第23話 完璧なスピットファイア 3

 シニアスクールに通い始めてもエンジンや機械に対する興味は尽きず、ローレルは手当たり次第に知識を求める。そんな渇きを抱えた者にとっての『知識の泉』『オアシス』となるのは図書館である。しかし工学に関する専門書を読む為にはあらゆる言葉が必要となり、理解を深める為には数学が必要になる。更に化学に対する知識と金属やその他あらゆる素材の専門的知識を深くむさぼり、理解することから新たな発想、更に先への進化を考え始めた14歳の頃、彼女の知識と実力はエンジニアの領域を遥かに超えていた。


 そしてその頃に更に強まる欲求…それは本物のエンジンに触れること。彼女の知識欲を満足させ続けられるほど科学やエンジン開発の進歩は速くは無かった。既に本から学ぶことにいていた彼女の楽しみは頭の中で組み上げたエンジンを動かすこと、まさか高価な本物のエンジンを両親にねだるわけにもいかず、場所も無く、道具も無く、全てが望む通りになるのは自分の頭の中のガレージだけ。ローレルは自分の欲求を満たすために自身の脳を進化させ続けた。


 彼女にとって今まで学んできたことはあくまで自分の趣味だと割り切っていたし、深くはまり込んでいた自分をわがままだとさえ思っていたのだから。そんな欲求不満を抱えたまま彼女はオランダの名門デルフト国立工科大学に入学したいという欲求も抑えてブリストル大学へと進学した。するとその日を境にローレルを取りまく世界は一変する。彼女の尋常では無い知的才能は瞬く間に大学講師の間に広まり、各科の研究室からも声が掛かりもてはやされることになる。ただ自分が好きだっただけでコミックの様に読みふけっていたあらゆる専門書の知識が周りを喜ばせている、そんな異常事態にローレルは戸惑いながらも大学生活を過ごしていた。友人が増え、少しは恋愛も経験してそれなりにキャンパスライフを楽しんではいたが、期待していた肝心の講義に満足することはついに出来なかった。


 そして彼女の卒業が間近に迫ると、騒ぎ出したのは大学側と様々な企業、更には他の大学までもがローレル・ライランズの才能を手に入れんが為に声をかけてくる。ローレルは熱烈なオファーに目を白黒させながら彼等にはひとつだけ質問をした。


 『きっと殆んどの時間を機械に触れて過ごしますけど……かまいませんか?』


 その奇妙な『条件』を言うと一様に首を傾げられ、ある者は唸りながら更に顔をしかめて考え込んだ。彼等が求めるものは機械オタクでは無く、優秀なエンジニアがもたらす栄誉と名声、そしてお金だからだ。


 しかしそんな中で唯一、『大したものだ』と声を上げて笑い、感心した上に即オッケーを出したのがスーパーマリーン社だった。しかも新人には異例の高待遇で迎えられたローレルは、遂に夢に見ていた環境を自らの力で手に入れる。しかも居並ぶエンジンはどれも20000ccを超える大排気量で常に最先端かつ最高峰の航空機用エンジンである。それを好きなだけいじり倒す権利を与えられたのである。


 と、軽くローレルの生い立ちを語っていると、世間知らずで偏った、いわゆる『学者バカ』に育ったように思うかもしれない。しかし彼女はそんな半端者では無かった。多くの友人たちとの遊興を楽しみ、おしゃれや食べることが好きで、スポーツなども好んで楽しんだ。まあ、得意かどうかはまた別の話だが。彼女にとって勉強とは食事と同じ様に楽しみ味わうもので、ただの日常の一部であったようだ。しかも学習能力は平均的な人間を遥かに超える高効率で基本的には筆記を必要としないという。尋常では無い……しかしそれが、ローレル・ライランズという天才である。






 姿の見えなくなったアトキンズのMk5に『もしかしてテスト飛行は安全のために海上で行うのでは?』今更ながらそんなことを思い始めたギャラリーの間に残念そうな空気が漂った。


 しかしローレルの耳にはちゃんと聞こえている。


(近づいて来る……スロットルは半開、機速は多分…300キロくらい……あっ!回転を上げた!!)


 そしてようやく皆の耳にもスピットのエンジン音が届いてすぐ、消えた方角にアトキンズ機が見えた!


 高度は変わらずに水平を保ってまっすぐこちらに向かって来るっ、そして極低高度でのスロットル全開、カン高いエンジン音とその迫力がギャラリーをたじろがせた瞬間、Mk5は鼻先を蹴り上げられた様に空へ昇っていく……アトキンズは身体の数倍の重さに耐えながら操縦桿を引き続けて大きなループを描いた。200メートル、300メートル……高度計が回り続け綺麗に半径を描いた所で頂点を通り過ぎる。


(よく聴いていろよっローレル!)


 直上で止まったように背を見せるMk5を見上げて、ローレルは胸の前で握ったこぶしに祈りを込めた。


 共に見上げていたギャラリーの中で誰かが言った。


「オイ……あんな高度でもし、エンジンが止まったら……?」


「不味いだろう、立て直すには高度が足りないし。最悪…あの高度じゃパラシュートも開かないから胴体着陸だな」


 そんな事はローレルも、そしてアトキンズ自身も分かっている。それは彼女の耳に確実にエンジンの音を届ける為と、そして彼女の仕事を…いや、彼女自身を信じていたからだ。


「少佐…………」


 新しいキャブレターが効果を発揮しなければ、まさに今、降下に入ったMk5は推進力を失って自由落下のまま地面に激突するかもしれない。しかしアトキンズは大地に向かってもスロットルを絞ることは無い、そうでなければ耳を目一杯大きくしているだろうローレルにハッキリとしたエンジン音が届かないかもしれないからだ。


 ブ…ッ……ブブッ……


「っ!!」


 ブ……ッバババババババババ……ッ


 Mk5は息継ぎとほんの一瞬の喘ぎの後、すぐにまた息を吹き返した。


「いい子だっマークファイブ!」


 ほんの一瞬、ほんの一呼吸、これならグズったとは言えない。ようやくスロットルを絞った左手でアトキンズは思わず拳を振り上げた。そのエンジンの音はMk5を見上げていたローレルの耳にもしっかりと届いている。


 握りしめていた両手で思わず、溢れてこぼれてしまいそうな何かを抑えて口を覆った様に見えた。


「まわってる……っ、ちゃんと…動き続けてくれてる…………」


 Mk5は無事に『危険領域』を脱すると回転数を落として残りの半径を描いた。ギャラリーからは小さな歓声が起こっている。ギャラリーにはローレルとは違ってこの時のエンジンの『機嫌』を推し量れるわけが無い、それにループの途中でエンジンが多少グズったとしても、止まらない限りは凌げることを知っていたからだ。どちらかと言うとアトキンズが無事にループを回りきったことへの安堵だったのだろう。


 ループを回りきったMk5はそのまま水平飛行はせずに再びスロットルを全開にして同じ軌道で2周目に入った。しかし今度は宙返りでは無く頂点でロールをして上下を戻し、今で言うインメルマンターンを行う。しかしその直後、アトキンズは操縦桿を押し込んで機首を地面に向かって突き立てると、更にそこからスロットルを全開にして急降下をする、そう…今までドイツ機がスピットから逃れる為に行っていた回避行動である。これをやられるとスピットは追うことが出来ずに誰もが何度も苦い思いをさせられてきた。


 一見地味だが降下速度が速い分宙返りよりも遥かにリスクが高い。この高度からでは3秒後には地面にご帰還となる、もっとも原型も残らないが……

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