第45話 夏の終わり その2


「じゃあ柚希、そろそろ帰ろうか。準備も出来てると思うし」


「なんか悪いな、僕なんかの誕生日で」


「ゆーずーきー」


 早苗が柚希の耳たぶを力一杯に引っ張る。


「いたたたたたたっ、ごめん、ごめんってば、早苗ちゃん」


「あんたねえ、たった今彼女になった私の前で、よくも『僕なんか』って言ったわね。それってさ、そんな男を好きになった私に対する侮辱だよ」


「いたたたたたたっ、だからごめん、ごめんって」


「もう言わない?」


「言わない言わない」


「よし、許した」


 早苗が耳たぶを離した。


「はあっ……結構本気で痛かったよ」


「じゃあ」


 早苗が柚希の頬にキスをした。


「わっ……さ、早苗ちゃん、は、恥ずかしいよ」


「おまじないよ、おまじない。痛いの痛いの飛んでけーってやつ」


「う、うん……でも今の、さっきのキスよりかなり恥ずかしかった……かも……」


「も、もうっ馬鹿柚希、そんなに照れないでよ。私まで恥ずかしくなってきちゃうでしょ」


「むふふふっ」


 聞きなれた笑い声がした。


 二人が慌てて振り向くと、土手の上から様子を伺っている晴美が、コウと共に立っていた。


「むふふふっ、お邪魔だったでしょうか」


「し、師匠?」


「いやだから晴美さん、いつもなんてタイミングで出てくるんですか」


「むふふふっ、別に私、隠れてお二人の愛の告白を一部始終、盗み聞きなんてしてませんからご心配なく」


「師匠―っ!」


 早苗が顔を真っ赤にして叫んだ。


「ははっ……全部見てたんだ……」


「いえいえ、これはあくまでもアクシデントでございます。コウを連れて早苗さんのお宅に伺う道中、偶然お二人の姿を見かけたものですから。ご挨拶をと近付いてみたら『柚希、好きだよ』って」


「いーやーっ!師匠の意地悪―っ!」


「むふふふっ、よしよし」


 そう言って晴美が、早苗を抱きしめ頭を撫でた。


「あまりに早苗さんが可愛いものですから」


「晴美さんも、これから早苗ちゃんの家に?」


「そうだよ。夏祭りの前に紅音さんと計画してたんだ。柚希の誕生日、私の家にみんなで集まろうって。大好きな柚希の誕生日、みんなで祝おうって」


「……そう、なんだ……」


「柚希さん」


「え……」


 晴美が早苗を抱いたまま、もう片方の手で柚希も抱きしめた。


「折角の誕生日、そんな顔をなさってはいけませんよ。今日は、お嬢様が大好きだった柚希さんのお生まれになった、大切な記念日なんです。主役がそんな顔をされていては、みなさんが困ってしまいます。勿論、私も」


「晴美さん……」


「そうだ師匠、病院の方はどうなりましたか」


「はい、おかげさまで」


「じゃあ、新しい先生が?」


「ええ。いくら小さな街とは言え、医者が一人もいないなんてこと、あってはならないですから。このままにしておいたら、旦那様がきっとお嘆きになられます。

 実は先日、昔うちに研修に来られていた方から連絡を受けましてね。彼の方から言ってくれたんです。『桐島先生には本当にお世話になりました。先生から受けた恩を少しでもお返ししたい』と。まあ、以前来た時には随分と軟弱な方だったので、これからしっかり、私が教育して差し上げようと」


「あはははっ。でもよかったです。桐島医院がなくならずに、そして晴美さんもこの街に残ってくれて」


「勿論ですとも。あの病院は旦那様の魂です。山代晴美、この命果てるまで、あの医院を守り抜く覚悟でございます。それに……」


 そう言って晴美は微笑み、柚希と早苗の頭を撫でた。


「お嬢様を愛して下さった、大切な方がここにいます。お二人は、私にとっても大切なご友人なのですから」


「師匠……」


 早苗が晴美の胸に顔を埋めた。


「師匠は本当にすごい人だよ。料理も掃除も、その上病院の仕事まで……それにあったかくて、すっごく大きい……私もいつか、師匠の様な大きい人間になりたい……」




「じゃあ、そろそろ行こうか」


 早苗が号令をかけた。


「そうですね……でもその前に」


 晴美が持って来ていた紙袋から、布で包まれた板状の物を取り出した。


「柚希さん……ここは柚希さんとお嬢様の思い出がたくさん詰まった場所でございます。ここでお渡しするのが、一番いいと思いますので」


 そう言って、晴美がそれを柚希に差し出した。


「柚希さん、お誕生日おめでとうございます。これは、お嬢様からのプレゼントでございます」


「……紅音さん……の……」


「はい。お嬢様のお気持ち、どうか受け取ってくださいませ」


「……」


 それを手にした瞬間、柚希の全身は熱くなった。


 これは紅音さんが僕に残してくれた、最後のメッセージ……そう思うと、その重みに息が出来なくなった。


「ほら柚希、見てみようよ」


「う、うん……」


 柚希が震える手で、布を開いていく。


「……」



 そこには、キャンバスに鉛筆で描かれた、柚希の姿があった。

 柚希が木の下でカメラを手に、笑っている。

 幸せそうに、穏やかに笑っている。

 その絵に、柚希は言葉を失った。


「この絵はお嬢様が、柚希さんの誕生日に間に合わそうと、毎日遅くまで描かれていたものでございます。お体に触ります、そう何度もお声をかけさせて頂いたのですが、もう少しだけ、もう少しだけ、と毎晩描かれていました。何度も何度も、こうじゃない、うまく表現できていない、そうおっしゃって描き直しておられました。そのデッサンが完成された時は、それはもう満足気なご様子でした」


「紅音さん……」


「柚希、ここに何か書いてある」


「え……」


「……お嬢様はいつも、下書きの時にお気持ちを言葉にして書かれていたんです。

 例えば風景画を描かれた時に『この美しい世界で、みんなが幸せに笑っていられますように』そんな言葉を残されてました。その上から絵の具を重ねられます。ですから最終的には、その言葉は残らないのです。

 お嬢様はそんな風に、絵の中にご自分の気持ちを、メッセージを残される癖があったんです」



 その言葉に早苗が、はっとした。

 まだ未完成のこの絵を見ようとした時、紅音さんは必死になって見ないでと言った。

 私はあの時、そんなに恥ずかしいのかな、そう思ってたけど、そうじゃなかったんだ。

 あの時紅音さんが隠そうとしていたのは、ここに書かれたメッセージなんだ……紅音さんの柚希への、本当の気持がここにあるんだ……




「……」


 柚希も同じ思いを感じていたようで、そのメッセージを読むことを躊躇していた。


 その時、早苗と晴美がほぼ同時に、柚希の背中を叩いた。


「あ」


「あれ」


 余りにも息が合ったので、二人は顔を見合わせて笑った。


「柚希、ほら。紅音さんからのメッセージだよ。ちゃんと読まないと」


「そうですよ、柚希さん。殿方たるもの、どんな時でも婦女子の気持ちを受け止めて頂かないと」


 二人のステレオ攻撃に、緊張していた柚希の口元にも、自然と笑みがこぼれた。


「本当、早苗ちゃんと晴美さんって、双子の姉妹みたいだよね」


「あははっ」


「むふふっ」


 柚希が軽く深呼吸をし、メッセージに視線を向けた。




 私に幸せをくれた柚希さん、お誕生日おめでとうございます。

 柚希さんが生まれてきた日を、私は神様に感謝します。

 柚希さんと出会えたことを、私は神様に感謝します。

 愛しています、柚希さん。

 あなたに会う為に生まれてきた、紅音より




「……」


 柚希の手が震えた。


 目からは大粒の涙が溢れ、こぼれ落ちた。


 涙は嗚咽へと変わり、柚希はキャンバスを抱きしめ、その場に膝をついた。


「紅音……さん……」


「柚希……」


 声を殺し、全身を震わせて泣いている柚希の背を、早苗が抱きしめた。


 早苗の目にも、涙が光っていた。


「紅音さん、柚希のことを、本当に好きだったんだね」


「……」


「紅音さんのこと、絶対忘れちゃ駄目だよ」


「……」


「忘れたら、私があんたのこと、引っぱたいてやるからね」


 早苗の声も震えていた。


 顔を埋める柚希の背中が、早苗の涙で濡れていく。


「いいんだよ、柚希。泣いていいんだよ」


「……早苗ちゃん……僕、紅音さんに好きって言ってもらえたよ……嬉しい……本当に……嬉しいよ……」


「うん……私も、あははっ……惚れた男が、こんな素敵な人に想ってもらえたって……嬉しいよ……」


「紅音……さん……」


「紅音さん……」


「うわああああああああっ」




 泣いてはいけない、泣けば紅音さんが安心して旅立てない、そう思い、ずっと押し殺してきた柚希の感情が爆発した。


 キャンバスを抱きしめ、声を振り絞って泣いた。


 早苗も柚希の体を抱きしめ、声をあげて泣いた。


 そんな二人を、晴美が穏やかに微笑みながら、包み込むように抱きしめた。





 夏の終わりを告げる、高く青い空の下。


 柚希と早苗は紅音を想い、そして泣いた。


 紅音と出会い、紅音と過ごしたこの場所で。


 穏やかで、優しい時間に包まれた、この場所で。







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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

作品に対する感想・ご意見等いただければ嬉しいです。

今後とも、よろしくお願い致します。


栗須帳拝

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銀の少女 栗須帳(くりす・とばり) @kurisutobari

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