第170話 封術銃の開発 ③

 

 ☆今回は焼入れについてかなり熱く語っております。興味のない方は、読み飛ばして会話文をお楽しみ下さい。






 怪訝を通り越して不審げな目でこちらを見る鍛冶屋に、俺は説明を始めた。


「要するに、冷却の最終到達温度を100℃以上に固定したいんだ。具体的には、料理で揚げ物を揚げる170℃から、仕上げの200℃手前くらいの温度が望ましい。そのためには、100℃で沸騰してしまう水じゃだめだ。油を使わないと」


「でも、油なんかに赤めた鉄を突っ込んだら、盛大に燃えちまうだろ」


「燃えないさ」


 呆れ顔のオルグレンを、俺は鼻で笑った。


「料理に使う菜種油なら、よほど高い温度じゃなきゃ燃えない。考えてもみろよ。揚げ物なんて屋台でだって売ってるんだぞ? その度にボヤ騒ぎになってたら、揚げ物自体が禁止されるだろ」


「いや、まあ、そうなのか?」


 首を傾げる中年オヤジ。


「そりゃあ、沸いた油の表面を赤めた鉄で撫でたりしたら燃えるだろうがな。ポチャンと一気に沈めれば、一瞬炎があがるだけですぐに消える」


 菜種油の発火温度は、ガソリンや灯油に比べてはるかに高かったはず。「火をつけようとしてもなかなかつかない」と聞いたことがある。


 そもそも戦前は、焼入れ油として普通に使われていたのだ。今回の件で焼入れの冷却に使うことに不安はない。




「むう……」と腕組みするオルグレン。

 彼はしばらく考えると、口を開いた。


「菜種油が燃えにくい、ってのは分かった。それでなんでわざわざ焼入れの『冷やし』を、熱した油でやるんだ? 冷たい水で冷やした方が硬くなるんじゃないのか?」


「さっき自分で言っただろ? 『硬すぎてヤスリがもたない』って。だから『ほどほどに硬い』ところを狙うんだよ。それに『ほどほどに硬く焼入れした鋼』は歪みが少ないんだ」


「そうなのか?」


「ああ。外国の書物にそう書いてあったぞ」


 しれっとそんなことを言ってみる。

 日本という異世界の国の本に書いてあったのだから、嘘ではないだろ。


「むう…………」


 再び唸る鍛冶屋。


 彼には詳しく説明しないが、俺は今回、前世で『マルテンパ』と呼ばれた熱処理の手法を再現しようと考えていた。




 炭素が溶け込んだ鉄……鋼というのはとても不思議な代物で、様々な熱処理により、その組織の特性を様々に変える。


 それどころか、分子レベルの結晶構造すら変わってしまうのだ。ちなみにこの『結晶構造の変化』が焼入れ時の歪みの度合いに直結する。


 一般に『焼入れ』と言った場合、炭素量0.3%以上の鋼を800〜900℃程度まで熱し、30〜60℃くらいの水や油に浸けて急冷する。


 この操作で得られるのは『焼入れマルテンサイト』と言われる組織で、めちゃくちゃ硬くて、非常に脆い。

 おまけに焼入れ前と結晶構造が変わっているので、かなり歪んでしまう。


 ただまあ、この美味しくない組織をそのまま置いておくことはほとんどなくて、再度熱を加える焼戻しという作業をして『焼戻しマルテンサイト』という、かなり硬いけど脆くはない組織に変化させるのが普通だ。


 狭義の焼入れというのは、要するに鋼を『マルテンサイト』という硬い組織にすることを言う。




 さて。

 そこで先ほどの『マルテンパ』である。


 マルテンパは等温焼入れという種類の焼入れで、加熱後に200℃弱程度の冷却剤に浸けこんで冷却し、しばらくその温度を維持する。


 焼入れ時の冷却速度と到達温度はかなり重要で、鋼の組織をきれいにマルテンサイトにするには、数秒以内に730℃以上から200℃以下まで冷却しなければならない。


 では、冷却が遅れるとどうなるのか。もっと柔らかい、別の組織が混じり始める。


 例えば到達温度が250℃程度ならば、マルテンサイトにはならず、ベイナイトというほどほどに硬くて粘り強い組織に変化する。

 しかもこのベイナイトは、結晶構造が大きく変化しないため、焼入れ後もほとんど歪まない。


 要するにマルテンパは、①焼入れによりマルテンサイトにしながら、②同時に焼戻しの効果も得て、かつ③ベイナイトも得られる方法、ということになる。


 まさに一挙三得。

 ほどほどに硬く、歪みが少ない鋼をつくることができる。


 マルテンパは処理時間が長いため、焼入れの主流にはなっていないが、非常に有用な熱処理方法であるのは間違いない。




「まあ、騙されたと思ってやってみてくれ。どのくらいで試作できる?」


 俺の問いに、怪訝そうな顔のまま考え込むオルグレン。


「一週間もあれば、一応の結果は出ると思うぜ。上手くいくかどうかは正直わからんけどな」


「それでいいさ。じゃあ、よろしく頼む」


 俺は、ぽん、ぽん、と鍛冶屋の脇腹を叩くと、工房を後にしたのだった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る