⑸因果の矢

 デネブ、アルタイル、ベガ。

 夏の夜空に輝く星の美しさは、それまで湊が見て来た全ての頂点に君臨していた。


 両親の帰省に伴って母国へ戻った夜、湊と航は父に連れられて、ナイトハイキングへ向かった。夏とは思えない寒さの中、父は薄手のジャケットを纏って無言で山を登った。幼かった双子は、身の丈程もある岩をよじ登りながらその背中を必死に追い掛けた。


 何処かで虫が鳴いていた。

 せみだったのかも知れないし、鈴虫だったのかも知れない。湊は背中に伸し掛かるリュックサックの重さに弱音を吐きそうになりながら、隣の航を気遣った。


 航は弱音や泣き言を零さない。様々な困難が降り注ぎ、理不尽や不条理が道を塞ぎ、助けの望めない闇の中でも決して目を逸らさなかった。


 六歳の頃の航は、抜き身の刃みたいに凡ゆるものを拒絶し、遠去とおざけていた。


 何かに急き立てられるように、前だけを見据えて進み続ける。湊は、いつか航が追い付けない程遠くへ行ってしまうのではないかと不安だった。


 航は湊が目を遣る度に、わずらわしそうにそっぽを向いて歩調を速めた。


 登山だけに限らないが、ペース配分は大切だ。競うように前へ進もうとすると、二人は父の背中に気付き、其処でようやく元の速度へ戻る。


 父は立ち止まらないし、振り返らない。けれど、二人が疲れると歩調を緩めてくれた。ヘッドライトの眩い光が幻想的で、山を登っているのに、まるで深い海の底を海底調査船で何処までも潜って行くような不思議な感覚だった。


 虫の音と木々のさざめきの中、三人の足音だけが静かに木霊する。目的地に到着すると、父は振り返って微笑んだ。湊は達成感を抱く前に、到着したことに安心していた。


 鬱蒼うっそうとした森の中、ぽっかりと拓けた広場に腰を下ろした。父はリュックサックの中から水筒を取り出し、三人分の紙コップに注いだ。白い湯気が夢みたいにふわふわと湧き上がる。


 配られたのは、温かい紅茶だった。多分、何処にでも売ってる安いティーパックのダージリンだった。けれど、その温かさと微かな香りは、疲れた身体を生き返らせるようにじんじんと染み渡った。


 父は芝生の上に寝転んだ。湊と航もそれに倣って、三人で並んで夜空を見上げた。途端、視界一杯を埋め尽くす数え切れない星の輝きに言葉を失くした。星空をさえぎる高層ビルも、地上の明かりも無い。豪勢な星空は二人の胸を強く打った。


 父は空を指差して、星座を教えてくれた。

 呪文のように次々と知らせる声が心地良くて、湊は自然と微睡まどろんでいた。自分なんてちっぽけな存在なんだなあなんて達観して、大自然の雄大さに見惚れていた。


 デネブは白鳥、アルタイルはわし、ベガは琴。

 歌うように父は教えてくれた。星座を探すのも難しい星の中、湊は水面を揺蕩たゆたうかのような凪いだ心地でいた。


 時々、航が問い掛けた。訥々と語る言葉に普段の棘は無く、等身大の航が其処にいた。

 しがらみから解き放たれた航は、とても静かだった。久々に聞く弟の安らかな声に、湊は内心で自分の不甲斐無さを感じた。いつも一番近くにいて、側で守ってやっていた気になって、本当は何も出来ていない。


 自分に何が出来るだろう。




「全部、ぶっ壊してやれば?」




 唐突に、父が言った。

 ぼんやりしていた湊は、話の流れが分からなかった。航の質問に対する回答だったのかも知れないし、思い付いたことを口にしただけなのかも知れない。


 湊には理屈で説明することの多い父は、何故なのか航に対しては抽象的な暴論を口にする。手段は異なるが、いつも父は湊と航が本当に欲しかった言葉をくれる。




「価値観とか常識とか、全部ぶっ壊して、また作ればいいさ。大丈夫だよ。二人なら出来るさ」




 何のことを言っているのかは分からなかった。

 分からなかったことは、いつも頭の中に刻むようにしている。いつか分かる日が来る。その時まで忘れずに、大切にしまって置く。


 いつかきっと、その日が来る。

 いつか、きっと。









 12.かたちなき正義

 ⑸因果いんがの矢










 湊は、静寂の中にいた。


 観客の悲鳴染みた歓声や罵声は、声と呼ぶよりも音に近い。湊は遠くに聞こえるハウリングに似た耳鳴りに集中した。雑音は掻き消され、目の前の情報だけに意識が向けられる。


 父はこれを、ランナーズハイと呼んでいた。葵くんは天才にだけ許された極限の集中状態、ゾーンだと教えてくれた。覚え難いので、父に倣ってランナーズハイと呼ぶことにしている。


 ランナーズハイになると、耳の奥で甲高い音が鳴る。世界がモノクロになって、必要な視覚的情報だけがカラーになる。湊の目には、対戦相手のベガだけが見えた。


 彼女には借りがある。だからと言って、勝ちを譲る程、甘くはない。自分の対戦相手が女性ばかりなのは、日頃の行いの為なのだろうか。感謝するべきか反省するべきかも分からない。


 魔法界に来て思うのは、女の人のたくましさだった。

 武器を作ってくれたアレスも、一回戦を戦ったデネブも、目の前にいるベガも、強い。自分の中に絶対に折れない芯みたいなものがある。


 湊は先程の感謝を込めて深く頭を下げた。




「先程は、ありがとうございました」

「いいえ。子供を守るのは、大人の役目よ」

「そういう人が多数なら、世界はもっと平和になると思います」




 湊が言うと、ベガは驚いたように碧眼を丸めた。

 軍人とは思えない。少女のように可愛らしい女性だ。湊は姿勢を正した。




「貴方には借りがあります。ですが、勝負は別です。全力を持って立ち向かうことを礼儀として、お許し下さい」




 湊は矢筒やづつから青い矢をつがえた。

 試合開始の合図が響き渡る。その瞬間、湊の矢は放たれた。


 青い閃光が風を切って駆け抜ける。ベガは魔法陣を展開した。先程とは異なる真っ青な魔法陣だった。

 無数のルーン文字が蛇のように地を這って流れ出す。それは一直線に湊の元へ向かい、牙を剥いた。


 青いルーン文字は大蛇に化け、湊へ襲い掛かる。

 見たことの無い魔法効果だ。魔獣の一種か、それとも、幻術?

 湊は大蛇に向けて一本の矢を放った。その瞬間、大蛇は大きく開けた上顎と下顎を裂くようにして二頭に分裂した。


 大口を開けて頭上に迫る大蛇を避けると、横からもう一頭が襲い来る。湊は大蛇の上顎に手を置いて、その上にまたがった。


 大蛇は湊を振り落とそうと、躍起やっきになって頭を振る。湊は頭の上で、矢を放った。頭頂部に突き刺さると大蛇は唸り声をとどろかせ、のたうち回った。

 暴れ狂う大蛇の目玉を狙って矢を射る。血液の代わりに零れ落ちたのは、あの青いルーン文字だった。


 もう一頭が背後から突進して来た、

 湊は矢を番えながら、ベガの元を目指して駆け出した。大蛇は、背後から大口を開けて丸呑みにしようとしている。その直線軌道上には術者であるベガがいた。


 さあ、どうする?


 ベガは落ち着いていた。足元には青い魔法陣が広がり、ゆっくりと静かに回転している。大蛇を操る為の魔法陣じゃない。さっきと配列が違う。


 別の攻撃が来る。

 大蛇は湊をベガ諸共、呑み込んだ。しかし、それはシャボン玉のようにぶくぶくと泡になって消えてしまった。


 幻術だったのか?

 分からないが、これで彼女は湊の間合いに入った。

 腰から引き抜いたナイフを構えて、湊は野生動物が狩りをするように一気に襲い掛かった。




「子供がそんなものを振り回すなんて、嘆かわしいわね」




 ベガの声は穏やかだった。

 距離にして一メートル。湊の刃はベガの胴を捉えていた。だが、その時、湊の体は鉛にでもなったかのように、不自然な程に重くなった。

 一分一秒の流れが遅い。体感速度ではなく、実際に遅くなっている。


 ベガは湊へ掌を向けた。




「子供が傷付くのは、見たくないの」




 そう言って、青い魔法陣からは苛烈な光が放たれた。

 閃光弾だ。湊は堪らず後退した。凄まじい光に焼かれ、両目が見えない。痛みすら感じる。


 身体が重い。一歩踏み出すだけなのに、コマ送りにでもなっているようだった。

 遠くで、声が聞こえた。




「降参しなさい」




 ベガが何処にいるのか分からない。自分は今、立っているのか? それとも、倒れているのか?

 湊はゆっくりと首を振った。




「降参は、しない」

「何故?」




 何故?

 問われてみて、湊は自分でもよく分からなかった。こんな大会に出たところで、湊にも航にも利益は無い。魔法使いと交戦する経験にはなったが、それなら、わざわざこんなに危険な大会に出る必要は無かった。


 何故だろう。昴を助けようとしたのかな。会ったばかりの彼等の背中を押すつもりで、死ぬかも知れないこんな戦いへ身を投じたのか?


 多分、違う。

 自分の目指したものは、何も変わっていない。

 この魔法界には様々な魔法がある。炎の魔法、風の魔法。属性は分からないが、自身を鋼のように硬くする強化魔法。治癒したり状態異常を与えたりする魔法。そして、犠牲と引き換えに願いを叶える魔法がある。


 もう一度、父に会いたい。

 俺たちは、まだおかえりと言っていない。父のただいまを聞いていない。それだけなのだ。


 昴の魔法は犠牲を必要とし、その対象を選べない。それは魔法の性質と言うよりも、練度の問題なのだと思う。そうでなければ、昴の魔法はただの爆弾だ。王族や革命軍が探し求める理由は無い。


 練度が上がれば、その対象を選べる。けれど、湊は他人の命を犠牲にして父を生き返らせるということには、正直、反対だった。そんなことをしたって父は喜ばないし、むしろ、悲しむだろう。


 犠牲しかないのか。本当にそれだけか。

 魔法界にある凡ゆる方法を試して、命ではない犠牲を成り立たせることは出来ないのか。

 氾濫はんらんした川に人柱を投げ込むのではなく、ダムを作って流れを塞き止めたように、何か別の方法があるはずだ。全てを試してからでも、決断は遅くない。


 その為には、昴に死なれては困る。

 きっと、この先、魔法による熾烈しれつな戦争が始まる。その中で昴が奪われたり、命を落としたりしてしまっては本末転倒だ。


 俺に何が出来る。




「俺は、欲張りなんだ」




 にわかに視力が返って来る。

 ベガが怪訝そうに目を眇めるのが見えた。

 彼女の碧眼は、何処か爬虫類に似ている。瞳孔が縦型に見えるからだろうか。それとも、先程の攻撃が大蛇だったからだろうか。




「大切なものが沢山ある。それを守る為に、強くならなきゃいけない」




 航、昴、ウル。

 これまで育ててくれた両親、葵くん。

 そして、何より、自分を此処まで突き進めた勝利への渇望、――プライドだ。




「だから、俺は貴方に勝つ」




 湊は矢を番えた。

 視界は不明瞭、身体は鈍い。水中でよろいを着ているみたいだ。このままじゃ、なぶり殺される。




「それなら、これはどうかしら?」




 ベガが何をしたのか、全く分からない。

 視界は真っ白に染まり、やけに鋭敏になった聴覚ばかりが彼女の声、衣擦れの音をつぶさに拾い上げる。


 ベガの声から一秒にも満たない刹那、湊は正体不明の攻撃を受けた。スライムに身体が沈み込んで行くような奇妙な圧迫感だった。

 咄嗟に引き剥がそうと床へ転がったが、それは離れない。


 何だ?

 何をされた?


 地面に膝を突いた。霞む視界に滲み出しのように色が戻って来る。ふと気付くと、両手の甲に青紫色のあざが無数に浮かび上がっていた。


 慌てて起き上がった湊は、袖をまくった。

 両腕、両脚、腹部。確認は出来ないが、恐らく顔面に至るまで、青紫色の不気味な斑点が刻まれている。


 心臓が一度大きく脈を打った。

 頭の奥が痺れ、上手く呼吸出来ない。喉の奥から空気の抜ける妙な音が漏れる。おびただしい青紫色の斑点からは血が滲み、立っていられない。


 毒だ。

 湊は直感する。

 彼女の扱う魔法は状態異常を与えるものだ。




「そのままじゃ、10分と持たないわ。さあ、降参しなさい」




 10分もくれるのか。

 それは彼女の温情なのか、嗜虐的な行為なのか。湊にはよく分からない。自分なら、致死率の高い即死魔法にする。


 敢えて時間を与えた。その意味は何だ。

 彼女は自分を殺したくないのだ。それとも、殺せないのか。どちらにせよ、好都合だ。


 動きを封じられ、視力を奪われ、毒に侵された今の自分に出来るがある。

 湊は一本の矢を背中に隠し、力を込めた。




「俺は絶対に降参なんてしない。俺を殺したいなら、直接やれよ」




 自分に出来るのは、言葉による挑発だ。殺す気も無い癖に脅迫する彼女と、死ぬ気も無いのに挑発する自分は、どちらが残酷だろう。


 動きは鈍いが、感覚が少しずつ戻って来ている。視力もそうだ。けれど、それを悟られてはならない。

 膝を突き、視線を落とす。毒の効果で身動きすら出来ないように演じるのだ。


 嘘を吐くのは、得意だ。


 痺れを切らしたベガが、革靴を叩き付けるようにして迫って来る。そうだ。此方が降参しないとなれば、距離を縮めて来る。彼女の魔法には直接的な攻撃手段が無いのだ。


 きっと、とどめは刺さない。そういう人だ。子供を殺すことに抵抗を覚える、優しくて女性だ。


 徹底抗戦を訴える子供を見殺しには出来ない。

 彼女が選ぶ選択肢は一つしかない。場外だ。


 ベガは湊の腕を掴んだ。その瞬間、湊は隠し持っていた矢を振り翳した。

 肉を抉る嫌な感触だった。何処に刺さったのか分からないが、ベガが短く悲鳴を上げた。


 足元に水色の魔法陣が広がる。湊の視界はもやが晴れたように鮮明になり、かせから解き放たれた身体は驚く程に軽かった。

 身体中を埋め尽くした青紫色の斑点は消え失せ、一回戦で受けた傷痕が薄く残るばかりだった。


 対して、ベガは狂気的な悲鳴を上げた。

 足元はふらつきながら、スローモーションのように動きが鈍い。美しい肌には醜い斑点が浮かび上がっていた。




「何をしたの?!」




 盲人が杖を探すように、ベガは何も無い場所へ手を伸ばす。魔法陣を広げる余裕も無い。

 湊はその側まで歩み寄り、そっと背中を押した。ベガは呆気無く闘技場の外へ転落した。




『ベガ場外につき、勝者ミナト!』




 歓声が沸き起こった。

 湊は宣告を聞き届け、場外へ落ちたベガの元へ駆け寄った。

 動転しながらも、ベガは水色の魔法陣を広げていた。治癒魔法だ。もう少し早く気付けば、勝敗は分からなかっただろう。


 正気を取り戻したベガは、それまでの穏やかな物腰を消し去って睨み付けて来た。




「何をしたの……?」




 湊は首を捻った。

 わざわざ手の内を明かす必要は無い。だが、彼女には借りがある。




「恩返しに、教えてあげるよ」




 湊は手にした洋弓を提示した。魔法効果が付与されていることは一目で分かるだろう。一つは、一回戦で使った回収の糸。もう一つは、今使った魔法効果だ。




「この弓は、俺が受けた魔法効果を相手に付与することが出来るんだ。麻痺には麻痺を、毒には毒を、状態異常には状態異常を」




 名付けるとするのなら、因果の矢だろうか。

 ネーミングセンスに自信が無いので、口にはしなかった。




「やられたら、やり返される。これで、借りは返した」




 湊は得意げに笑って、歩き出した。

 頭の中には、父との思い出が鮮明に投影されていた。


 全部、ぶっ壊してやれば?

 価値観とか常識とか、全部ぶっ壊して、また作ればいいさ。大丈夫だよ。二人なら出来るさ。


 そうだよね。選択肢が限られているなんて、誰が決めたんだ。他の道があるかも知れない。

 自分一人では出来なくても、二人なら出来るかも知れない。


 湊は、観客席の奥にいる双子の弟へ向けて拳を掲げた。不満げに口を尖らす航が応えてくれる。両隣では信頼出来る二人の仲間が笑っている。

 湊はランナーズハイの解けた心地良い倦怠感の中、幼い頃のナイトハイキングを思い出していた。


 なあ、親父。

 俺は、優しい世界を守りたいよ。

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