第69話 テルナ湖の湖畔で

 

「どうかした?」


 俺の問いにカエデさんは一瞬考えるようなそぶりを見せたあと、首を振った。


「……いえ、なんでもありません」


 いや、なんでもなくはないだろう。

 彼女は確かに今、足を止めてた。

 普通なら気付かずに通り過ぎてしまうような分岐の前で。


 ひょっとすると……いや、ひょっとしなくても、カンマツリがらみの不思議ぱぅあーで祠の存在に気づいたんだろうか。


「そう?」


 訊き返すと、カエデさんは頷いた。


「はい。足を止めてしまい失礼しました」


 どうやら彼女はこの件を掘り下げるつもりはないみたいだ。


 一向は、再び歩き始める。


 そして数分後、俺たちは目的地に到着した。





「あ、ひょっとして、あれがそうですか?!」


 隣を歩いていたエステルが、興奮気味に声をあげた。


 彼女の視線の先。

 森の小道を抜けた先にあるもの。


 それは大きな湖だった。


「うわあ……!!」


 驚きに目を見開き、エステルが、とっとっとっ、と前に進んで歓声をあげる。


「すごいっ。絵画の中の風景みたいです!」


 彼女の言葉の通りだった。


 紅葉した木々の黄色や朱が湖面に映り込み、はるか彼方のローレント山脈を背景に、幻想的な風景を描きだしている。


 これが俺のおすすめの場所。テルナ湖。

 我がダルクバルトで一番美しい風景だった。


「気に入ってくれた?」


 きらきらと目を輝かせる婚約者に尋ねると、彼女はこちらを振り返り、満面の笑みで頷いた。


「はい! とっても!!」


 もう、その笑顔を見れただけで十分来た甲斐があったよ。


「よかった。僕も今回の目標を達成できそうだ」


 俺の言葉に、エステルが首を傾げる。


「目標、ですか?」


「うん。ほら、あれ」


 指差した先にあるのは、湖畔に横たわる身長の二倍の高さはありそうな巨大な岩だ。上面が平べったく、石の舞台のようになっている。


「あそこに君と二人で座って湖を眺めるのが、今回の僕の目標」


 ぼっ、と顔を赤らめる婚約者。

 そういう自分も顔が熱い。


「おいで、エステル」


 俺は彼女の手を取った。





 その岩は後ろ側がなだらかに傾斜し、スロープのようになっていた。

 前に来た時は子供たちがワサワサと群がり、釣りをしたり、滑り台のように滑ったり、さながら公園の遊具のようになっていたが。

 幸いなことに今日は誰もいなかった。


 子分たちとカエデさんは、気を利かせて離れたところで思い思いに景色を楽しんでいる。


 俺は傾斜を登るエステルの手を引いていた。


「足元、気をつけて」


「は、はいっ。ありがとうございます」


 体重を落とし、ダイエットでトレーニングをしているであろうエステルは、全く危なげなく岩を上ってきた。


 うん。俺の手、いらんかったね。

 でもまぁ、嬉しそうにしているし、いいか。


「わあ……!!」


 エステルが目を輝かせた。


 高い場所から見下ろす湖。

 その風景は圧巻だった。


 湖面に映る紅葉と青空。

 さらさらと吹き抜ける風。


 今この時、俺たちはこの湖を独占していた。




 エステルを誘い、岩のふちに腰を下ろす。


「綺麗…………」


 彼女はぽぉ、と目を細め湖面を見つめる。

 俺は一緒に湖面を見つめながら、口を開いた。


「この湖には言い伝えがあってさ」


「言い伝え、ですか?」


 エステルがこちらに顔を向ける。


「うん。前に村長から聞いた話なんだけど……なんでも、心の清らかな人が湖を見ると、幻が見えることがあるんだって」


「まぼろし…………」


 彼女は再び湖面を見つめた。


「湖の中に、この世ならざる景色が見えるとか。……ひょっとしたら君なら見えるかもしれないね。散々悪事をはたらいてきた僕には無理だろうけど」


 頭をよぎるのは、ボルマンが傷つけてしまった一人の少女のこと。

 そして、川流大介(おれ)の羨望、妬み、恨み。


 はは、と卑屈に笑う俺に、エステルは珍しくちょっと怒ったような顔をした。


「そんなことありません」


「……エステル?」


 驚いて彼女の顔を見る。

 エステルは澄んだ青い瞳で俺を見つめ返してきた。




「人は……間違うものです。他人を傷つけてしまうこともあるでしょう。では間違った人は、ずっと咎人として生きなければならないのでしょうか?」


「い、いや…………」


 そのまっすぐな瞳に、思わず目を反らす。


 エステルはすっと俺の左手をとった。

 思わず彼女の顔を見る。


 彼女は俺の手を両手で包むと、目を閉じ、慈しむように言った。


「過ちは、償うことができます。例え償えなくても、困った人に手を差し伸べることができます。誰かの支えになることだって……」


 少女はゆっくり目を開いた。


「ですから、ご自分を傷つけるようなことを仰るのはやめてください。少なくともあなたは一人の女の子を暗い部屋の中から、明るい陽の光の下に連れ出してくれたんですよ?」


 一人の女の子、というのはエステルのことだろうか。

 俺が傷つけた少女と、救った女の子。

 間違いは償わなければならない。だが全てを否定する必要はない、と。婚約者はそう励ましてくれているんだろうか。


 エステルは続けた。


「ボルマンさまは、クルシタ家の出来損ないのわたしに、一人の人間として接して下さいました。わたしに『生きる意味』を与えて下さったんです。ですから、何があっても、例え世界の全部があなたの敵になっても、わたしはずっとあなたの隣にいます」


 彼女はそう言って、やんわりと微笑む。


 気がつくと、自分の頰を温かいものが伝っていた。




 前世で、ここまで自分のことを肯定してくれた人がいただろうか。

 必要としてくれた人がいただろうか。


 霞ヶ関勤めの父は家庭に興味がなく、いつも帰りが遅かった。遊んでもらった記憶がない。

 優しかった母親は、小学校一年のときに事故で逝ってしまった。

 一人きりで食べる夕食。

 一人で包まる冷たい布団。

 明るく振る舞いながら、いつも心に穴があいていた学校での日々。


 空虚な心を埋めるようにゲームにのめり込んだ。

 ゲームでは、物語とネットの繋がりの中では、自分が必要とされている気がしたから。


 今思えば、それは自分へのまやかしだった。

 結局、俺は一人のまま死んだ訳だし。




 エステルは、俺の頰についた水滴を指で拭き取った。


「……ボルマンさま?」


 小さく首を傾げるエステルに、俺は笑いかけようとして失敗した。気恥ずかしくて顔が歪んだんだ。


「その…………みっともないとこ見せてごめん」


 少女は小さく首を振る。


「みっともなくなんて、ないですよ」


「……そっか。ありがとう」


「どういたしまして!」


 エステルの花のような笑顔が咲き誇った。




 ……ルナ・ル……ナリア……




 その時、木々のざわめきに乗って、誰かの声が聞こえた気がした。


 どこから聞こえたのか。


 首を巡らし辺りを見回す。


「…………?」


 もう、その声は聞こえなかった。


 だが…………


「ボ、ボルマンさまっ。あれを……っ!」


 エステルが息をのみ、俺は彼女が指差した先を目で追う。


 彼女の指は、湖面を指していた。


「え? …………えぇっ!!!???」


 俺は自分の目を疑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る