⑺代償
右の手首に奇妙な痺れがあった。
航は、それが緊張感によるものだと信じていたし、気にも留めていなかった。しかし、左手首に刺すような痛みを感じ、気のせいではないと確信した。
最大出力の一撃を放った航は、雪原に埋もれながら鈍色の空を睨んでいた。身体能力の上限を超えた攻撃によって、身体中が悲鳴を上げ、立ち上がることが出来ない。
航の目には、パルチザンを握ったままの自分の左手が見えた。関節から数センチ上の皮膚が、赤く
頭に泥でも詰まっているみたいに思考が纏まらない。誰かに助けて欲しいのに、手を伸ばす先すら見えない。恐怖と絶望が暗雲のように立ち込めて、胸が潰れそうに痛かった。
第六感、虫の知らせ、テレパシー。
航は、双子の兄に何かがあったことを悟った。
革命軍が迫っていた。
レグルスに変装したウルが、航諸共、転移しようと魔法陣を展開する。白い光に包まれながら、航は、理解不能の光景を目の当たりにした。
初めに見えたのは、蛇行する光の筋だった。
緑色に発光するそれが、レオの村の若い衆だと気付くと、頭が真っ赤に染まる程の怒りを覚えた。
航とウルが、危険を承知で囮となって逃したはずの村人が、何を思ったか、革命軍に向かって突進する。戦力差は歴然だ。そもそも、自分たちは戦闘を避ける為の策を講じ、その為に身を挺して囮となり、此処にいる。村人が戦場に来たら、全てが水の泡だ。
航が怒りのままに怒鳴り付けようとした、その瞬間。
列を成した村人は、まるで火の点いた導火線みたいに次々と自爆攻撃を始めた。
恍惚とした村人の顔、意味不明のスローガン、降り注ぐ血と臓物。自らの身体を爆弾に変えた人々が、無意味な自爆攻撃を繰り返す。
航は言葉を失っていた。
指先からじわじわと血の気が引いて、頭が真っ白になっていた。積み上げて来た努力が、他人の愚かな行為によって台無しにされたような、堪え難い虚無感だった。
海蝕洞からは一人、また一人と、巣穴から飛び出す
革命軍はそれをいとも容易く迎撃し、攻撃は届く前に消え失せた。
村人は、それでも突撃を止めない。
胸の奥底から深い失望が沸き起こる。
「ふざけんな!!」
航は叫んだ。
この行為に何の意味があるんだ!!
無駄死だ。自分も仲間も道連れにする最低最悪の行いだ。
自爆した村人は、一人残らず爆散した。
革命軍には然程の損害にならない。それどころか、彼等の衝動的で浅はかな行為は、守るべき人々の位置を知らせる結果となっていた。
革命軍は、翼を広げるように二手に分かれた。
転移魔法を展開する自分たち、そして、村人の避難先である海蝕洞を狙い、稲妻のように突撃した。
自分たちが狙われるのなら、構わなかった。
航とウルは囮だ。革命軍の目を引き、村人が避難するまでの時間を稼ぎ、離脱する。けれど、村人の自爆攻撃は、作り出したはずの時間を潰し、逃げ場の無い人々を窮地に晒した。
湊は間に合うのか?
いや、間に合わなかった場合、逃げる術はあるのか?
最悪の事態を何処まで想定していた?
守ろうとした人々が自死を選択し、避難先が狙われる事態を、想定出来たか?
無理だ。
自爆という選択肢が存在することすら、知らなかった。彼等が死を選ぶのなら、それでも良い。だけど、これでは、湊と昴が。
航は突っ伏したまま、声を上げた。
「湊と昴を助けに行ってくれ!」
革命軍の遠距離攻撃が側に着弾し、凄まじい爆風を起こす。ウルの変装は舞い起こる火の粉の中で、陽炎のように消えてしまった。
熱波の中、ウルは顔を歪めて頷いた。
「当たり前だろ」
革命軍は、ウルが別人だと知っても止まらなかった。止まる理由が無い。邪魔をする者は全て殺す。村人の常軌を逸した自爆攻撃は、革命軍から理性を奪い、冷酷非道な殺人集団へ変えていた。
ウルは、海蝕洞を睨んでいた。
断崖絶壁の根元、まるで蟻の巣穴のようだ。転移魔法を使うには、座標が必要だ。ウルには、湊と昴の元へ駆け付ける為の情報が無い。それでも、何か出来るのではないかと、この最悪の状況を打開する方法があるのではないかと、藁にも縋るように魔法陣を広げる。
その時、海蝕洞の周辺が緑色に光った。
海を抱くような断崖絶壁に魔法陣が広がっていた。
湊か? 間に合ったのか?
航の希望的観測は、すぐに打ち砕かれた。
自爆魔法陣だ。
避難した村人が、革命軍を道連れに自爆しようとしている。
生きるも死ぬも、勝手にしろ!
でも、俺の家族まで、巻き込まないでくれ!
爆発しそうな焦燥と、一筋の光さえ見付けられない絶望に苛まれ、航は血を吐くように、声にならない声で叫んでいた。
身体が鉛のように重い。航は、被弾した荒地の上を芋虫のように這った。
声が聞こえた。湊の声だ。
いつでも冷静で、他人の介入を許さない完璧主義者の湊が、悲鳴を上げるようにして助けを求めている。
「誰か助けてくれよ!」
異なる場所で、異なる状況で、航と湊の声は重なっていた。
空が光ったのは、その時だった。
分厚い雲に覆われた空が白く染まり、海蝕洞の上空に渦を巻く。地響きにも似た雷鳴が轟き、黒い海は傾けられたかのように干上がった。
何が起きているのか、分からない。
航は呼吸すら忘れ、目の前で起こる天変地異を呆然と見ていた。
海蝕洞の上空、雲の渦に巨大な魔法陣が浮かび上がった。夥しいルーン文字と美しい幾何学模様。白い光が降り注ぎ、辺りは神の鉄槌を思わせる荘厳な雰囲気に包まれた。
一度見たことがある。
湊にも解析出来なかった頂点の魔法。犠牲の魔法。
それが使えるのは、この世でたった一人、昴だけだ。
網膜を焼く強烈な光が放たれる。次の瞬間、空は
流星群だ。明かり一つ無い地上を照らしながら、幾筋もの彗星が降って来る。
大気圏に突入した彗星は、真っ赤に燃えながら革命軍の頭上に降り注いだ。悲鳴を上げ、逃げる間も無かった。
象が蟻を踏み潰すように、巨大な岩塊は容赦無く革命軍を打ち払った。海に落ちた彗星は、悪夢のような津波を起こし、信じられない程に高温の水蒸気が人の肉体を焼き尽くす。
火の海になっていた村が津波に呑み込まれ、雪原は海水に侵食される。海蝕洞が荒波に削り取られ、崩落して行く。
この世のものとは思えない光景だった。
革命軍と村人が塵芥のように消し去られると、海は何事も無かったかのように穏やかに凪いで行く。夜空は中心から裂けるように消え、後に残ったのは残酷なまでの蒼穹であった。
陸地は海水によって洗われ、完全な更地となっている。その中で、崖の根元にあったあの海蝕洞が、ぽっかりと口を開けているのが見えた。
航は立ち上がった。
身体の感覚が無かった。雲の上を歩いているみたいだ。航はパルチザンを杖にして、逃げ水のように遠くに見える海蝕洞を目指した。
今は兎に角、湊に会いたかった。
16.蟻の景色
⑺代償
湊は、深い闇の底にいた。
エレメントの召喚に失敗し、起死回生策も考えられず、それでも、最期の瞬間まで絶対に目は逸らさないと覚悟を決め、それからの記憶が曖昧だった。
自分は死んだのか?
湊は闇の中、手探りで人を探した。
足元が
身体が重い。まるで、着衣水泳でもしたみたいだ。
「誰かいませんか!」
声を上げるが、返事は無い。
自分の声だけが虚無に反響する。辺りでは、まるで雨垂れのような音が聞こえていた。何が起きたのだろう。
その時、何か柔らかいものを踏んだ。
反射的に足を引っ込めて、そのまま湊は転んでしまった。
鈍い痛みを感じながら濡れた地面に手を突くと、生温かい何かを掴んだ。柔らかくて、滑っている。何なんだ、さっきから。
膝を払おうとして、衣服がびっしょりと濡れていることに気付いた。自分が意識を失っている間に、洞窟内は浸水したのだろうか。
「誰かいませんか!」
湊の声が木霊した。やはり、返事は無い。
だが、何が起きているのかも分からない状況で足を止めるということは、死ぬということだ。もう駄目だと思う時にこそ、立たなければならない。
湊は何度も転び、その度に立ち上がった。
外で津波が起きて、洞窟内が浸水したのかも知れない。さっきから足を取られるのは、深海の泥か、打ち上げられた海棲生物か。
適当に見当を付けて、湊は出口を探した。
航は無事なのか。昴は、ウルは。
革命軍はどうなった。村人は助かったのか。
本当に自分は生きているのか、それとも。
時間の感覚が無い。
永遠にも思える
何だ、これ。魚でも海藻でも、泥でもない。
ああ、これ、知ってる。見たことある。
湊が答えを導き出したその時、闇の中に灯火のような光が見えた。
敵か?
それとも、味方か?
前者であるなら、逃げなければならない。湊はすぐに身を起こしたが、足元が泥濘んで立ち上がることが出来なかった。
遠くから足音が聞こえる。一人、二人、三人。
「湊!」
湊は、胸の中に光が灯ったかのような希望を抱いた。
航だ。航の声だ。
自分の名を呼ぶ声がする。
昴とウルだ。良かった。無事だったんだ。
自分を探している。行かなくちゃ。
湊が応えようとした時、闇の中に魔法具の光が差し込んだ。それは希望の光であるはずだった。
闇に慣れた目が眩む。平衡感覚が失われて、意識が霞んだ。湊は遮るように手を翳してーー絶句した。
血だ。
頭から血の池に浸かったかのように、全身が赤く染まっている。
自分を呼ぶ声がする。眩い灯火の中、湊は辺りに何が広がっていたのかを理解した。
原型を失った人の身体が、其処此処に散乱している。
自分が何を踏んでいたのか、何に
理解した瞬間、
咄嗟に口を押さえた。喉まで込み上げていた胃液を必死に呑み込み、湊は頭が痺れるような凄まじい痛みに襲われた。
橙色の灯火が見える。
魔法具を手にしたウルが顔を覗かせ、昴が現れる。そして、航と目が合った。
濃褐色の瞳に、血塗れの自分の姿が映る。安堵に緩んだ航の顔が、見る見る内に歪み、強張って行くーー。
心臓の音が煩い。三人が血相を変えて駆け付ける。
耳鳴りがして、意識が乖離するのが分かる。
覚悟を決めたあの後、何が起きたのかーー。
湊は意識を失ってなんていなかった。全てを見ていたし、覚えていた。
「湊!」
航が目の前にいた。
血塗れの湊の肩を掴み、鬼気迫る表情で呼び掛ける。湊は頭を押さえて
あの時ーー。
自爆魔法陣に囲まれ、湊は覚悟を決めた。そして、次の瞬間、村人の身体は内部から破裂したのだ。内臓が弾けて、皮膚がびりびりに裂けていた。眼球が飛び出して、脳漿がぶちまけられた。
白い光に包まれた湊は、目の前で人が破裂する様をコマ送りのように見ていた。
足元に魔法陣が光っていた。
一度、見たことがある。昴の犠牲の魔法だ。
頭の中で、全ての点と点が繋がった。
自分は、昴の犠牲の魔法によって守られたのだ。その代償は村人の生命だった。爆散するはずだった自分が生き残ったから、村人は一人残らず、湊の代わりに爆散した……。
これを、どうやって受け止めたら良い?
生きていて良かったと、死んでくれてありがとうと、自死を選んだ彼等が愚かだったと、そう言って笑えるか?
ーー湊には、無理だった。
喉の奥から絶叫が迸った。
叫んでいなければ、頭がおかしくなりそうだった。散乱する肉片の中、湊は堪え切れずに嘔吐した。
消化し掛けた食材が吐き出され、胃液の臭いが更なる吐き気を招く。
航が何かを言っている。湊には、自分の叫び声しか聞こえなかった。
脳味噌が攪拌されているみたいだ。
航の肩に縋りながら、湊の意識は糸が千切れるように暗転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます