声を聞かせて
レンタカーは僕が運転して帰ることになった。森さんは、あの日と同じように助手席に座った。星原さんは森さんの両親の車に同乗し、その車は今僕たちの車の前を走っている。
「わたしの計画と居場所を突き止めたのは、佐倉くんでしょ」と森さんが言った。
「もっと早く、気がつくべきだった」と僕は言った。
「この事件のことを、佐倉くんは記事にするつもり?」
僕は首を横に振った。
「柿田さんが言っていた言葉を覚えている? 『この事故の記事は誰の利益にもならない』って」
「うん」
「民事裁判を起こしている遺族団体に混乱を及ぼし、それを書いた記者には必ず報復を受けるだろうという意味に、僕は受け取った」
「佐倉くんも、時の娘を殺そうというの?」
僕はかぶりを振って答えた。
「今回の光岸の事故の隠蔽は巧妙だった。それはかつての不正発覚で、手酷い目にあったからだ。匿名のものによって情報がリークされ、世論からのバッシングを浴び、果てはフィクションの作品の種にされてコケ落とされた」
現実から生まれたフィクションが、現実に影響を与えた。
「その小説が書かれた背景には、企業の隠蔽体質を改善させたい狙いがあったのかもしれない。だけど結果は逆に働いてしまったのね」
「でも、こうも言える。フィクションの作品は、現実世界に影響を与えることができる。と言うよりも、フィクションと現実世界は常に互いに影響を与え合っているんだ」
完全なフィクションだけの世界も、完全な現実だけの世界も、この世には存在しないのかもしれない。フィクションと現実は、共にひとりでは生きていけないのだ。
「僕はこの事故のことを、今はまだ記事には書けない。僕は新聞社に入り、今回みたいな悲しい事件を再び起こさせないようにしたいから」
「じゃあ誓ってくれる? あなただけは時の娘を殺さないって」
「誓うよ」僕は言った。
彼女はどこか安心したように、目を閉じた。
「でも、他の方法でこの事故のことをたくさんの人に伝えたいんだ。それには、森さんの力が必要だ」
「どう言うこと?」
「何も本当に森さんが死ぬことはないんだ。死にたいなら、フィクションの中で死ねばいい」
小説『時の娘』によれば、真実はその時代の些細な物事のすべてに宿るらしい。新聞の広告に宿ることもあれば、小説の片隅に宿ることだってある。
「わからない」目を瞑ったまま、森さんは言った。「うまく書けるかどうかわからない。それに、もし書けたとしても、それを大手のメディアや出版社が取り扱ってくれることはないと思う。そしてオーソライズできなければ、その物語は多くの人には届かない。結局のところ、無名の記者の書く陰謀論と変わらないのかもしれない」
僕はそれに、反論することができなかった。柿田さんですらできなかったことだ。僕らにできる確信はなかった。
「もう少し、時間をちょうだい。決して多くの人に届けることができなくても、世論を変えるところまでいかなくても、わたしはそれを書きたいと思えるような気がするの。でも、多分それには体力が必要で、今、わたしの中にはそれがない」
兄の死後、森さんは大好きだった推理小説を読むことができなくなった。そんな彼女がその兄の死を題材に、小説や劇の脚本を書けるようになるのは、何年も先になるかもしれない。でも、きっとその時は訪れる。真実は時の娘なのだから。 僕らが真実のために働きつづける限り。
「疲れた」森さんは頭をシートに押し付けながら言った。
「お休み。着いたら起こすよ」僕は言った。
彼女には何よりも休息が必要だ。
彼女はシートを深く倒し、そして眠った。
僕はあの日を思い出した。森さんのサークルの劇のため、彼女たちを小学校まで載せて運転した日のことだ。あの日もこうして彼女は助手席で眠っていたのだ。そして「殺してごめんなさい」と寝言を言う。それが今回の始まりだった。
彼女が殺したと思い込んでいたのは、彼女のお兄さんのことだと、僕はずっと思い込んでいた。でもそれだけじゃない。彼女は時の娘を殺したことについても、罪の意識に苛まれていたのだろう。それが「殺してごめんなさい」と言葉になったのだ。そして彼女は自らに、最も重い罰を与えようとした。
無論、彼女は誰も殺していない。そして自分自身を殺す必要もない。きっと本当は、フィクションの世界の中ですら死ぬべきではないのだ。
僕は彼女を起こさないようゆっくりと峠を下り続けた。車の頭上には雲のない冬の夜空が広がり、たくさんの星々が優しい灯りを降らせていた。祖父母は今、僕らを見ているだろうか? 見ていたら何を思うだろうか?
森さんの家の前に着いた。ご両親たちは既に帰ってきているようで、車庫には黒いカローラが賢い番犬のように座っていた。
何はともあれ、森さんはまたこの家で両親とともに暮らすのだ。しばらくは多少ぎくしゃくするだろう。でもそれも仕方のないことだ。ぎくしゃくしない家族なんて、世界にするのだろうか?
「森さん、着いたよ。起きて」
倒したシートに横たわる彼女は、案の定ぴくりとも反応しない。彼女がよく眠る原因が、僕にはわかる気がした。きっとこれは、精神的な苦痛への彼女の自衛的な意味を持っているのではないだろうか。それはどこまでも限りなく死に近い眠りだった。死とその兄弟なる眠り、とはどこの言葉だったか。
「ほら、森さん、着いたって」
その時ふと、以前に星原さんが言っていたことを思い出した。彼女のお兄さんは、森さんの頬を引っ張ったりして起こしていたのだという。そのせいで森さんは、ほっぺをつねられると眠りから覚めるらしい。しかし僕が彼女を起こした時には、そんなことはしなかった。
「森さん。森――」
彼女はいつも、この言葉に反応していたのだ。
「美月」
彼女の目が開いた。しばらくぼんやりと宙を見つめ、そしてまた瞼を閉じた。
「あなたの声は、兄に似過ぎている」
強く閉じられた瞼の間から、一筋の雫が流星のように流れて消えた。
彼女はどれだけ辛い思いをしてきたのだろう。自ら死を選ぶほどの苦痛。そんな拷問のような時間を、彼女はこれまでずっとひとりで戦ってきたのだ。誰のことも心から信頼できないまま。
僕は彼女を傷つけた全員を許せなかった。光岸だけじゃない。真実を歪めた者たち全員だ。時の娘殺しの一人ひとりが、いかにして彼女を苦しめてきたのか、日本中の紙とインクを使って世界中に伝えたかった。
だが、今はまだその気持ちを堪えなくてはいけない。春が来るのを待って、花を咲かせるサクラソウのように。
「もう朝なの?」と目の上に腕をあてた彼女が弱々しく言った。
「まだだよ」
外はまだ暗く、静かだった。まるで時が止まったかのように、あらゆるものが動きを止めていた。だが、じきに太陽が昇り地上の全てを照らし、鳥たちは歌い始めるだろう。
「もうすぐだ。朝はすぐそこまで来ている」
《了》
時の娘殺し 雪村穂高 @YukimuraHodaka
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