第二章 傭兵ヴィルヘルムの仕事(1)
帰宅したら、家が無くなっていた。
そんなことは生涯のうちに何度もあるものではない。けれどヴィルヘルムの場合、四十二年間のこれまでの生涯において、それは実に三度目の出来事であった。
一度目は末の弟の生まれた、八歳の時。二度目は結婚して間もない、二十五歳の時。そして今回が三度目だ。
理由は判っていた。堤防が決壊したのだ。
それは、このザール地方では数十年に一度は起こる、ありふれた災害なのだった。
だからヴィルヘルムは、目の前の惨状に動じることもなく、すぐさま状況を把握して歩きだした。顔見知りの住人たちは今、水浸しになった集落をなんとか回復させようとしている。男たちが泥まみれになって埋もれた通りや建物からせっせと泥をかき出す一方で、女たちは家畜や幼い子供を連れて高台に避難所を作っている。
忙しく走り回る女たちの中に長女の姿を見つけた彼は、大股に近付いていき、声をかけた。
「マティア。母さんたちは無事か」
「あ、父さん!」
少女がぱっと顔を上げる。母親似の黒髪に、父親似の明るい色をした瞳。気丈で優しい、彼の自慢の娘だ。
「うん、無事よ。母さんは家に使えるものを取りに行ってるの。だけど、家具も、道具もほとんど流されちゃって…」
「今回はまた、ずいぶんとひどくやられたな」
ヴィルヘルムは眉を顰め、高台からすぐそこを勢いよく流れている、茶色く濁った川を見下ろした。
大陸随一の暴れ川、テュレ川の支流だ。
この川の支流が流れる地方はどこも水害に悩まされているが、中でも、この辺りは特に多い。普段から水量は多いのだが、特に春になると、上流のほうから雪解け水が一気に流れ込む。川はザール地方の入り口で大きく蛇行しているから、その部分から水が一気に溢れ出してしまうのだ。
いくら高く分厚い堤防を作っても、荒々しい流れをせき止め続けることには限界がある。定期的にやってくる大洪水は、容赦なくこの地方の小さな集落を飲み込んでいってしまう。慣れているとはいっても、洪水のたびに家財を全て失うというのは、あまり愉快な体験とは言えなかった。
「おーい、ヴィルヘルム!」
集落のほうから、彼によく似た顔立ちの、少し年上に見える男が手を振りながら丘を駆け上がって来る。ヴィルヘルムの一番上の兄、ハインツだ。顔立ちこそ似ているが弟よりは小柄で、一見して荒くれのような印象を与える弟とは真逆に、知的で物静かな第一印象を与える男だ。
その印象は、職業上のものでもあった。ハインツは、この辺りの土地を預かる領主なのだ。
しかし仕事用のローブを脱ぎ捨て、泥まみれになってシャベルを担いでいる今は、街の男たちと大して変わらない。
兄弟は、挨拶代わりにがっしりと握手を交わした。ヴィルヘルムのごつい手は、普段はペンばかり握っている兄よりもずっと逞しく、力強い。
「おう、兄貴。すまんな、こんな時に留守にしてて。」
「いいや、構わんよ。いつものことだ。だが…今回は、ちょいとマズいことになった」
「うん?」
何やら深刻そうな表情だ。
「想定より水位が高くてな、土嚢を越えて領主館まで浸水してしまったんだ。金庫はもちろん地下室まで完全に水没してるし、書庫は泥まみれだ。人手がいるが、雇おうにも金は泥の下なんだよ。」
「……。」
ヴィルヘルムは眉を寄せ、泥に埋もれた辺り一帯を見回した。
この辺りの領地は、首長から領主の役割を預かったヴィルヘルムの一族が、代々、治めている。
首長とは、他国でいうところの国王のようなものだが、そこまで権限は強くない。重要な決め事は領主たちの集まる会議で決まるし、一定の任期が過ぎると、領主たちが投票によって新たに首長を選出する。――実際には、前任者が選ばれることがほとんどなのだが。
つまり首長は絶対的な権力者ではなく、いわば領主たちの代表者でしかない、という建前になっている。
そして領主の収入は、領地から上がる税金だ。資金が足りなければ首長に借りることは出来るが、領主たちの代表者に過ぎないという建前上、借金は必ず返さなければならない。もし返せない場合は、領主として失格と見なされ、別の人物が指名されることになる。
完全に泥に埋もれた集落全体を掘り出すのに人を雇うとしたら、一体いくらかかるだろう。
そのあと、堤防を修復する仕事も待っている。まともに人手を揃えれば、それだけで領地から上がる税収の何年ぶんにもなってしまうだろう。そんな借金は、とても出来ない。
「こんなことを言うのは気が引けるが…ヴィルヘルム、幾らか、金を借してもらうことは出来ないか」
「そりゃもちろん、いつも留守の間うちの家族の面倒みてもらってるんだから出せるだけは出そう。特に利子もいらんよ。けどなぁ兄貴、わしの蓄えじゃあ、一桁足りんぞ…」
「まあ、そうだろうなぁ」
ハインツは、困ったように顎に手をやって指先でひげをもじゃもじゃと掻きまわした。「うーむ。どうしたものか…幾らかは首長に掛け合って借りるかなぁ…。あとは、金を貸してくれそうな親族といったら…。」
やれやれ、仕事の合間に故郷に戻って少し休むつもりだったのに、どうやらそうもいかなさそうだ。
ヴィルヘルムは、筋肉の束のような腕を組んで、重々しく言った。
「…一つ、手はある」
「うん?」
「俺は傭兵だ。金になる仕事を請ければいい」
暴力沙汰は苦手なハインツの顔が、さっと青ざめる。
「いやいや、しかしな、ヴィルヘルム。金に困って弟に人殺しをさせるなど…」
「心配するな兄貴。傭兵の仕事にも色々ある。安全ではないかもしれんが、遺跡探索や失せ物探しの類なら、手っ取り早く終わってそこそこの金になる。少し待っていてくれ。稼いでくるから」
「くれぐれも無理はするなよ」
「心配なんぞ要らんよ。」ヴィルヘルムは豪快に笑って言った。「俺が何年この仕事で稼いできたと思っとるんだ。安心して待っといてくれ。」
そう言って、彼は、まだ帰宅の挨拶をしていなかった妻と、残りの子供たちを探しに人混みのほうへと分け入っていった。
この大陸には現在、二つの国と二つの同盟連合という四大勢力がある。ヴィルヘルムの故郷のある「ティバイス首長国」は、そのうちの一つだ。
傭兵は、各勢力の間や国内での小競り合いで需要があるために職業として成り立っている。繰り返される大小様々な争いと、一進一退の拮抗した膠着状態は、もう百年以上も続いていた。
切っ掛けは、かつて大陸のほぼ全土を支配していた大国ハイモニアが、内部分裂の形で消滅したことだった。
最初はハイモニアの玉座を狙う者たちが、次にはハイモニアから分離独立を果たした地域の支配権を首長する者たちが、それぞれに覇権を争い合うようになり、やがて四つの勢力が生まれた。四つはそれぞれに、ハイモニアの正統な後継者、またはハイモニアに代わって大陸を支配する権利があると自負している。
中でもティバイス首長国は、この大陸に古くから住む遊牧民の末裔として、大陸の支配権を主張している。
ティバイスを構成するのは十二の部族で、かつては季節ごとに移住を繰り返していた遊牧民だった。それが、ハイモニアの統治時代に強制的に定住させられたのだ。今も広々とした草原地帯を領土とし、部族ごとにかつての移牧の領域を統治していて一族間の結束と、部族ごとの縄張りの意識が強い。
それが、今の領主制の元になっている。かつての「族長」を、「領主」と呼び変えただけなのだ。
だが、祖先たちが定住をはじめたのは何世代も前だというのに、遠い祖先の血がそうさせるのか、ヴィルヘルムには、どうにも一か所に住むというのが馴染まなかった。だから、放浪の旅をしながら仕事の出来る、傭兵という職を選んだ。
と言っても、雇われ兵として戦場に出るばかりではない。平常時でも仕事を紹介してくれる、斡旋所というものがある。そこに集まって来る仕事の依頼は、「どこそこの戦争に参加して欲しい」というようなものだけでなく、政治的な工作以来、特定の場所の探索や調査、人探しから暗殺以来まで実に様々だ。合法なものも、非合法なものもあり、難易度も報酬も千差万別。依頼にはそれぞれ難易度が設定されていて、命が惜しい新人などは安全なものを選ぶが、長らくこの仕事をやってきた、業界では古参のヴィルヘルムなどは、どんな依頼でも特に気にしない。
とはいえ、非合法の殺人はしない、と決めている。
世間に顔向けできないような仕事をしては、大手を振って故郷に帰れなくなる。それに自分には家族がいる。血塗られた金で、家族を養うのは真っ平だった。
斡旋所の窓口は、大陸中のいたるところにある。
傭兵嫌いのアイギス聖王国では少ないが、他の三つの勢力なら、ほとんどの主要都市、街道沿いの交通の要所などに、小さくても必ず窓口が存在する。斡旋所の役目は、依頼人と傭兵との仲介をすることだ。依頼人は身元を隠したまま安全に依頼を出せるし、窓口に実績のある傭兵を選んでもらって仕事を請けさせることも出来る。仕事を請ける側からすれば、仕事料の交渉をせずに済むし、踏み倒される心配もない。聞いた仕事内容と、実際の仕事が大きく異なる場合には、追加の手当を要求することもできる。
双方にとって得が多い仕組みなのだ。
そんなわけでヴァイスは今回も、馴染みの斡旋所へ仕事を探しに行くことにした。
良く訪れているのは、二つ隣の大きな街フォリアンにある斡旋所。地方の小さな窓口で、多くても一人か二人くらいしか求職者を見かけない。それも、依頼が張り出された掲示板の前に人がいればまだ盛況なほうで、併設された銀行に用があるとか、ただ仲間と待ち合わせるだけに来たとか、そういう日だってよくあるのだ。
だが今日は、入り口を潜ったとたん、奥から怒鳴り声が響いて来た。
「だから――金はある、と言っているだろう! 仲介出来ないとは、どういうことだ」
「何度も申し上げているとおり、当組織は会員制です。ご入会されてすぐに訳アリの依頼はお受けできませんよ」
窓口で言い争っているのは、馴染みの受付係の青年と、身なりの良い初老の男だ。どこかの家に雇われている使用人だろうか。口ぶりからして、窓口に直接、依頼を出しに来たらしい。
「おい、何を騒いでいるんだ」
「あっ…ヴィルヘルムさん」
窓口にいた青年は、ほっとしたような顔になる。「この方が、その…依頼を出したいというんです。しかし初回から受けられる内容ではなくて…」
「なるほど。斡旋所を利用したことがないんだな」
大柄で天井に届かんばかりの上背のあるヴィルヘルムが横に立つと、さっきまで威勢よく青年を怒鳴りつけていた依頼人は、急に大人しくなって一歩後退った。ヴィルヘルムは、男の頭上からじろりと、軽く睨みを利かせた。
「おい、あんた。ここには、ここの決まりがある。どんな依頼を持ち込んだかは知らんが、この業界じゃ信用は大事だぞ。どこの誰とも知らん奴の、何だかわからん仕事に命をかける傭兵はおらん。都合の良い手駒を探しに来たんなら、下町へ行ってごろつきどもでも漁っていろ」
「し…しかし、私は、旦那様に斡旋所で紹介させろと言われたんだ!」
依頼人のほうも引き下がらない。禿上がった額に汗をかき、ふうふう言いながら必死でヴィルヘルムに言い返す。
「急ぎの依頼なのだ。しくじることも許されない…大事な…とても…」
「どういう内容なんだ」
ヴィルヘルムは、ちらと窓口の青年を見やった。
「はあ、盗まれた家財を取り戻して欲しいらしいんですが…その手の依頼は、正当な所有者が誰なのかの証明が難しいため、信頼のおける依頼人からでなければ受けられないとご説明していたところなんです。でなければ、合法な依頼か、非合法な依頼かの判断もつきませんから」
「そんなことを気にするのか? ここは斡旋所なのだろう!」
「そう、斡旋所だ。」
「ひっ」
ずい、とヴィルヘルムが厳しい顔を近づける。圧し掛かるような威圧感に、男はさらに一歩、後退る。
「ここじゃ依頼人も請負人も、信用で評価される。確実な傭兵を雇いたいなら、信用できる依頼だってことを証明してもらわなきゃならんのだ。金さえ払えば何でもする手軽な傭兵を雇いたいなら、ここに来るのは間違いだ。もっとも、その手の傭兵ってのは、簡単に裏切るもんだがな?」
「その信用とやらが、何度も依頼を出さにゃならんなどと知らんかったんだ! 今からそんなことをやってる時間はない。あと三日もすれば、その日が来てしまう…」
男はほとんど半泣きになりながら、「百二十出すと言っているんだ! どうにかならんのか?」
「ひゃ、…」
それまで、どうやってこの男を追い返そうかしか考えていなかったヴィルヘルムの顔色が、僅かに変わった。
「おい、ただの家財の奪還に百二十? そいつぁ逆に怪しまれて当然だぞ。一体どういう品だ。宝石か何かか?」
「…
「……。」
窓口の青年は、あからさまに怪しそうな顔つきだ。
百五十年ほど前にイーリスがハイモニアに滅ぼされてからは生産が途絶え、今やとんでもない高値で取引される。扱うにはある程度の才能や適性が必要とされるが、自分では使えないのにひたすら買い集めている好事家もいる。斡旋所でも、
自分の欲しい品をどうしても手に入れられず、非合法な手を使ってでも奪おうとする者は、後を絶たないのだ。
――とはいえ、今は手っ取り早く金が欲しい。
人を殺すわけでもない。もしそれが盗みの片棒を担がせる依頼だったとしても、割りの良い仕事ではある。
「まぁ、本当にそういう依頼なら、話くらいは聞いてやってもいい」
「えっ…ヴィルヘルムさん?!」
窓口の青年は驚いている。いつもの彼なら、もっと手堅く依頼を選ぶことを知っているからだ。
「今はちと、物入りな時期でな。心配するなハンス、これは斡旋所を通さずにやる仕事だ。お前に迷惑はかけんよ」
「でも、…」
「心配すんな。俺の勘と運を信じてくれ。」
大きな手で心配そうな青年の頭をわしわしと撫でると、彼は、壁際で縮こまっている汗だくの男のほうに向きなおった。
「で? …詳しい話を、聞かせて貰おうか」
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