第193話 ボルマンの思い、カレーナの想い②
どのくらい落ち続けていたんだろう?
気がつくと俺は、深い、深い奈落に落ちこんでいた。
静寂。
そして、冷気。
芯から体が冷えそうなその場所で、俺はやっと目を開けた。
「…………?」
そこには何もなかった。
身震いするような冷気の中で、記憶もなく、感情もなく、ただただ暗闇が広がっている。
下を見ても何もなく、上を見ると遥か頭上で感情の嵐が渦巻いているのが分かった。
きっと、あそこから落ちてきたんだろう。
「…………さむい」
心まで凍りつきそうなその場所で、俺はガタガタと震える。
このままじゃ、死んでしまう。
これならまだ『上』の方がマシだ。
そう感じた俺は、上に登る方法を求めて彷徨い始めた。
☆
どれだけの時間が経ったのか。
上に登る階段もこの空間からの出口も見つけられず、俺はあまりの疲労と寒さに、ついに膝をついた。
「っ……」
すでに足裏の感覚はない。
今、地についた膝と両手からも、すごい勢いで熱が奪われてゆく。
助けは来ない。
抜け出す道もない。
まるでこの世界が、俺という存在を否定しているみたいだ。
冷気は体だけでなく、心まで凍てつかせてゆく。
孤独。
見捨てられる恐怖。
そして、絶望。
「……カレーナ」
寒さで朦朧とする中、彼女の名が口から漏れた。
「お前も、こんな気持ちだったのかな……」
そうして、彼女のことを思った。
––––その時だった。
冷気に飲まれ、感覚を失っていた指先に、わずかに熱を感じた気がした。
「?!」
地についた自分の手を見る。
暗闇でろくに見えないはずの両手の輪郭が、かすかに浮かび上がっていた。
手が光っている?
……いや、ちがう。
これは、地面が光ってるんだ。
凍りついていた思考が、ギギギ、と音を立てて動き始める。
気がつくと俺は、麻痺した指先も顧みず、必死で暗い地面を掘り返し始めていた。
しばらくして。
手をボロボロにしながら掘り返した地面から、それは顔を出した。
スマホほどの大きさの、小さなビジョン。
「これ…は……?」
かじかんだ手をビジョンに伸ばす。
指先がそれに触れた瞬間だった。
「?!」
カッ、と眩い光が辺りに放たれた。
同時に、意識と体が引っ張られる。
「くっ!!」
再びの、吸い込まれる感覚。
寒さと疲労で消耗した体と心は、その力に抗うこともできず––––俺はビジョンの中に吸い込まれた。
☆
最初に感じたのは、暖かな空気だった。
そして、美味しそうな何かの香り。
これは……野菜を煮込んでいるんだろうか?
全てが凍りつきそうな先ほどの空間から一転、穏やかな空気に包まれた俺は、ガタガタと震えながらゆっくりと目を開けた。
「……?」
そこは、民家の一室のようだった。
もちろん日本のじゃない。
ユグトリアのそれだ。
目の前にはコンパクトなダイニングテーブル。
傍らの壁には、玉ねぎなどの野菜が入った網袋がいくつも掛けられている。
そして、テーブルの向こうの台所では、こちらに背を向けながら料理する、小柄な金髪の女性の姿があった。
どこか見覚えのあるような……でも違うような後ろ姿。
その答えは、すぐに明らかになった。
「お待たせ」
そう言って料理皿の乗ったお盆を持ってやって来たのは、彼女だった。
「……? どうかした? そんな不思議そうな顔して」
くくって前に垂らした、長い金髪。
少しだけ肉がつき、スレンダーながらやや女性らしくなったプロポーション。
そして、大人っぽく綺麗になった顔立ち。
が、吊り気味の目や、しゃべり方は変わらない。
「かっ、カレーナ?!」
驚く俺に、目を丸くする女性。
「ちょっと、びっくりさせないでよ。どうしたの? ボルマン」
そう言いながらお盆を置き、皿をテーブルに並べてゆく。
サラダにパン、それにこれは……
「今日はあんたの大好きな、私特製ポトフだよ」
そう言って少しだけ顔を赤らめるカレーナ。
なんだこの『ツンデレ気味な可愛い奥さん』は。
彼女は着席すると「食べよっか」と恥ずかしそうに言った。
「あ、ああ。……いただきます」
どこか夢の中にいるようなぼんやりした頭でそう答える。
目の前には、美味しそうなポトフ。
俺は自分の前に置かれた木製のスプーンでそれをすくい、口に運ぶ。
そして、スプーンが口に触れた瞬間––––俺はまた、引っ張られた。
☆
暗闇に、三つのビジョンが浮かんでいた。
一つめは、さきほど俺が体験したビジョン。
あとの二つは、また違うビジョンだった。
二つのうちの一つは、カレーナが料理をする姿。
ただしそのビジョンの中の彼女は、まだ成長してはいない。俺がよく知る彼女のままだ。
作りながら色々と試行錯誤して、一喜一憂しているのが見てとれた。
そしてもう一つのビジョン。
そこには、俺が映っていた。
どこか覚えのある、短い映像が繰り返される。記憶と違っているのは、これがカレーナの主観だからだろう。
ビジョンの中の俺は、無責任に語りかけていた。
『カレーナは良い奥さんになりそうだな』と。
その重さも知らずに。
そこまで来て、さすがの俺も気づいた。
この三つは、過去と、現在と、カレーナが夢見る未来なのだと。
––––胸が、激しく締めつけられた。
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