第102話 Bartender is always right 4
アトキンズは銘柄も知らないワインに金を支払ったつもりはない。
兵士は武器を手に敵と戦っているが、国民はこの戦争そのものと戦っている。護るべき国民と、守りたいフレヤの想い。そして田舎街のこのパブの足しになると思えば少しも惜しくなかった。
それに足されたもう少し複雑な彼の想いも読み取って、フレヤは快くワインを売った。
「セアラ、ケーキをテーブルに運んであげて……」
「はーい!」
手早く飲み物が出されている横で、そのボトルがどんな面構えをしているのか拝んでやろうとアトキンズは待っていた。そこへセアラがついでに寄ってくる。
「よかったんですか、アトキンズさん?おサイフ…大丈夫ですか?」
「ああ、全然……ただワイン一本の値段としてはかなり面食らったけどな」
「ですよねー」
実はアトキンズが耳打ちされたワインのバーゲンプライスは11ポンドだった。メイポールはビール一杯を6シリングで売っている。そしてイングランドの平均月収はおよそ21ポンドという時代である。
「まあ、どれほど美味いかは知らないが楽しんでもらえると嬉しいよ」
するとセアラが舌なめずりしながら言った。
「やーんもう……ご馳走様ですーーっ」
ホクホク顔で喜ぶセアラにケーキの乗ったお皿が突き出される。
「はいはい…コレ持って行って!」
「オット…ラジャー!」
そしてフレヤはテキパキと全ての飲み物と皿を出し終えた。
「ふう……さてと」
残ったアトキンズにチラリと目をやって、フレヤはワイングラスをひとつ彼に差し出す。
「今日は時間あるのでしょう?」
「ああ、1時間以上は……」
「そう。それじゃあ取り敢えず、テーブルじゃなくて、いつもの席で待っていてくれるかしら?」
「このグラスを持ってか……?」
「そう」
自分は酒を口にするワケにはいかない……そう言う間もなくフレヤは背中を見せてバックヤードへ消えていった。
「…………ええと」
仕方なく同僚の視線を浴びながらテーブルの前をスルーしていつもの辺りに腰を掛ける。事の成り行きを黙って見ていた彼等は興味深気に色んな意味で監視していた。
そこへようやく、わりと無造作にボトルを握ってフレヤが帰って来た。
「おまたせー……
そして今度はうやうやしく、例のボトルを彼の前にそっと置いた。
「シャトー・ピションのロングヴィル・コンテス・ド・ラランド、1906年のヴィンテージよ」
聞いてもアトキンズは困ってうなじをさする。
「お、へえ……て、ボトルを見ても何も感じるものが無いけどな……」
「まあ、そっか。それじゃ、遠慮なく開けさせてもらうわね?」
「あ、ああ……」
フレヤはなんの
そこからは丁寧に、力加減で栓を突き通さないように、痛めないように優しい手つきに変わった。静かに抜き終わったボトルの口はスッと拭きとり、抜いたコルクをグラスの横に添える。
「自分が買ったワインの味も知らないなんて、あまりにも未練よね?」
「しかしフレヤ、今は酒を口にするわけには……」
「この店ではバーテンの私がルールなのよ?」
少し慌てるアトキンズの言うことを聞き流して、グラスに控えめにワインを貯めた。
「吐き出しても良いし……テイスティングくらいは構わないでしょ?……ねえっ?!」
同僚達に聞こえよがしに声を張り、ワザと見まわして微笑んだ。それを咎められる者はいそうにない。
「ほらね?」
フレヤはにこりと笑ってグラスを持ち上げると、大事そうにグラスを手で包んだ。
「少し古いワインだから…ホントはデキャンタージュしてあげたいけれど、そんなに時間も無いし。その代わりに私が魔法をかけてあげるわ」
魔女はそんな事をうそぶいてアトキンズをドキリとさせる。でもそれは誰にでも使える香りを際立たせる作法……手の温もりでゆっくりと立ち昇る芳香がグラスの中に溜まっていく。
「そろそろかしらね?どうぞ……」
僅かに熱を与えられた赤ワインはとろみが増して、追い出されたアルコールの分だけ口当たりを優しく整え香りとしてグラスに留まっている。
メイポールのオーナーが手ずから仕上げてくれたグラスを『冷めて』しまわないうちにとアトキンズはすぐに摘みあげた。
ここからはいつもと変わらない。どうせテイスティングの心得の無いアトキンズは、ウイスキーを嗜む時と同じようにグラスに鼻を近づけた。
「!、へえ……」
先ずの香りに見張った目をすぐに細くした。アルコールを纏った甘い香気の中にはふくよかな葡萄の香りと、清々しい樽の木とささやかな土の匂い。醸造されたことで隠れていた種性が花開いている。
「これまで口にしたワインと比べると……変な言い方だが、良い意味で生々しくて繊細に感じるな……」
ひどくデリケートなものに思えたアトキンズは恐るおそる口に含んだ。
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