第84話 アプヴェーア 1

 ナチス・ドイツにアプヴェーアと言う組織があった。主に外国を対象とした諜報機関でありその要員は1万人とも2万人とも言われているが全容は分かっていない。


 おそらくはドイツ国防軍防諜部の一部として戦前から組織されていたアプヴェーアはヨーロッパ、アメリカ、アジア、そして当然イギリスにも多くのスパイを送り込んでいた。


 徐々に活動を強化されていったアプヴェーアは第二次世界大戦直前には特殊部隊を保持するまでになるが、しかし、スパイのほとんどは軍人では無く一般人で組織されいたという。






 ザクセン=アンハルト州の州都マクデブルクは、ドイツの首都ベルリンから120キロほど西にある。この街はドイツ連邦共和国の礎にもなった神聖ローマ帝国初代皇帝とも縁が深い街でもあった。


 ドイツとドイツ国民は連勝の熱に間違いなく浮かされて、この戦争の最中でも繁華街はそれなりに賑わって、パブの客は熱っぽい息を吐きながらこの戦争と国の行末を語っていた。


 そんな人目の多い表通りから少し離れた路地裏でのこと……


「ほら…カネだ……」


 帽子を被ったままの男が低い擁壁に座った男にB4サイズの封筒を差し出した。


「…………」


 差し出された上包みを黙って受け取り、中身をまさぐってから男が呟く。


「なんだこれ?随分と少ないな。これじゃ……」


「活動資金じゃ無い。今、お前さんをイギリスに送り返せるワケないだろう?イギリスは外国人の入国を最も警戒している筈だ、しばらくはドイツから出るような仕事は無い……」


「なるほど。じゃあコイツは報酬と当座の生活費か……なら、当分は休暇だな?分かった、連絡は定期的に入れるよ……」


 受け取った金を無造作にショルダーバッグに突っ込むと、ソイツはそそくさと立ち去ろうとした。


「待て、フィーリッツ!」


「なんだ?」


 すぐに呼び止められて振り返った男の顔は……イプスウィッチでスパイ騒ぎを起こし、エラとアメリーに救われた、あの男だった。


「勘違いするな。そのカネには交通費も含まれてるぜ」


「?、どこへ?」


「ベルリンだよ。お前には明日の午後3時に出頭するように命令が出てるぞ」


 フィーリッツはすぐにいぶかしい顔をした。彼のフルネームはマリエス・フィーリッツ、ドイツで生まれ育ったが両親の生地であるリトアニアこそが本当の故郷だと心に刻む二重スパイである。


「午後3時?……例によって、例の店か……呼び出しは久しぶりだが、どうにも気が進まないな、イヤなタイミングだ……」


「そう警戒する必要は無いと…思うぜ?たしかにお前さんがムコウでヘタを打った事は伝わっているが、同時に片田舎とは言え、英軍の包囲網から逃げおおせた事もちゃんと伝わっているんだ。仕事の出来は抜きにして、そのサバイバルスキルが評価されている…なんて噂も聞いたぜ?」


「つまりは賛否両論てことだろ?危ういんだよ、そういうのは……お偉いさんの心象ひとつで処遇が変わるだろう?ヘタすりゃあたったひと言でどこへ飛ばされるか……」


 連絡役の男はそんな不安気なフィーリッツの背中を叩いた。


「心配するな!俺たちはドイツ国民だし、お前みたいに英語が堪能な要員は希少だからな。悪いようにはされないさ」


(だと良いがな……)


 フィーリッツとしてはあまり笑える気分では無かった。






 1867年、飢饉から逃れるために10万人以上の国民がリトアニアから脱出した。その多くはアメリカを選んだが、マリエスの祖父母は地続きであるドイツに移住した。その後しばらくして、リトアニアは第一次世界大戦の戦場となる。中世以降、常に戦いと他国の支配、政府の崩壊と再生を繰り返してきたこの国が独立を回復するには、1991年のソビエト連邦崩壊まで待たなければならない。


 しかし、とにかく今は1940年の第二次世界大戦初期である。祖父母が飢餓から家族を守ったように、フィーリッツは戦争から家族を守ろうとしていた。その為に危険を承知でイギリスにコネクションを築いてきたのである。いつでもこのマクデブルクから脱出できるようにと。


 金を受け取った場所から歩いて30分程の郊外にフィーリッツの自宅があった。今は娘と妻との3人暮らしで、互いの両親はすぐそばに住んでいる。


「帰ったぞ、ラーラ……」


 ここはどこの国に住んでいようともフィーリッツにとっては安息の世界である。


「お帰りなさい、マリエス」


 そして妻や幼い娘の顔を見れば、自然と強張っていた表情もほぐれるのであった。


「パパ!お帰り、パパ!」


「やあ、グレーテ!ただいま……」


 膝を折って娘を抱きかかえる度に決意は強くなる。必ず家族と共にアメリカへ移住するのだ。フィーリッツの最終目的地はアメリカでありイギリスは経由地に過ぎなかった。


「ラーラ、明日はちょっとベルリンに行ってくるよ。帰りは、遅くなるな」


 『ベルリン』という言葉と共に隠しきれない不安のケムリがマリエスにまとわりつく。微笑みと決意に混じって不安に燻された炊煙が夫の姿を霞ませる。魔女であるラーラはいつも居た堪れない気持ちを隠して微笑みを返していた。


「もうやめましょうマリエス?この国を出た後の事はどうでもいいわ。あなたの両親とグレーテだけなら一晩あればデンマークまで運べるわ。父のことは母に任せればいいし。それに、ドイツがイギリスに傾注している今はチャンスよ?」


 この時、既にデンマークもドイツに占領されてはいたが、それでもドイツに抵抗する勢力と、隣りの中立国であるスウェーデンへ脱出するルートが用意されていた。しかも今は夏で気候的にも良いタイミングだった。ラーラのこの判断には説得力がある。


「そうかもしれないな……でも取り敢えずベルリンに行って、明日帰ってから考えようと思う。呼び出しを無視すると良いことは無いだろうし、何とか気づかれることなく脱出したいからね」


「ふうむ、そうねえ……分かったわ。とにかく準備だけは進めておくからね?」


 そんなラーラの決意の眼差しにマリエスは頷いて微笑んだ。

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