第62話 狂化
ジャイルズから報告を受け前方を確認すると、そこでは異様な光景が繰り広げられていた。
俺たちから百メートルほど先の路上。
四匹の野犬(ワイルドドッグ)が一匹を取り囲むようにしている。
中央の大柄な一匹は挙動がおかしく、だらりと舌を垂らし、ぼたぼたと涎を溢しながら、酔っ払いの中年リーマンのようにフラフラゆらゆらと体躯を揺らしている。
……犬特有の嫌な病気の名が頭をよぎった。
残る四匹は一目見て分かるくらいに手負いだ。
体のあちこちから血を流し、足を引きずっている個体もいる。
「……仲間割れ?」
俺が呟いた直後。
背後にいた一匹が、酔っ払い犬に飛びかかった。
死角からの鋭い一撃。
だが酔っ払いは難なくそれをかわすと、一瞬で着地した襲撃者に迫り、鋭い歯でその首元に噛みついた。
ヒャン!!
首に食いつかれた惨めな襲撃者は、酔っ払いに振り回され、地面に叩きつけられる。
刹那、残る三匹が一斉に酔っ払いに襲いかかった。
だが酔っ払いは口に咥えた犬の死体を盾のようにして、力任せにそれらを振り払う。
再び距離をとり、一匹と三匹が睨み合った。
一匹の瞳は、不思議なことに金色に光って見える。
やがて、ボタリと、咥えられていた犬の首が落ちると、それを合図に再び三匹が動いた。
その時頭の中で、目の前の光景と、ある記憶が結びついた。
「……ひょっとして、あれが狂化か?」
俺の言葉に、皆がこちらを振り返った。
しばらく前のこと。
師匠(クリストフ)に付き添ってもらって魔物と戦うことに慣れてきた俺たちは、自分たちだけで街の外に出たい、と申し出た。
少し考えた後、師匠から返って来た答えは、是。
「そろそろ、良いかもしれませんな」
師匠はそんな風に言って、自分たちだけで街の外に出る際のポイントと注意点をレクチャーしてくれた。
街道沿いには、ゴブリンや野犬(ワイルドドッグ)などの弱い魔物しか出ないこと。
ダルクバルト領内も、魔獣の森を除けば基本的には街道と同程度の魔物しか出ないこと。
但し、街道や領内でもひとつだけ例外があること。
それが「狂化」した魔物の存在だった。
「狂化は、魔物の病気、または突然変異とも言われてますが、本当のところはよく分かっておらんのです」
ペント郊外の練兵場で、師匠(クリストフ)はそんな風に説明を始めた。
「狂化した魔物は、普通の個体に比べ筋肉が極端に発達し、身体能力が向上します。レベルで言えば2倍から3倍程度になっていると考えれば、まあ間違いないでしょう」
ノーマルの野犬(ワイルドドッグ)のレベルは5〜6だから、狂化した個体のレベルは10〜18に達することになる。
「その瞳は金色の狂気に染まり、酒に酔ったように足もとがおぼつきません。ですが見た目に油断してはなりませんぞ。いざ戦闘になれば、筋力にまかせて恐るべき力(パワー)と素早(スピード)さで飛びかかってきますからな」
眼前では、まさにクリストフの言った通りの展開が繰り広げられていた。
狂化した犬が三匹を翻弄し、鋭い牙で更に一匹に致命傷を負わせ、その首筋を咥えて振り回す。
残る二匹がやられるのは時間の問題だろう。
「まずいな」
思わず言葉が漏れた。
選択しなければならない。
戦うか。
逃げるか。
純粋な戦力で言えば、こちらが上だ。
なんせチート紛いのカエデさんがいる。
彼女ならあの狂犬も一刀のもとに斬り捨ててしまうだろう。
だが俺の立場では、彼女に頼る訳にはいかない。
彼女はミエハル子爵の配下であり、エステルの護衛なのだ。
これはダルクバルト領内の問題だ。
俺たちだけで対処しなければ、タルタスでの盗賊襲撃事件のように、領主家としての統治能力を問われてしまう。
では、逃げるか?
本来であればそれが順当だろう。
ペントに引き返し、クリストフたちに対処させる。
父親(ゴウツーク)なら迷いなくそうするし、クリストフからも、狂化した魔物を見たらすぐに逃げるように、と言われていた。
だがもし、俺たちが援軍を呼びに行ってる間に、あの狂犬が街に近づいたらどうなるか。
俺たちの背後には、人の縄張りである農地が広がっていた。
この時期、ほとんどの農家はまだ畑に出て農作業をしている。実際、ペントを出てからここに来るまでに何人も見かけていた。
彼らが狂犬(あれ)にやられたら……。
「坊ちゃん、どうします?」
ジャイルズが問い、皆の視線が俺に集まる。
くそっ!
俺は、覚悟を決めた。
「カレーナは雷撃(サンダーボルト)の詠唱開始。スタニエフはカレーナを守れ」
「りょーかい!」 「はいっ!!」
カレーナは馬を降りると、すぐに詠唱を始める。
「ジャイルズ、俺とお前で詠唱の時間を稼ぐ。倒さなくていい。足止めするぞ」
「おう!!」
俺はエステルたちを振り返った。
「領兵二人はエステル殿の護衛と誘導を。ペントに戻り、クリストフを呼んでくれ。エステル、すまないが僕たちを置いて退避して欲しい」
婚約者(エステル)は一瞬、何かを言いかけたが、やがて思い止まったように頷いた。
「……わかりました。ご武運を」
最後に、最強メイドに声をかける。
「カエデさん、エステルを頼みます」
「ご心配には及びません」
カエデさんは馬上からゆったりと礼を返してくる。
「よし、行ってくれ!!」
俺の言葉に、エステルたちが馬を巡らせ、退避を始めた。
俺とジャイルズは馬を降り、争っている魔物たちの方を睨んだ。
キャイン!
狂化した個体に挑んでいた最後の一匹が、腹に牙を立てられ、断末魔の悲鳴をあげる。
赤いものが飛び散り、また一つ血だまりが広がってゆく。
化け物が、その狂った瞳で、ジロリとこちらを一瞥した。
一瞬の睨み合い。
そして子牛ほどもある狂犬(ソレ)は、ゆらりとこちらに踏み出した。
「行くぞ、ジャイルズ!!」
「おう!!」
俺たちは剣を構え、走り出した。
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