第57話 新学期
9月1日。
最近ではもう少し早めのところが増えているようだが、一般的にこの日が始業式という学校が多いだろう。
学生達に取っては長い夏休みが終わったことを意味する、憂鬱な日でもある。
普通なら、だが。
陽斗はといえば、いつものように皇邸の食堂で重斗と、さらに最近になってこの屋敷に滞在するようになった桜子と共に朝食を摂っていた。
「陽斗は機嫌が良さそうねぇ。何か良いことでもあったの?」
相変わらず小動物のようにチマチマと食べ物を口に運んでいる陽斗に桜子が問いかける。
桜子はだらしないとまではいかないものの、とても良家の者とは思えないほどラフでゆったりとした服装、ありていに言ってしまえばスエットにTシャツ姿で気怠そうにトーストを口に運んでいる。
どうやら桜子は度々夜更かしをしては朝方に眠るという生活をしているようで、そんなときは大概眠そうにしている。
それでも朝食はできるだけ陽斗達と一緒に摂るようにしているだけ気を使ってはいるらしい。もっとも朝食を終えると部屋に戻って寝てしまうのだが。
そんな桜子の様子に最初は戸惑ったものの、重斗や比佐子が少々呆れた顔をしただけで他のメイド達は気にした素振りを見せないし、そもそも陽斗がかつて住んでいた家では陽斗以外の住人はまともな生活をしていなかったくらいなので多少気を使う程度でしかない。
それも数日も一緒に過ごせば気にならなくなる。なにしろ寝不足だろうが不機嫌そうであろうが桜子は陽斗に罵声を浴びせることもしないし暴力を振るうこともないので顔色を窺う必要がないのだ。
なので、陽斗は怠そうに言う桜子の言葉にも慌てることなくモキュモキュとちゃんと咀嚼してから飲み込んで、答える。
「えっと、今日から学校だから。その、楽しみで」
「え~?! お休み終わっちゃったのよ? 嫌じゃないの?」
心底意外そうに聞き返してきた桜子に、陽斗は満面の笑みで応えた。
「うん。クラスは良い人ばかりだし、学校、楽しいよ」
一欠片の邪気も躊躇いもない陽斗の言葉を眩しそうに聞く桜子と重斗。
陽斗にとって黎星学園のカリキュラムは慣れないことばかりで大変だし、主要教科のレベルも進学校並で日々努力を続けなければすぐに付いていけなくなってしまいそうだ。
だから学園は決して楽ではない、のだが、それ以上に学園に通うのが充実して楽しくて仕方がない。
クラスの皆は陽斗に優しく接してくれているし、尊敬できる先輩も沢山いる。なにより穂乃香や壮史朗、賢弥、セラといった親しい友人の存在が陽斗は幸せで仕方がないのだ。
重斗にこの屋敷に引き取られてから陽斗は毎日幸せを噛みしめているが、やはり夢にまで見た高校生活は格別なものなのだろう。
「……昔の私に聞かせてあげたいわね」
「聞かせたとしても何も変わらなかったと思うがな。
陽斗、何か困ったことがあったり嫌なことがあれば我慢せずに儂でも彩音でも誰でも良いから話すんだぞ。どんな些細なことでもだ」
あまりの純粋さに自らの学生生活を顧みる桜子と、相変わらず過保護な重斗の事はそこそこにして、陽斗は朝食を終えて席を立った。
ペコリとふたりに頭を下げて食堂を後にした陽斗の後ろ姿は喜びで尻尾を振っているようにも見えていた。
「おはようございます!」
「あ、西蓮寺くん、ごきげんよう」
「西蓮寺、おはよう!」
「おはようございます。西蓮寺さん」
いつものように元気よく挨拶しつつ教室に入ると、クラスメイト達は嫌な顔ひとつせずに挨拶を返してくれることに陽斗は心からの笑みを浮かべる。
ただ、幾人かの女子生徒はすれ違いざまに陽斗の頭を撫でるのでその度に恥ずかしい気持ちになるのだが、嫌われているわけではないので嫌ではない。
男子生徒も大半は普通に挨拶を返してくれるし、一部は親しげに話しかけてくれる。
そんな同級生達と一言二言言葉を交わしながら自分の席に辿り着いた陽斗を待っていたのは、穂乃香や壮史朗、ではなく、別の、一学期はほとんど会話を交わすことがなかった男子生徒3人だった。
「さ、西蓮寺」
「あ、えっと、千場くん、と、宝田くん、多田宮くん、だったよ、ね?」
入学当初、やたらと陽斗を蔑み暴言をあびせていた3人組だ。
ただ、言われている当人がまったく気にしていないので陽斗としては特に彼等に対して悪感情を持っているわけではない。一度だけ暴力を振るわれそうになったこともあったが、その時は賢弥が助けてくれたのでそのことすら忘れてしまっている。
ただ、3人が陽斗を嫌っていたのはさすがに覚えていたので、陽斗もこうして話しかけられて緊張気味に返事をする。
「一学期の間はすまなかった! 西蓮寺には何の非もないのに酷いことを言ったり馬鹿にした。反省してる! 本当にごめん!」
「お、俺も、悪かった。ごめん」
「すまなかった!」
陽斗が言葉を返した直後、3人は一斉に頭を下げて謝罪の言葉を口にする。
「え? あ、あの、え?」
戸惑ってしどろもどろになる陽斗。
そこに見かねた様子で壮史朗が陽斗に声を掛けた。
「一学期にコイツらに色々言われただろう。それで、オリエンテーリングの時に西蓮寺に助けられて反省したということだ」
そこまで聞いてようやく陽斗にも思い至る。
ただ、陽斗にはそれほど酷いことを言われたという認識自体がなかったし、その後に行われたバーベキューですでに謝罪を受けているのですでに終わったことだと思っていたのだ。
「えっと、バーベキューの時にもう謝ってもらってるし、僕は全然気にしてないから」
「俺は病院に行ってたから謝れてなかった。けど、西蓮寺の家は知らないから退院してからも行けなかったし。それから、ほとんど意識なかったから覚えてないけど、西蓮寺が俺を助けてくれたと聞いた。本当にありがとう!」
再度頭を下げた千場に、陽斗は慌てて首を振る。
「ぼ、僕だけじゃないよ! 賢弥くんとか天宮くんとか、他にも沢山の人が協力してくれたから! だからお礼はその人達に」
「もちろん全員に礼は言う。けど、まず西蓮寺に謝罪とお礼を言いたかった。
そ、それから、もう二度と馬鹿にしたりしないから、その、な、仲直りして、くれないか?」
そう言って千場がおずおずと右手を差し出す。
仲直りの印として握手を求めているのだろう。
そして当然陽斗は嬉しそうにその手を両手で握りながら応じた。
「うん! これからは仲良くして欲しい。僕と友達になってください!」
バーベキューの時に他のふたりとは和解して友達になると約束していたことに勇気づけられて陽斗の方から思い切って提案する。
そんな頑張った陽斗は、身長差もあって上目遣いで、緊張からか少しばかり目も潤んでいたりする。
それを向けられた千場は、突発的な顔の火照りを隠すようにフイッと顔を横に向けつつ応じる。
「あ、ああ、もちろんだ。これからは俺達も話しかけたりするし、西蓮寺も遠慮せずに話しかけてくれ。
あっ、天宮と武藤、それに四条院さんと都津葉も、助けてくれてありがとう」
千場ははにかみながら陽斗に言い、そして陽斗の後ろにいつの間にか来ていた賢弥達に気付くと陽斗の手を慌てて離して彼等に向かって頭を下げた。
「陽斗さんが許したのならわたくしたちがとやかく言うことではありませんわね。でも、その陽斗さんを傷つけるようなことを次にまたするようなら、今度はわたくしが相応の対応をさせていただきますので覚えておいてください」
「俺達は陽斗に引っ張られて手伝っただけだ。礼には及ばん。ただ、千場達は陽斗に借りがあるということを忘れるなよ」
学年随一の家柄である穂乃香と、学園屈指の武道家である賢弥にそう釘を刺され、千場達3人は真剣な顔で頷く。
どうやら本当に反省して改心しているようだ。
要件を終えて自分達の席に戻っていった千場達の後ろ姿を見送り、陽斗は穂乃香達と挨拶を交わす。
壮史朗と賢弥は相変わらず素っ気ないと言えるほど簡単に返事を返し、セラも挨拶だけ交わして「また後でねぇ~!」と言いながら用事でもあったのか別の女子生徒のところに行ってしまった。
夏休み前と変わらない3人の態度に、陽斗はクスクスと小さな笑い声を上げた。
「なにか可笑しいことがありました?」
「あ、ううん、そうじゃなくて、一月以上会ってなくても変わらずに接してくれてたのが嬉しくて。穂乃香さんも、ありがとうごうざいます」
そんな当たり前で些細なことが嬉しいという陽斗に、穂乃香はなにも言うことができずに曖昧に頷いた。
「えっと、陽斗さん、先日はありがとうございました」
話を変えるためか、穂乃香は口調を明るいものにして陽斗に礼を言った。
「え? あ、美術館でのこと? ううん、僕の方こそ、色々教えてくれて嬉しかったです。それと、叔母さんが色々とごめんなさい」
陽斗の方は恥ずかしそうに頭を掻きつつ謝る。
先日美術館に桜子と行ったときに世話になったのはむしろ陽斗の方なのだ。
昼食でも桜子が穂乃香にアレコレ質問を投げかけたり、からかうようなことを言ったりして陽斗がハラハラしていた。
「なにも失礼なことはありませんでしたわ。そ、それより、美風さんはあの後わたくしのことを何か言ってたりしませんでした? わたくし、初めてのファミリーレストランで少々はしゃいでしまったので」
「叔母さんは穂乃香さんのことを褒めてましたよ。とっても良いお嬢さんだって。僕にも大事にしなさいって言ってたくらいです」
「そ、そう、ですか。それなら良かったです」
穂乃香の顔に嬉しさと照れくささがない交ぜになった笑みが浮かぶ。
それは好きな写真家に言われたからか、それとも
「くそったれが!!」
ガシャーンッ!
怒鳴り声に続いて、床に落ちた物が割れる音が響く。
それでもまだ収まらない苛立ちに貴臣は大きく肩を上下させている。
30畳近くありそうな広いリビングの床は花瓶の欠片とそこに生けられていたであろう切り花が散らばり、周囲は水浸しになっていた。
その惨状に、部屋にいる中年のメイドらしき女性が怯えたように顔を引き攣らせて身を縮めている。
「鷹司の野郎、ぜってぇ許さねぇ! 今に見てろよ、錦小路もだ!」
貴臣は誰に聞かせるでなく、忌々しげな口調で生徒会役員である男子生徒と生徒会長に対して呪詛を吐く。
貴臣がこれほど荒れている理由、それは、始業式の後で担任の教師から呼び出され、正式に生徒会役員を除名されたことを告げられたからだ。
理由は『素行に著しい問題があり、生徒会役員としての職務を遂行できない』というものだ。
それまでも生徒会の一員としてはあまりに態度が悪いと言われていたのだが、決定打となったのは夏休みに行われたオリエンテーリングの時の、穂乃香に対する暴行未遂だ。
その時に止めに入った生徒会副会長、鷹司雅刀によって貴臣の生徒会役員除名が告げられていたのだが、新学期に入って正式に通達されたというわけだ。
当然貴臣は担任教師に抗議したのだが、これまでの態度の悪さは周知のことであり、教師も取り合わなかった。
さらに、ホテルで穂乃香の腕を掴んで連れていこうとした現場を目撃した生徒から噂が広まっていたらしく、休み前までは貴臣の顔色を窺って追従していたような同級生達までもが貴臣を白い目で見るようになっていた。
全ては自分のしたことが招き寄せた結果であり自業自得でしかないのだが、それを素直に認められるような性格であればそもそもこのような事態にはなっていないだろう。
大した権限のない平役員。それでも自分から辞めたわけではなく、辞めさせられた、しかも除名されたとなれば間違いなく内申に書かれるだろうし、進路にも影響しかねない。
いかに桐生家の財力と事業の影響力で権勢を誇っていても、桐生家には他に近しい親族も居る。
貴臣が当主の長男であっても絶対に後継者になれるという保証はない。立場を無くしたままではいつ足元を掬われるかわからないのだ。
「俺には穂乃香が必要だ」
貴臣は部屋に残ったままの中年女性など眼中になく独りごちる。
穂乃香が自分の物になれば桐生家は四条院家に影響力を持つことになる。さすがに次女である穂乃香を手に入れても四条院家まで手に入るわけではないが、四条院といえど娘の婚家が相手となれば無碍にはできないだろう。
そうなれば貴臣の後継者の立場は盤石なものになる。
「嫌われたら元も子もないから穏便に口説くつもりだったんだが、あの女、調子に乗って居やがるし、チョロチョロしてるあのガキも目障りだ」
貴臣の感覚ではアレでも穏便な口説き方だったようだが、さすがにあれだけはっきりと拒絶されれば貴臣に芽がないと考えざるを得ない。
やがて、貴臣の目に狂気とすら思える暗い光が灯る。
「こうなったら……」
ボソリと呟くと、貴臣はポケットからスマートフォンを取り出して電話を掛け始めた。
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