ、天井に向けて目を細めた。
「天井? なに?」
問いかけるシェーナと、エイダンにも手招きをして、ラメシュは蛇達の聞き耳から逃れるように、ほんの小声で囁く。
「見ろ。金属管が通ってる。暗くて見えづらいが――多分こいつは、伝声管だ。って事は、この先に」
「あっ、警鐘があるのね……!
「この規模の厨房で最新設備ってんなら、そりゃ備わってるよな」
エイダンも、ちらりと上を確認した。なるほど、天井の壁際に、古式ゆかしい石造りのアリーナにはやや不釣り合いな、武骨で新しい金属の管が張りついている。
「警鐘を鳴らせば、警備兵さんが気づきんさる?」
「試してみる価値ありね。ただ、正直に言うとあたしはもう、魔力が尽きかけてる。次の結界、張れるかどうか」
「オレもこの辺が限界だが……まあ聞けよ。ここにまだ、『ラッサムの結界』用のスープがある」
「ラッサムっちゅうと、初日に俺とホウゲツさんが食うたあれ?」
この厨房に初めて来た時の事を思い出したエイダンに、ラメシュは「ああ」と肯定し、壺の蓋の上に残されたスープを見せる。この量だと、一人分だろう。
「こいつは、厚手の鎧を身に纏うような仕組みの結界だ。維持したまま、警鐘の位置まで走れる。そう長時間はもたねえが、破られるまでに警備兵が駆けつけてくれれば――」
「ここを……走る?」
シェーナが、思わずといった様子で顔をしかめた。
金属管の通っている方向は明白だから、警鐘の位置は暗がりでも大体掴める。しかしそこまでの道程には、床から壁まで、蛇がうようよと這い回っているのだ。どんな頑丈な鎧を着込んだとしても、駆け抜けたいとは思えない。
「勿論、オレが自分に結界張って行くさ」
「待ってラメシュ、無茶だって!」
「短距離ならこの足でも、そう両足の人間に後れを取らないよう訓練してるぜ。それに、シェーナの結界の方が拠点としては優秀だ。『
「あのう……そんなら、せめて」
鉛筆を持つ片手をそろりと挙げたのは、エイダンである。
「俺が
「……何が『ちゅうのは?』だよ。無茶苦茶すんな」
「ラメシュさんの案も十分無茶じゃ。ここは、みんなで無茶せんと切り抜けられんじゃろ」
鼻先にラメシュの指が突きつけられたが、エイダンは引かず、頑固に口を引き結んだ。
「エイダン。ひょっとして、結界が作れそうなの?」
と、シェーナが二人の間に割って入る。
エイダンは強く頷き、床に記した呪文を指差した。
「うん、出来た。この呪文で行けるはずじゃ。飛び出した先で蜂蜜結界を張れば、蛇の攻撃を防げる」
「――分かった。エイダンの案で行きましょ」
あっさりと、シェーナは決断してみせる。
「なっ……今ここで構築した呪文を、ぶっつけ本番で詠唱しようってのか?」
「エイダンは、ほとんど独学で火の治癒術を習得してきたんだもの。それに彼、無茶ばっかしてハラハラさせられる事も多いけど、無理な事は言わないし、しないわよ。嘘が苦手だからね」
仲間として保証する、とシェーナが自分の胸に手を当てるので、エイダンは少しばかり照れて、後ろ髪を掻いた。「照れてる場合か」と、ラメシュに小突かれる。
しかし、渋い顔はしてみせたものの、ラメシュも自分一人で蛇を防ぎきり、鐘まで辿り着くのは難しいと思っていたらしい。短い逡巡の末に、彼は承諾した。
「仕方ねえな、それでやってみるか」
「じゃあ、もう一度『
「そんなら、俺も――」
エイダンはハンノキの長杖を左手に構えた。右手には、蜂蜜の入った陶器の瓶。
緩やかに揺れる蜂蜜の水面に意識を集中させると、彼はたった今完成させた呪文を、口から紡ぎ出す。
「
山より
叡智と義憤の理を
時に弱きを、時に
智と血を賜る全てを護るべく、
ここに
魔術が展開し、編み上げられていくのが分かる。――成功する。あとは魔力を捧げ、精霊との契約を成立させられれば。
魔力の集積に気づき、蛇達がエイダンの近くへと這い寄ってきた。それも思惑どおりだ。
ラメシュがエイダンに、視線だけで合図をして、『ラッサムの結界』をごくりと飲み下した。
同時に、エイダンはシェーナの張った結界の中から飛び出す。すかさず、何十という数の蛇が彼を狙って集まってきた。エイダンは蛇を引きつけ、追いつかれそうになった瞬間、呪文の最後の部分を叫ぶように唱えきる。
「――我が身
『
途端、瓶の中から蜂蜜が溢れ出した。それは限界まで薄く拡散し、エイダンを包み込むと、卵型の琥珀のような形状となって、噛みつこうとした蛇の牙を、寸でで弾き返した。
「よっしゃ、成功した……! したけど……っ!」
がつんがつんと、蛇の群れが音を立てて、目の前の琥珀色の殻にぶつかってくる。その数が多過ぎて、周囲の状況が全く見えない。ラメシュは今現在、警鐘に向けて走っているのか。無事だろうか。シェーナはどちらの方角に待機しているのだったか。
考えながらも、エイダンは必死で結界を維持する。一体、結界を張ってから何秒経過したのだろう。あと何分、この状態を保てばいい?
そこに、希望の福音が届いた。――などと表現するには、ちょっと喧し過ぎる音色だったが。
――カンカンカンカンカンカン!!
警鐘だ。ばね仕掛けか何かを利用して、よく音の反響する形のベルを、細かく連打出来る仕組みになっているらしい。エイダンの予想していたよりも大分派手な音が、伝声管を通って、アリーナ中に鳴り響く。
エイダンの結界に群がっていた蛇達も、流石に驚いたのか、ぎょっとして動きを止めた。静止した蛇の合間から、明るくなりかけた厨房の奥に、ラメシュが立っているのが見える。
「ラメシュさん、あんがとう! 早う戻って……!」
ラメシュに向けて声を張り上げるエイダンだったが、時を同じくして、彼の言葉に被さるかのように、低く
「全く、情けない――役に立たぬ眷属共め。その人間らは捨て置いて良い。例の場所に移動し、身を潜めよ」
その声を聞くなり蛇の群れは、弾かれたように一斉に動き出した。渡り鳥を思わせる統率された動作で隊列を組み、壁から天井まで素早く這い上がると、エイダン達が厨房内に侵入するのに使った換気口の中へ、するすると消えて行く。
「だっ……誰、今の?」
結界を張り続けながらも、シェーナが蛇達の逃亡しつつある天井を、呆然と見つめた。
「多分、あの声は……アジ・ダハーカじゃね」
「そいつ、喋るの!? 喋る
「ああ。何しろ、人間以上に悪知恵の働く奴だからな」
『ラッサムの結界』に身体を覆われたラメシュが、こちらに戻ってくる。
三人の見つめる先で、何百と厨房を這い回っていた蛇の集団は、全て換気口内へと逃げ去ってしまった。
そして、その直後の事である。厨房の扉板の向こう側で、
「おおい! 火事か!? 一体こんな早朝にどうして……な、何だお前達!?」
扉が開かれ、アリーナの警備兵らしい男が二人、室内に突入してきた。彼らはぎょっとして、鍋だの皿だのが床のあちこちに散らばった厨房と、それぞれ結界を解除して、その場にへたり込む三人の治癒術士を見回す。
「おっそぉい……」
疲労困憊ぶりの滲む声で、シェーナが一言零した。
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