第35話 聖女はふたりもいらない
「この指輪は母の形見だ」
「ノアさまの、お母さまの……」
「生前、母はこの指輪をとても大切にしていた。まるで父の瞳のようだと、微笑みながら眺めていた姿を覚えている。そしてこれは母の形見であると同時に、代々正統な王妃に受け継がれてきた王妃の指輪でもある」
驚きで言葉が出なかった。
つまりこの指輪は、イグバーン王国の王妃だけが身に着けられる特別な、それこそ国王級の代物なのだ。決して悪役令嬢が着けていい指輪ではない。
「陛下……父はこの指輪をエレノアには渡さず、僕に持っているよう言ってくれた。未来の王妃に渡しなさい、と」
「いけません、ノアさま。私は受け取ることは——」
慌てて指輪を外そうとしたが、ノアに押しとどめられる。少し悲しげな顔で首を横に振るノアを見ると、何も言えなくなった。
「僕の婚約者は、君以外ありえない」
「ノアさま……」
「君のことは僕が必ず守る。だから僕から離れていかないでくれ」
私の左手にキスを落とすと、私の返事を聞かないままノアは足早に帰っていってしまった。
ひとりになり、少しだけ重くなった左手を見下ろす。ノアがくれた王妃の指輪には、青く輝く宝石が飾られている。神秘的な光を内包したそれに、不思議な引力のようなものを感じた。
「まるで星空……彼の瞳みたい」
これを国王の瞳のようだと言っていたという、前王妃の気持ちがよくわかる。
指輪ごと左手をぎゅっと握り締めた。
ノアの気持ちが嬉しくて、涙が溢れてくる。だが彼の立場を考えると素直に喜んではいけない気がして、ぐっと堪えた。
「ノアさま……」
好きになった相手の名前を呟く声は、静かな部屋に溶けて消えていった。
◆
次の日、ノアが迎えに来る前に私はひとりで馬車に乗り学園に向かった。
馬車から降りると、一斉に私に視線が集中するのを感じ、体が固くなる。
「あの方、偽物だったんでしょ……」
「殿下を騙していたくせに、よく来られたな……」
ひそひそと、私をうかがいながら話す生徒たち。
入学初日とは周囲の目や態度、雰囲気が一変している。冷たく、よそよそしく、まるで視線の針で突き刺されるようだった。
(でも——)
目を閉じ、深呼吸する。
(大丈夫でしょ、オリヴィア)
目を開き、顔を上げる。
(予想していたことじゃない)
私は悪役令嬢らしく胸を張り、堂々と歩き出した。
髪をなびかせ、あらゆる好奇の視線を跳ねのけ、一歩一歩強く進む。
別に悪いことをしたわけではない。私が気まずい思いをする必要などないのだ。
校舎に入り教室を目指していると、目の前に人だかりが見えて来た。その中心にいるのは——。
(セレナ……)
平民出身と蔑まれていた主人公セレナが、貴族の子息子女に囲まれ照れくさそうに笑っている。どうやら聖女ということが発覚し、一転して人気者になったらしい。
ゲームでも、精霊契約をきっかけに待遇がガラリと変わっていたのを思い出した。ここから攻略対象である男性キャラとの遭遇率がぐんと上がるはずだ。
(彼女は一体、誰のルートに入るのかしら。一度目の人生と同じギルバート? それとも……)
考えながらじっと見つめていたせいか、セレナが私に気づき目を見開いた。
「あっ。オリヴィアさま……」
セレナの呟きに、彼女を取り巻いていた生徒たちが一斉にこちらを向く。
その視線の鋭さにいい気分になるわけもなく、無視をして通り過ぎる。セレナが私に声をかける素振りを見せたが、それより先に「オリヴィアさま!」と私を呼び止める生徒がいた。
「あなたは……親衛隊のケイト」
「はい! オリヴィアさまの美を崇め隊のケイトです! オリヴィアさまに名前を憶えていただけたなんて光栄です……!」
興奮したように顔を赤らめるケイトの後ろには、他の親衛隊の子たちもそろっていた。
「本日もオリヴィアさまの美は留まるところを知りません!」
「オリヴィアさまをひと目見るだけで、世界のすべてが輝き出すようですっ」
「体調を崩されていたそうですが、お変わりのない美しさに安心いたしました!」
変わらないのは彼女たちのほうだ。まるで精霊契約の儀での出来事を知らないかのような態度に、戸惑ってしまう。
「あの……あなたたちは聞いていないの? 私は聖女ではないのよ」
確認のために聞くと、三人は顔を見合わせた。
「もちろん存じております。その場におりましたし……」
「騒ぎになって、心配しておりました」
「生徒たちの態度の変わりように、内心憤慨しております!」
私が偽聖女だと知っていて、変わらない態度をとってくれたのか。
どうして、と思わず呟くと、三人は誇らしげに胸を張る。
「私たちは、オリヴィアさまの美を崇め隊です」
「オリヴィアさまが聖女だから親衛隊を作ったわけではございません」
「オリヴィアさまが女神のごとく美しく、素晴らしいご令嬢だから親衛隊を結成したのです!」
(学園にも、私の味方がいた……)
一度目の人生ではありえなかった。私は家でも学園でも、社交の場でも常にひとりぼっちだったのだ。
俯くと涙がこぼれかけた。それをぐいと拭い、顔を上げて「ありがとう」と微笑む。
「私たちが、心無い者たちからオリヴィアさまをお守りいたします!」
「だって親衛隊ですから!」
「本当にありがとう。あの……良ければ、お友だちになってくれる? 私、同年代のお友だちがいないの」
「おおおお友だち!? ここここ光栄ですっ」
それからケイトたちは壁になり、私を冷たい視線から守ってくれた。
はじめて出来た学園の友だちとの会話は楽しく、いつしか私を蔑む声は聞こえなくなっていた。
◆
王妃宮の温室。
赤い爪で飾られた王妃の指先が、ゆっくりとカップの縁をなぞる。
それをオリヴィアの継母・イライザと、異母妹のジャネットは緊張しながら見つめていた。
温室には普段の茶会のときとはちがい、いまは三人しかおらず静かだ。鳥のさえずりさえ聴こえない。
テーブルの皿に、色鮮やかな羽の蝶が二羽とまった。
「そう……本物の聖女があらわれ、王太子の婚約者は偽物として扱われているの」
ジャネットの報告で、学園の様子を聞いた王妃の表情は何の変化もなかった。おそらく聖女が女神を召喚した噂はすでに耳に入っていたのだろう。
「このままでもオリヴィアの評判は地に落ち、必然的に王太子の立場も危うくなっていくと思われます」
「ええ、そうね。でも、オリヴィア嬢が王太子を救ったことは事実だわ。国王陛下も彼女を気に入っているし——事実、学園でのことを知っても陛下はあまり動揺されていなかった。むしろ聖女ではなかったことで、オリヴィア嬢の王太子への献身が、より美談として語られる可能性もある。私が王太子なら、そうなるよう陛下に助力を願うわ」
確信しているような王妃の口調に、イライザとジャネットは身震いする。
偽聖女の化けの皮が剥がれ、これでオリヴィアも終わりだと、安易に考えた自分たち凡人とはちがうのだ。やはり王妃は絶対に敵に回してはいけない、と改めて思った。
「でも……その手を打たれる前に、さらに問題が起きればどうかしら? それも、婚約者を切り捨てたとしても、それだけでは済まない大問題」
「大問題……ですか」
イライザはごくりと唾を飲みこんだ。
そうなると、現在夫であるアーヴァイン侯爵もただでは済まないだろう。いくら国王に目をかけられているとはいっても限度がある。侯爵家の没落もありえるかもしれない。
もちろん侯爵家と一緒に落ちる気はさらさらない。駒として使い道がある限り、王妃に見捨てられることもないだろう。
「間違っても、王太子が本物聖女を次の婚約者に迎え入れるわけにはいかなくなるくらいの醜聞があれば……王太子に代わりギルバートが聖女の手を取る役を担うことになるでしょう」
紅茶を飲むと、王妃はカップを片手に嫣然と笑った。
「聖女は二人もいらないものね」
テーブルから蝶が一羽飛び立つ。
残りの一羽はいつの間にか、テーブルに横たわり動かなくなっていた。
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