第92話 晩餐会と急展開 ⑤
イーファの前には、丸く盛り付けられたピンク色の
菓子の名は、アイスクリーム。エイダンとシェーナから、事前にそういうデザートが供されるという話は聞いていた。
イーファは喜び、夢に見る程に浮かれていた。ビビアンと会う時間を削ってディナーに参加するのは悪い気もしたが、事情を話したら、ビビアンもイーファの喜びようを見て、一緒に笑ってくれたのだ。
しかし、今のイーファはこの夢のデザートを食べる事が出来ない。喉を通らない。
――あんな風に怒るエイダンを、初めて見た。
いつものほほんとしていたはずの、隣の蕪農家の一人息子が。……イーファにとっては、都会を経験してきた憧れの存在である、優しい青年が。
彼が怒った理由は分かる。目の前で故郷を侮辱されて、イーファもまた、頭に血が昇るのを感じた。
だが、イーファには怒る資格がない。
イニシュカで懸命に働く漁師の兄――キアランに向かって、サンドラとほとんど同じ言葉を口走ったのは、ものの数日前の出来事だ。
第三者であるサンドラが、エイダンに向かって同じ言葉を吐くのを見て、ようやく気づいた。
――自分は何てことを言ってしまったのだろう。
キアランは……口煩いが、いつでも最後にはイーファを守ってくれる兄は、もう自分の事を嫌いになっただろうか。両親や嫁いだ姉があの発言を知ったら、彼らもイーファを見捨てるだろうか。
エイダンは? 船の中で見つかってからずっと、イーファの世話を焼いてきてくれた。しかしそれは親友の妹だからで、本心では、酷い事を言う子だと軽蔑していたのかもしれない。
もう駄目だ。何がどう駄目なのか分からないが、とっくに取り返しがつかない事をしてしまっていたのだ。イーファは――どうしようもない子供だ。
スプーンを持つだけ持ったものの、その手が震える。視界がぼやけ、アイスクリームがただのピンク色の固まりにしか見えなくなった。
「イーファ?」
隣の席のマディが、彼女の異変に気づき、心配そうな声をかける。
そんな声を聞いた途端、イーファはいよいよ、耐えられなくなった。
「うっ、うち……わたし……あの、ごめんなさい!」
イーファは席を立った。
他の面々が驚く中、ぼろぼろと涙を落としながら、部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
外に出て、周囲を見回してみたが、エイダンの姿はない。彼を追って部屋を出たシェーナも、見当たらなかった。
シェーナは、イーファにいつでも優しかった。しかし、席を立つ時のシェーナがサンドラに放った声音は、恐ろしく硬く、氷のように冷え切っていた。
「サンドラ・キッシンジャー。エイダンの友人として言うわ。貴方が身内だなんて、恥ずかしい」
彼女はそう言い捨てて去った。イーファも本当は、そんな風に思われていたのだろうか。考えたくもない。
イーファは顔を覆い、声を上げて泣いた。帰りたい。村に帰りたい。この街で泣いていても、百万人もの人間がいるのに、誰もイーファを許すと言ってはくれない。
「……そなた、イーファか? 何があった?」
突然、路傍で泣き続けるイーファの背後から、声がかかった。
驚いて振り返ると、そこに馬車が一台停まっている。随分と物々しい造りの馬車で、しかも車を牽く馬だけでなく、その前後にも馬と兵士が待機していた。
馬車の扉を開けて出て来たのは、ビビアンである。前に会った時よりも大人びたドレス姿だった。長い裾を摘まみ、彼女はこちらに小走りでやって来る。
「そんなに泣いて。今日はディナーに呼ばれたと、楽しみにしておったではないか。一体どうしたのじゃ?」
「ビビアン――」
イーファの無事を確かめるような仕草で、ビビアンは彼女の肩に両手を添えた。
何か答えようとしても、上手く言葉が出ず、イーファはビビアンに縋りついて、また泣き出す。
「ビビアンっ、どがぁしよ……! うち、酷い事言ってしもうた。もう家帰られんよう――!」
わんわんと泣き続けるイーファに困惑しながらも、ビビアンは優しくその背中をさすり、自分の乗っていた馬車の近くまで、歩くように促した。
「ビビアン様。その子を、流石にこの馬車に乗せる訳には……」
いつぞやの、女教師のような装いの女性が馬車から降りてきて、やんわりとビビアンを制止する。
「ではクロエ、イーファをこの場に放っておけと言うのか? 私の対等な友であるのじゃぞ!」
「一人で行動しているはずはないので、近くに保護者がいるかと思われますが」
「その者が泣かせたのではないか?」
「ちゃうよ……これはあの、うっ、うちのせい……」
まだしゃくり上げてはいたものの、その誤解はまずいと、イーファは急いで否定した。
「でも……今はやっぱ、エイダン兄さんに会えん……」
「ほれ。会いたくないと言うておる」
「そういう訳にも」
クロエはいくらか眉根を寄せて、ビビアンと押し問答をしていたが、やがて溜息を吐き、馬車の戸を開ける。馬車の中は思ったより広く、他にも侍従らしい人物が二人ばかり座っていた。
「その子を乗せて――休ませてあげて。ビビアン様、少々お待ちを」
◇
結局のところ、招待された治癒術士一行は、誰も試食会のコースを完食出来なかったという訳だ――と、マディは思う。
イーファが部屋を飛び出していった時、驚きもあって、一旦は彼女を見送ってしまったのだが、マディとフェリックスはすぐにその後を追った。
ダズリンヒルは物騒である。魔物やテロリストが潜伏している現在は、尚更だ。十三やそこらの、首都初訪問となる少女を、一時でも一人きりにしておくのは危ない。
しかし外に出てみると、そこにはイーファも、エイダンもシェーナもいなかった。
「……そう時間は経っていないはずだが、誰もいないとは。イーファはエイダン達と合流して、皆で宿に戻ったんだろうか?」
と、マディは廟の前で腕を組む。
「それならいいんだが。うーん……シェーナとエイダンくんが、怒りのついでに何だか燃え上がってしまい、今改めて恋に落ちているという可能性は?」
「どんな可能性だ!?」
恐らく、試食会出席者の中で最も頓珍漢な懸念を抱いているフェリックスに、マディは呆れ顔を向けた。
そこに、落ち着き払った女性の声がかかる。
「失礼。イーファ・オコナー嬢の保護者の方でいらっしゃいますか?」
声の方を見れば、夜の闇に溶け込むような濃紺の正装を纏った女性が、そこに立っていた。
「――貴方は?」
「とあるご令嬢の、
それはどうも、と礼を述べつつ、マディは正面に立つクロエをそれとなく観察する。
身のこなしに隙がない。軍務経験がありそうだ。
イーファは確かに、会場内で自分と同年代の少女と友人になったと、ちらりと語っていた。闘技祭自体よりも、試合の前後に新しい友人とお喋りする方を楽しんでいた風でさえある。年頃の少女とはそういうものだろう、などと、微笑ましく見守っていたものだが。
「オコナー嬢が落ち着き次第、お泊まりの宿にお送りします。宿泊先は『善き薊の徒の宿』ですね? 当家の滞在先はこちらになりますので」
そう言って、クロエはビジティング・カードを差し出した。
馬車など使わなくとも、徒歩で五分も歩けば辿り着く程の距離にある、ダズリンヒルでもトップクラスと言われる高級宿の名が記されたカードだ。総支配人の直筆のサインもある。
告げるだけ告げて、クロエはまた、闇に溶けるような静かな挙動で、その場を立ち去った。
「マディ。オコナー嬢のお友達というのは――何者なんだ?」
フェリックスが珍しく、すっかり空気に呑まれたような顔をしている。
「さあ……。何だか、意外な事が次々と起こる夜だな……」
マディは夜空を仰ぎ見た。
イーファは友人と一緒にいる。しかしだとすると、エイダンとシェーナは、どこに行ったのだろうか?
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