第55話 大列車騒動 ④
「あと十分で到着だ。命令どおりにやれよ」
運転室内に、冷淡な男の声が落とされた。
随分と癖のあるシルヴァミスト語だ。扉の陰に身を潜ませながら、マディは思う。しかも、この発音の癖には、聞き覚えがある。
男が、また何事か低く声を発したが、今度の言葉はシルヴァミスト語ではなかった。
「イドラス人か……」
マディは小声で呟く。
すぐ傍らに腰を落としているコートの紳士が、マディを振り仰いた。
「君も、イドラス出身なのか?」
「いや。だが母がイドラスの、元準州の生まれだ」
島国である聖シルヴァミスト帝国の、東側の海峡を超えた先に広がる、ラズエイア大陸。
そして南北ラズエイア大陸の中間、瓢箪のくびれにあたる地域に、千年ばかり前、大イドラス帝国という国家が
強力な中央集権体制を整えたイドラスは、ラズエイア大陸の南北に、領土を拡大し続けた。最盛期には、南北大陸全土のうちおよそ五割の地域を準州化し、遥か西の大洋の彼方にあったヴェネレ大陸も、事実上の植民地として統治していた。
しかし、繁栄は永遠には続かない。
百年前、ヴェネレ人妖連邦の独立宣言を皮切りに、政治的腐敗の進んでいた帝国準州の各地で、一斉に反乱が勃発した。
その後の没落は、あっという間の事だった。
最盛期の数十分の一にまで支配域を減らしたイドラスは、今から三十三年前、聖暦九九〇年に崩壊。皇帝は廃位とされ、新たにイドラス共和国が成立する。
イドラスから切り離されたいくつかの元準州地域では、独立後も政治的混迷が続いた。
南ラズエイア大陸北西部の小さな町も、時代の騒乱に巻き込まれた元準州の一つである。その町の住民だったマディの母親は、紛争の終わらない故郷から、親類縁者共々脱出せざるを得なくなった。彼女らは命懸けで海を渡り、シルヴァミストに流れ着いたという。
そこでマディの母は、年若い海軍の少尉に助けられ、恋に落ちた。彼がマディの父親という訳だ。
そんな背景から、マディの母は多少、イドラス語が話せるし、読み書きも出来る。マディも母から教わった。
ただ、マディはあくまで自分をシルヴァミスト人だと考えているし、母方の故郷の景色に興味はあるものの、イドラス共和国という国に対して、さほどの思い入れはない。
「聞いてんだろうな! 逆らうんじゃねえぞ? この女の死に様を見たくなきゃあな!」
別の男の、荒々しい声が上がる。
マディは相手からの死角になるよう注意しつつ、運転室の窓の中を覗き見た。
諸々の計器や機械が設置された、そう広くもない一室に、五人もの人間が収まっている。
一人は、緊張に背筋を伸ばし、前方の窓から目を離す事なく、ハンドルを握る初老の男。制服に制帽という出で立ちから見て、彼が列車を運転する術士だろう。
その傍らには、床に座らされ、どうやら後ろ手に縛り上げられているらしい、若い男。こちらも制服姿だ。運転助士と思われる。
そしてもう一人、制服姿の者がいる。マディ達を列車内に呼んだ車掌だ。彼女は真っ青な顔色で目を見開き、震えながら助士の横に立っていた。
怯えるのも無理はない。彼女の喉元には現在、大振りの短剣の刃が押し当てられているのだ。列車が揺れる度、刃先が首の皮に食い込みそうな位置である。
車掌の喉に短剣を突きつけているのは、赤ら顔の大男。彼が先程、脅し文句を吐いた者だろう。
運転室にいる最後の一人は、短剣を持つ男に比べると細身の、シンプルな旅装にマントを羽織った男だった。
右腕だけに、やけに仰々しい籠手を装着している。黒とも赤銅色ともつかない、不思議な色合いの髪を無造作に結っていて、青白い顔からは、およそ感情らしきものが読み取れない。
優男と呼んでよい風貌だが、右の頬に、引き
「あ、あと十分程で、
運転術士が、掠れた声で言った。
「あの橋の上で、停車しろと言うのか?」
「そうだ」
実に素っ気なく、籠手の男が答える。
「何をする気だ!?」
「金目のモンを奪うに決まってんだろ! 後ろの車両で呑気にやってる、馬鹿貴族共からな!」
今度は大男の方が、せせら笑って応じた。
「……めぼしい物を頂戴したら、乗客ごと列車を川に落とす。後腐れがなくていいだろ。そのための停車だ」
淡々と、籠手の男は説明し、運転術士と車掌が、揃って息を呑む。
「そ――そんな恐ろしい事に協力出来るか! 乗客には、子供もいるんだぞ!」
「じゃあ、この女を最初の死体にするか?」
「彼女にも手を出すな!」
短剣を車掌の首に押しつける大男に対して、運転術士は気丈に告げた。
「渓谷の手前には、崖に沿ってカーブがあるんだ。運転技術が必要になる。お前達じゃ、ブレーキ一つまともに掛けられんだろう? いいか。金が欲しいなら、安全な場所でゆっくりくれてやる! 今は運転に集中させてく――」
運転術士の声が、そこで唐突に途切れた。
一瞬の出来事だ。男の右腕の籠手が持ち上げられたかと思うと、金属音を立ててそれは展開し、ごく小型のボウガンに変形した。
男は何の斟酌もなく、運転術士に向けてボウガンを構え、トリガーを引く。
「がッ!?」
運転術士の上体が高速で何かに弾かれ、横壁に打ちつけられた。
一体何を、とマディは目を見開く。飛んだのは、矢ではなかった。もっと小さい……釘か楔状の武器だ。
「カリドゥス!」
大男が、慌てて籠手の男に呼びかけた。
「何してんだ、運転術士を殺しちまったら誰が……」
「まだ殺してねえ」
カリドゥスと呼ばれた籠手の男は、にべもなくそう答えて、床に崩れ落ちた運転術士の前に屈み込む。
「『
軽く目を細めてから、カリドゥスは運転術士の襟首を掴み、引きずり起こした。
「楔を抜いて欲しけりゃ、命令どおりに操縦しろ」
「なっ、なんて酷い……!」
車掌が、涙ながらに非難の声を上げる。
カリドゥスは彼女を振り返りもせず、イドラス語で大男へと命じた。
「“もう人質は必要ねえ。車掌とそこの助士は始末していい。……狭い部屋だってのに、シルヴァミスト人臭くてうんざりだ”」
「“チッ、勝手な真似ばっかしやがって。分かったよ”」
大男の手の中の短剣が、無情に振りかざされる。
車掌は涙に濡れた目を見開き、悲鳴を上げた。
「いやぁ――!」
「まずい!」
咄嗟に、マディは弓を
陽動作戦に出る、と言って準備を進めていた、ホウゲツとジゴドラの姿はまだ見えないが、最早猶予はない。
しかし、次の瞬間――
「うおおおおおッ!」
絶叫と共に、運転室めがけて全速力で駆けてくる者がいた。
ホウゲツだ。――いや、本当にホウゲツなのかどうか、マディには確信が持てない。
服装などから恐らく彼だと分かるのだが、その顔は、耳まで裂けた口から、牙と赤い舌を覗かせ、何かの血をだらだらと垂れ流す、トカゲの化物と成り果てていた。
「何だァ!?」
大男が動転し、動きが止まる。
その隙を突いて、ホウゲツは運転室のドアに飛びつき、開け放った。
「バァァ!」
ここで、ホウゲツの背中に貼りついて隠れていたジゴドラが、肩口から身を乗り出し、がばっと口を開いた。
限界まで開かれたジゴドラの口の奥が、オレンジ色に輝き、突如、大男に向けて拳大の火球が放たれる。
四種族の妖精の中で、元来最も攻撃性が高いと言われる、サラマンダーの本領発揮だ。
「うぎゃあっ!?」
火球が額に当たって砕け、大男が両目を押さえた。
捕らわれていた車掌が、床に転がる程の勢いで短剣の切っ先を回避し、運転室を飛び出す。
「ちっ」
カリドゥスが舌打ちを一つして、ボウガンを構えるも、既に矢を番えていたマディの方が早かった。
開かれた扉の陰から、僅かに見えるカリドゥスの腕を狙う。
矢の狙いは正確だったが、相手も素早かった。マディの姿を視認するなり身を屈めたカリドゥスの、肩口だけを掠めて、
「『
ガラスの破砕音が止むや否や、鋭く、呪文を詠唱する声が上がる。
マディの傍らにいた紳士が、ステッキを構えていた。
都会の街なかで見かけるような、ごく洗練されたデザインのステッキだったので、てっきりファッションのための小物だと思っていたが、どうやら
列車の金属製の床から、強力な磁石で砂鉄でも集めたように、ざわざわと砂粒が
地属性の呪術だ。
「うおおお! どわあああああ!!」
がむしゃらに雄叫びを上げて、ホウゲツが大男に体当たりを食らわせる。
何しろホウゲツの体格は小柄なので、大男に対して、大人と子供程の身長差があるが、それがかえって幸運だった。
上手く懐に飛び込み、大男を押し倒す格好で、団子になって倒れる。
「ぐぇっ」
背中を打ちつけた大男は、堪らず短剣を手放した。
「そこまでだ! ホウゲツ、大丈夫か!? ……君はホウゲツだよな?」
大男の喉元に向けて、弓矢を番えたマディは、顔だけトカゲの化物となったホウゲツに、思わず問いかける。
よくよく見ると、ホウゲツの顔には、大判の紙が貼りつけられていた。トカゲの顔面と思えたものはただの絵、つまりお面だ。
陰影で微妙な立体感まで表現されていて、圧巻のリアリティだが、立ち止まってしまえば、お面と分かる。ホウゲツがこの場で、ジゴドラをモデルに(大幅なアレンジを加えて)描いたのだろう。
顔に貼った紙をぺらりと剥がして、ほとんど半泣きのホウゲツがマディを見上げた。
「そそそ、
「いや、よくやってくれた」
コートの紳士が、タンク車で見つけたらしい予備の鎖を手にやって来て、呪術で捕縛した大男を、本物の鎖で縛りにかかる。
「しかし、もう一人は逃げてしまいましたね。シャッシャ」
「随分と諦めが良いな。それに素早かった」
ジゴドラとコートの紳士の言葉に、マディは割れた窓の方を見遣った。
大男とホウゲツの取っ組み合いに注意を向けた、ほんの数瞬のうちに、カリドゥスの姿は消えていた。矢が貫いて出来た窓の穴を、更に大きく砕いて、そこから抜け出したのだろうが、相棒はあっさり見捨ててしまったし、金品も何も奪わずに逃げている。
――悪党には違いないが、一体何者だったのだろう。
懐かしいはずのイドラス語の、冷酷な声色が、マディの耳の奥に、
「……仕方がない。今はそれより、怪我人と列車を何とかするのが優先だ」
マディは急ぎ、乗員達の状態を確認にかかった。
車掌の女性は、震えと涙を止められないでいるが、呼びかけると「大丈夫です」と受け答えしてみせた。見たところ、大きな怪我もない。
運転助士は、頭を殴られて昏倒させられたらしく、後頭部に
問題は、呪術をかけられた運転術士と、未だ客を乗せて走り続ける列車である。
「彼は我々が診よう。一応、治癒術士なんだ」
「治癒術士? そいつは運がいい」
コートの紳士が、運転術士を慎重に横たえて言う。
「しかし、列車の方はどうしたものか……カーブに差し掛かるとか言っていたが」
「ああー、そっちは僕が何とかする」
運転術士の傍らから身を起こして、紳士は複数の計器とハンドルの前に立った。
「出来るのでござるか? 列車の運転が?」
「勿論、出来るとも。世界で最もこの機体に詳しい男としては、当然だ」
事もなげに、彼はホウゲツの質問に頷いてみせる。
――世界で最もこの機体に詳しい男?
マディはホウゲツと、顔を見合わせた。
と、そこで運転術士が、微かに意識を取り戻し、呻き声を上げた。
「う……う」
「目が覚めたでござるか。動かない方が――」
「しゃ……社長……何をしてらっしゃるので……?」
コートの紳士に向けて運転術士は、苦痛や安堵より、まず困惑の表情を見せる。
「何って、休暇だ。お忍び旅行という奴だよ、僕の造った列車で。僕ぁ社長就任以来十年間、安息日すらまともに取れなかったんだぞ? たまにはいいだろ」
マディとホウゲツ、それにジゴドラまでも、二人の遣り取りに呆気に取られる他ない。
「君はベストを尽くした。社長として誇りに思う! あとは治癒術士の指示に従って、安静にするように。さあ行くぞ! 面舵いっぱーい!」
フェザレイン鉄道株式会社社長、ノーマン・エドワーズは、子供のような嬉々とした眼差しで、ブレーキ制御弁のハンドルを握った。
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