第86話 アプヴェーア 3
諜報員のマリエスはベルリンへの呼び出しを受けた際、必ずこの店で待つよう命令されていた。
諜報員はそれぞれに決まった別の場所を指定され、諜報員同士が接触できないようになっていた。しかし時間を指定されても相手が時間通りに来る事は決してない。早くても30分、ときには2時間以上待たされることもある。その退屈な時間の間にマリエスは店内をつぶさに観察する。男、女、軍服、私服、年齢、そして身体的特徴や仕草、雰囲気からその人物が何者であるかを片っ端から考察する。
毎度そのような遊びを繰り返していると、少し場違いな女性に目が止まった。彼女は1人でテーブルにつき、ケーキを目の前に置いて静かにティーカップを傾けていた。推定年齢は25歳から30歳、柔らかい仕草とたおやかな雰囲気から育ちが良いのはすぐに分かる。とても軍属とは思えない。
そして特に目を引いたのは彼女の後ろのテーブルに1人で座っている男である。この店では1人客が必然的に目立ってしまうが、その男は明らかに目の前の女性を気にして目を配っている。
(明らかに男は軍人だが見張っている様子では無い。ボディーガードとなると要人か?余程の高官の家族か……?あの男もただの軍人じゃない、SSなどとは対照的……RSDかもしれないがより屈強さが目立つ。とすると、今、手の空いていそうな部隊といえば、ブランデンベルグあたりか?)
※RSDとは各組織から選りすぐられた総統や要人を警護する為の特殊部隊。ブランデンベルグは情報部から発足した特殊部隊で、単独の先遣部隊としてあらゆる地上戦で成功を収めた。
(しかしこの女性は何者だ……?彼女のまわりだけ明らかに空気が違う。水と油みたいな境目が見えるようだ……)
それは多分、彼女が周りをまったく意識していないからだと気がついた。人がそばにいれば多少は体裁を気にしたり、他人であろうと無意識に同調してその場に馴染もうとするものである。しかし彼女は違った。自分の振る舞いには恥じる所など微塵も無い、そんな確信を彼女からは感じる。
(かといって自尊心だけの
その彼女を視界の端に置きながら勝手にゲームを楽しんでいると、彼女は区切りをつけたのか一旦動きを止めてから静かに立ち上がって店の出口へと歩き出した。当然、後ろに控えていた男もそれに習って後についた。どうやらお茶の時間は終わったらしい。
出口に向かう彼女の視界から外れたところで背中を目で追った。すると、彼女とすれ違いで見知った男が店に入って来る。彼がマリエスの待っていたアプヴェーアの男、彼はクルツと名乗っているが本名では無い事をマリエスは知っている。
クルツという男はいつもマリエスをすぐに見つけるが必ず店内を見回してから近づいて来る。警戒を怠らないのはいいが、いかにも軍人臭いメリハリの効いた動作はどうにもいただけない。せっかくの私服が台無しだと、マリエスはいつも心の中で苦笑いをしていた。
しかし今日はもうひと動作加わった。振り返って後を確認したのだ。
(あの男は誰だ?)
いつも1人で来ていた男が、知らない男を1人伴ってやって来た。
恰幅の良い中年男、出っ張ったお腹は身体を普段使っていないことが分かる。それとなくクルツが気遣っているあたり彼の上官で管理職に見える、そんな男を見た途端マリエスはため息を吐いた。
(はあ。まだ何も分からないが、イヤな予感しかしないな……)
顔に出すことはしないが内心ではヒヤリとした汗をかいている。平静を装うことはこの仕事で真っ先に覚えたことだ。
「ご苦労だったな、フィーリッツ……」
クルツがいつも通りの言葉を掛けてきた。マリエスもいつも通りに立ち上がって握手を交わすために手を差し出した。
「ええ、どうも。お会いするのは久しぶりですね」
「そうか?何しろ毎日が目まぐるしくてな。取り敢えず、先に紹介しておこう……」
ドイツ軍人ならば明らかな上官を前にすれば『直立』『敬礼』更に『再敬礼』などと叩き込まれるが、大半が一般人のアプヴェーアでは軍規が適用されないことの方が多い。
「こちらは私の上官でハルトムート・フラーケ少佐だ」
(!、本名か?ということは名前を出しても問題の無い公けな人物ということか。オレが接触できた中では最も上官だな……)
フラーケと紹介された男は表情を変えずにマリエスを見た、品定めの気になる目つきで。でもいちいち気にせずマリエスはフラーケにも手を差し出す。
「どうも、はじめまして。マリエス・フィーリッツといいます……」
「ふむ…フラーケだ、よろしくな。君達の協力にはいつも感謝している。先ずは座ろうか、楽にしたまえ」
そうは言われてもフラーケの後に2人は腰をかける。
フラーケの次に気になったのはクルツがぶら下げてきた小さ目な紙袋だ。中身はもちろんいつもカネと、それから仕事に必要なモノが入っている。つまりは次の仕事を用意してきた、ということである。
と、マリエスの気が逸れていた時にフラーケが言った。
「イギリスでは大変だったなフィーリッツ君、よく戻って来てくれた」
「は?ええ……網を絞られる前に包囲を抜けられたのは幸運でしたね。言ってもイプスウィッチは地方都市ですからね。ましてやイギリスは空と海の防衛体制ですから、人員は大して濃くなかったですよ……後は人の流れに乗ってロンドンまで南下して、用意してくれていた脱出ルートを使わせてもらいました」
「ふむ……」
「もっとも今、同じ事をしたら確実に捕まりますが……結局、運悪く見つかって、運良く脱出できた、それだけです」
概ね真実をマリエスは話し、自らの行動を分析する。それを聞いていたクルツも頷いていた。
「しかしその状況で冷静に行動できるのはほんのひと握りだ。大抵は早く逃げたいばかりに無理な判断をしてしまう者ばかりだ。『運の良い判断』が出来るというのは『才能』に他ならない」
「最初に受けた君の『授業』のおかげだな。『全力で想像しながら聞け』そう言われたからそうしたさ、本職の言うことは聞いておくもんだ……」
それはご機嫌取りでは無く実感だった。そして、そんなやり取りを聞きながらフラーケはマリエスのことを推し測っていた。
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