第172話 狂国の魔女

 地球は丸い……。


 天気の良い波の穏やかな日に砂浜に立って海を見つめてみる。ゆるりと丸みを帯びる水平線を見るとこの星が丸いことに改めて感動して、その向こうにある世界に想いを馳せてみたりする。


 しかし実は見通せる距離は5キロメートルにも満たない。


 この5キロメートルという距離は歩けば1時間前後の気が滅入る距離だが、時速400キロで飛び抜ければ僅か45秒しかかからない。


 そして時間は深夜、空の漆黒を映した海面近くを時速400キロを超える速さで、座って体を折り畳んだ人間が飛んでいた。


 しかも全身を黒いコーディネートでキメて覆い隠しまさしく放たれた矢のように音も無く飛ぶのだから、人の五感では余程近くを通り過ぎてもこの未確認飛行物体を識別することは難しい。


 『あれ?今何かが……』と思って振り返る3秒後には、『彼女』は既に333メートルの彼方にいる……。


 だから、たとえ監視を厳とする今の戦時下であろうとも、戦場となっているイギリス海峡を余裕綽々で渡れるのだ。


 彼女はイプスウィッチからドイツのマンハイムまでを軽いドライブ気分で駆け抜ける。その距離は600キロ弱……そう、本人としては『1時間半くらいで着きたいわね』という思惑のさじ加減だった。


(ちょっと急いでるし……久しぶりに目一杯飛んでみるか……)


 すると棒先をあおることもなくフワッと5メートルばかり高く上がった。そうすればより遠くまで見通せるようになるからだ。魔女は夜行性のように夜目が効くのだ。


 人の目もレーダーの科学の目も役には立たなかった。彼女が意識していたかどうかは分からないが、この頃のドイツのレーダーでは小さな物や超低空を飛ぶ物を捉えるには精度も安定性も足りていなかった。

 

 そして堂々と海峡を渡りきると、また音も無く舞い上がって悠々と地上を見下ろしながら尚も東へ向かって飛び続けて行く。


 残りは400キロくらい……オランダとベルギーをかすめるように経由して、あのライン川を目にするとようやくスピードを緩めて下を見下ろした。


 マンハイムはきれいな碁盤の目に整えられた街並みが特徴的で、合流しているライン川とネッカー川の狭間に抱かれている。


「フ…………」


 その整然として美しい街並みを眺めて彼女は笑みをこぼした……。そもそも夫と共に気ままな放浪を始めた頃、この街にふらりと立ち寄ったのは、大河とマンハイムが織りなすこの情景が目立って、二人ともに何となく気に入ったからだった。


 そう、魔女でも絶対に危険が無いとはいえないこの時勢に国境を越えて、しかも敵国であるドイツの領空を侵犯したのは、フレヤの母親のリスベットだったのである。


 さすがはフレイヤの血筋…とでも皮肉るべきなのか、いくら自信があっても敵国へ行き来するような魔女はあまりいない……いや、まずいないだろう。


 もっとも、戦争なんて意にも介さず流浪の生活をしていたリスベットにとっては意を決するような事では無いのかもしれないが、しかし、それだけのリスクを冒す理由が本人ナリにはあった…………。






 ノルシュトレームとマルケイヒーの家族が揃えば空白の一年など無かったにも等しく、その間の出来事が話題に上がるにせよ、お互いに無事で変わりのない様子を確かめることが出来ればそれで十分だった。


 久しぶりの再会に笑顔が絶えなかったこの夜……しかし、それが少し神妙な空気になったのは……


「そう言えば……だいぶ前にちょっとおかしなメッセージを受け取ったのだけど…………」


 フレヤのそんな一言からだった。


 おかしなメッセージと聞いてセアラとアーサラもすぐに思い当たるが、当然リスベットだけは首を傾げるしかない。


「おかしなメッセージ……?それってあれ?私達がたまぁに使う風に乗せるアレのことなの?」


「うん、そう。正直、誰が送ってきたのかも分からない……でも、あのメッセージを受け取ったのはこの街の魔女わたしたちだけ。近隣の町を確認したけれど、他のグループには伝わっていないようなのよ……」


 リスベットは不思議そうな顔をした。


「それなら……やっぱり私達の知り合いということじゃない?それでも、特定多数に限定するなんて、かなり器用なことだけど……」


 彼女達には鳴く動物の声にメッセージを乗せるという能力がある。そして受け取る相手にも簡単な条件付けが出来るという最も謎めいたチカラだ。


「……それで、その肝心なメッセージは何だったの?」


「それは……」


 フレヤはセアラと見合わせてから改めて言った。


「『狂国を止める』……これは間違い無く、ドイツのことよね?」


「っ?!」


 やはり不可解なメッセージにリスベットも目をしかめた。


「どういうこと……?それに、そんなメッセージが何故あなた達に届くの?」


「やっぱり、リズではないわよねえ?」


 リスベットの反応にアーサラも首をひねった。


「フレイはもしかしたらあなたが関わっているんじゃないか……そう言っていたのだけど…………」


「寝耳に水よ。たしかにメッセージの届け先がこの街のメンバーに限られるのならそう…思われるかも…………」


 否定しながらもリスベットは何かが不意に思い浮かんだように口ごもった。

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