第二部 湯治場はじめました

第32話 ふろふき男爵の冒険 ①

 ヒュー・リードはいきどおっていた。


 彼は貴族である。代々男爵の称号を受け継ぐ、由緒ある家系の末子まっしとして生まれた。兄や姉と共に――あるいは兄弟のうち、最も優秀な一人が――聖シルヴァミスト帝国ホルダー州の一部地域を、いずれは統括する立場となる。


 一部地域というのは具体的には、ホルダー州の西の端の港町・トーラレイと、そこから更に船で二時間程の距離の所にある、離島イニシュカだ。全体に、いわゆる『田舎』と呼ばれがちな地域で、イニシュカ島に至っては、ヒューは足を踏み入れた事もないが、それでも領主は領主である。


 その誇り高い貴族たる自分が、何故川辺で皿洗いなどしなければならないのか。


「終わったん? お皿洗い」


 仏頂面で、綺麗になった皿を重ね終えたヒューに、すぐ近くで焚火の始末をしていた、若い女が声をかけた。


 デイジー・エディソンと名乗る、行商の娘である。豊かなブルネットの髪をバンダナでまとめ、西部商業都市の下町風の言葉を使う、いかにも庶民といった風体の娘だが、明るい色合いのぱっちりとした瞳には愛嬌がある。


「ああ、終わったとも。俺にとっては、どうという事もない仕事だ。魔物を斬り殺してきた日々に比べればな」

「当たり前やんか。何言うてんねん」


 自信満々に皿の山を見せつけるヒューに対して、デイジーはにべもなく呆れてみせた。


「けど、ご苦労さんやな。しっかり手伝いしてくれるんやったら、もう一日二日、ご飯と寝床の面倒くらいは見たるて、うちの父さんも言うとるさかい」

「それは、その、あー……助かる」


 飯と寝床。それらの保証がある生活のありがたさを、今は噛み締めざるを得ない。ヒューは口篭りつつも、デイジーに頭を下げた。


 何故ヒュー・リードが、行商の娘に命じられ、皿洗いをする羽目になったのか。それは端的に言えば、飯と寝床のためであった。


「おおヒュー坊、片付けおおきに。デイジー、馬の用意が出来たら出発するさかいに、積荷の点検頼むわ」


 馬の世話をしていたデイジーの父、アーロン・エディソンが、手綱をいて現れた。

 男爵の息子が、『ヒュー坊』呼ばわりだ。彼はもう十八にもなるというのに。

 しかし致し方ない。ヒューは現在、素性を隠し、冒険者としてこの聖シルヴァミスト帝国各地を旅しているのである。言葉遣いも、意図的に庶民風にしている。


 ただ、なにぶん裕福な暮らしに慣れきって育った身。軍隊生活は送った事があるが、それも三ヶ月少々だった。他に、給与を貰って働いた経験はない。

 要するに、一人旅に必須となる金銭感覚が身についておらず、旅の途中で所持金が尽きたのだ。


 ここ数日間は、食べるにも事欠き、思い余って街道沿いに停められていた馬車から、瓶詰め豆と干し肉を盗もうとしたところ、馬車の持ち主であるこのエディソン親子に見つかった。

 役場に突き出されかけたものの、盛大に腹の虫を鳴かせつつ平謝りをするヒューを見て、デイジーがいたく同情し、雑用を手伝うなら、次の街まで馬車に乗って良い、食事も出す、との寛容な措置が下されたのだった。



 さて、エディソン親子とヒューを乗せた馬車は、再び街道をゆるゆると進み始めた。


「この食器箱、少し固定が緩いのではないか?エディソン嬢」

「ああ、せやな。結び直すわ。……“エディソン嬢”なんて、くすぐったいわぁ。デイジーでええよ」


 ヒューが壊れ物の積荷を支え、デイジーが紐を括り直し、固定する。そんな作業の最中、デイジーは急に笑い出した。


「どうした?」

「ヒュー坊、ひょっとして結構坊っちゃん育ち?」

「な、なに!?」


 あからさまに焦るヒューである。『その通りだ』と答えたも同然だった。


「いいや……そんな事はないぞ! 俺は生粋の荒野の男! 幼少より荒くれ共と、数々の冒険を繰り広げてきた……」


 そういう設定にしてある。


「はいはい。その荒野の男は、なんでまた冒険者やって、しかも行き倒れかけとったん?」

「行き倒っ……た、多少予想外の出費があって、所持金が尽きたんだ! あんたらには、申し訳ない事をしたが……」


 こちらは食糧泥棒、相手はそれを取り押さえた被害者だ。どうにも反論しづらい。ヒューは言葉尻を濁して、馬車の隅に腰を下ろした。


「しかし、改めて感謝する。俺はここで捕まる訳にも、立ち往生する訳にもいかなかい。この身にかけられた、恐ろしい呪いを解く必要があってな」

「え……呪い?」


 デイジーが、目を瞬かせて問い返す。


 そう、ヒューがたった一人で家を出て、冒険者などを名乗り、慣れない旅の空に身を置いている理由はただ一つ。

 彼自身と一族を、とある呪いから解放する方法を、見つけ出すためだった。


「……ところで、エディソン嬢……」


 重々しい声音で、再び口を開くヒューに、デイジーが固唾を呑んで頷く。


「実はさっきから……少し、腹の具合が悪くて……」

「はぁ!?」


 数日、ろくに食べ物を入れていなかった胃袋に、水を飲むような勢いで、豆と干し肉とパンを放り込んだのだ。調子もおかしくなるというものである。


「あと、腹痛を我慢していたら、馬車の揺れにも酔ってきて……」

「世話の焼ける人やなあ! 父さん、ちょっと馬止めて!」


 デイジーがバンダナを押さえ、呻くように言った。

 御者台のアーロンが、何事かと幌の中を覗き込み、ヒューの顔色の悪さに気づく。


「おや、こらあかんわ」



   ◇



 昼休憩の地点から、いくらも離れていない森の傍で、馬車は一旦停止し、ヒューはふらふらと地面に降り立った。

 デイジーが心配そうに、それを見送る。


「この森は、魔物モンスターが出る言うんよ。せかやら、吐きたくなっても一人で奥行ったらあかん。道の近くで休んどきや」

「魔物くらい……この腰に帯びた剣は、飾りではないのだ……」

「はいはい、分かっとるよ。かわやの男ね」

「荒野の男だ!」


 自分の荒げた声が、また腹に響く。ヒューは近場の適当な木にもたれかかり、腰を落ち着けて、大きく溜息をついた。

 立ち往生している暇はない、と言ったばかりだというのに。何故こうなるのか。

 命知らずの冒険者、生粋の荒野の男、といった『設定』は無論大嘘なのだが、デイジーにはどうやら、とっくに見透かされていたらしい。


 いつもこうだ。昔からだ。

 失敗の許されない重要な局面に立たされた時ほど、上手く立ち回れなくなる。父にも兄にも、勿論姉にも敵わない。挙げ句、あの呪いのせいで――


 再び、ヒューが溜息を吐き出そうとした時だった。

 響くのは小鳥の鳴き声ばかりと思えた、静かな森の奥から、微かな音楽が聞こえてきたのは。


「……琴の音……?」


 一人呟いて、木々の合間へと目を向ける。

 気持ちに余裕がなかったために、今まで気づかなかったのだろうか。音の源は案外近そうだ。


 森の中を数歩ばかり歩くと、街道側からは見えづらい木の陰に、僧衣の男が一人座り込んで、長細い竿のついた弦楽器を奏でていた。竿の先には、蛇を模した装飾が施されている。

 東方由来の、蛇頭琴じゃとうきんと呼ばれる琴だ。


 ――サヌ教の僧侶。それも、治癒楽士ちゆがくしではないだろうか。


 ヒューは、すぐさま思いついた。

 治癒楽士とは、音楽によって治癒の力を発動させる、魔術士の一種である。


 ヒューの実家は、一族にかけられた呪いを解くため、様々な治癒術の使い手を招いてきた。亡くなった祖父は、その試行錯誤の日々を日記に綴っており、ヒューは旅立つ前、彼の日記を詳細に読み込んでいる。


 祖父の日記の中には何度か、サヌ教の僧の名が登場した。東方の草原の大陸で生まれた、地の精霊王サヌを奉じる信仰の徒であり、地属性治癒術を使う僧侶が多い。東方に伝わる、癒やしの楽曲の紡ぎ手も育成しているらしい。


 結局、サヌ教の僧侶にも一族の呪いは解けなかった訳だが、しかしそれよりも今この出会いは、ヒューの差し迫った体調にとって幸運と言えた。


「そこの男!サヌ教の僧侶だな?」


 ヒューは嬉々として声をかける。

 僧侶は、弦を爪弾つまびく指の動きを止める事なく、耳だけをこちらに傾けた。

 両目は閉ざしたまま、何やら迷惑そうに眉間に皺を寄せている。


 多分、盲目なのだろう、とヒューは理解した。サヌ教の僧侶には、珍しい事ではない。


「良い所に出会えた! 実は、体調が優れないんだ。痛み止めの治癒術か何か、かけられないだろうか? 勿論礼はする!」


 つい勢いで謝礼を約束してしまったが、考えてみるとヒューは一文無しである。どうしたものか、と彼は胸中で悩んだ。旅の始めからこの調子なので、所持金が瞬く間に尽きてしまったのだ。


 呼びかけられた僧侶の方は、少しの間、思案するように沈黙を続けたが、やがて素っ気なく答えた。


「……申し訳ございませんが。今、忙しいので、他を当たって下さい」


 ヒューは、思わず目を剥く。


「待て待て! 森の中で一人、琴の練習をしてたんだよな?どう見ても暇そうだったぞ!?」

「これから忙しくなる恐れがあります」

「頼む! 腹が痛いし、気分も悪い! 死にそうなんだよ!」

「そのままこの場で土に還れば、森がより豊かになりましょう」

「今、遠回しに死ねって言わなかったか!?」


 やけに冷淡な僧侶だ。祖父の日記によれば、サヌ教徒は皆、慈悲深く献身的であるらしいのだが。

 おまけにこの僧侶、言い合いをしながらも、まだ演奏を続けている。音楽の合間に、器用にもぽんぽんと冷たい言葉を投げてくるのだ。からかっているのだろうか。


「分かった、もういい」


 憤然として、ヒューは鼻を鳴らした。

 頭に血が昇ったせいか、腹具合の方は気にならなくなってきた。もう馬車に戻って、安静にしていよう。

 くるりときびすを返し、ヒューは森の入り口に歩き出した。

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