98話_平穏と幸せの尺度
その日、茶柱が立った。
それだけで1日が良い日になるのではと思えるもの、それが茶柱だ。
サキュバスにとってそれは、好きな人に会えたことに置き換わる。
姿を見れたら1日ハッピー。
話が出来れば上出来で、デートに行ければ夢心地。
付き合うことになったなら───。
しかし、普通のサキュバスだとそこから先を維持するのはなかなか難しい。
何故なら、彼女たちは刈り取るものだからだ。刈り続ければいずれはなくなるのが必常。そうしたら彼女たちは泣く泣く次の候補を見つけなければならない。
サキュバスはそうして日々を過ごしているのであった───。
ところ変わって天寿宅。
ここにいるサキュバスは、サキュバスであってサキュバスでない。故に、それはまたそれで他には打ち明けられない悩みを持っていたのであった。
「はぁ…」
ソフィアは昼ご飯の洗い物をしながらため息をついた。普段、何事もなくにこやかに過ごす彼女にとってため息をつくのはなかなかに珍しい。
「珍しいな、ため息なんて」
横で洗い終わった皿を拭いていたシェイドがソフィアのため息を心配そうに眺めている。
「あっ、いえ。すみません…」
「なにかあったのか?」
「あっ、えーと…」
彼女は悩んでいた。
自分の悩みの種が、サキュバスの欲望を抑えきれずにシオリにあれやこれやしてもらったこと。それが良かったばかりにその快感を忘れられずにモヤモヤしてしまっていることなんて―――。
そんなこと、言えるはずもなく。
「なんでもないんです」
そう答える他なかった。
洗い物を終え、ソファに座り一息つく。
今日シオリは伊達君と遊んでいるらしく、ソフィアはお留守番。最近慌ただしいことが多かっただけにゆったりした時間をもつのは久しぶりだった。
本でも読んで気分を落ち着けよう。
テーブルに置いてあった雑誌を手に取る。
『気になるあの人の落とし方大特集』
適当に開いたページには、でかでかとそんな見出しが載っていた。
気になる、あの人────。
ワードを頭の中で繰り返した結果、シオリとキスをしたあの光景を思い出してしまう。
パタン。
恥ずかしくなって雑誌を閉じるソフィア。顔は真っ赤になり、湯沸かし器のように頭から煙を出す。
自分が欲求不満なのかと思うと気分が重くなってくる。違うこと、違うことを考えないと。
料理!!
そう、料理なら変なことを考えないで済む。
ソフィアは棚にあった料理本に手を出す。簡単家庭料理レシピ。これなら良さそう。次に何をつくるか考えられるし、シオリに美味しい料理をつくってあげられる。
ページをめくってレシピを眺める。
豚の生姜焼き。定番。前につくったことがあるし、安定のメニュー。
ぶりの照り焼き。シオリ好きだし、これも悪くないかも
きんぴらごぼうに茶碗蒸し。どれも美味しそう。シオリも喜んでくれそうだし。さらにページをめくる。
さくさくキスの天ぷら。
キスの天ぷら。
キス……。
シオリに触れられて……。
パタン。
またしてもシオリの顔を思い出してしまった。思い出すだけで少し満たされたような感覚が自分の中に広がっていくのがわかる。
私って、そこまで欲求不満じゃない、じゃない…よね?
自問自答を繰り返す。
こんな自分ではなかった気がする。いつからこうなってしまったのだろうか。
リアと肉体を共有するようになってから、自分が寝ている間はリアが体を動かしている。なかなか無邪気な子なので、シオリにちょっかいをかけたりしているのを後々知って恥ずかしくなる。
シオリはいつも優しい。それは一緒に暮らすようになってから、ずっと変わらない。目を見ることができなかった日々が嘘のよう。今はつい目で彼のことを追ってしまう。
これが、きっと好きなんだと。
そういうことなのだろう。言い逃れはできないのだ。
ソフィアは、もう一度料理本を眺め始める。シオリにどうやって喜んでもらおう。そう考え始めたら、全てが楽しくなってきた。
◆◆◆◆◆
「ただいまー」
シオリの声が聞こえる。
夕飯の支度を終え、玄関へと向かう。
「おかえりなさい」
彼の笑顔を見ると、それだけで心が温かくなる。彼の顔を見つめる。もう会った頃のように、自分の心を知られないようにする必要はない。
「いい匂いしてるね」
「夕飯の準備できてますよ」
シオリの手を取り、リビングへと向かう。
彼女にとって、この日は茶柱が経った1日よりも素敵な1日になったのであった。
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