⑷信じること

 魔法界は人間界と異なる文化を持つ。


 例えば、経済。人間界では貨幣によって物の売買が行われる。しかし、魔法界には貨幣なんて概念は無く、物々交換が主流である。


 それから、報道。魔法界にテレビや新聞は無い。人々は界隈の噂話程度でしか情報を得る手段が無いのだ。その真偽を確かめる術や、自身の主張を拡散する方法が無い。だから、魔法界とは強固な壁と情報のおりに閉じ込められた狭い世界で完結している。


 井の中のかわず大海を知らずと言うが、魔法界は正にそのような状態にある。


 王族支配は統治による安寧あんねいを齎したけれど、反比例して個人の意思は縮小する。徹底管理社会に、個人というものは必要無いからだ。


 魔法界の現状なんて正直、湊にはどうでも良かった。不満が募れば民衆は決起し、革命を起こす。そうして時代は巡って行く。自分ならば堪えられないと思うが、此処は魔法界で、当事者ではなかった。


 湊が直面した不自由は、という現実だった。怪我をすれば手当てをするし、病気になれば病院へ行く。そんな当たり前が、此処には無いのだ。


 リュックサックの中には簡単な救急セットが入っている。絆創膏や消毒液、小さなはさみや包帯、滅菌ガーゼ、とげ抜きや三角巾、綿棒、ポイズンリムーバーなど。アウトドアが趣味の航ならばもう少し持っているだろうが、それでも応急処置の範囲だ。本格的な治療は出来ない。


 例えば、肋骨が折れて内臓に刺さった場合。骨折部を固定したり、患部を圧迫して痛みを和らげることは出来ても、治療することは出来ないのだ。


 湊は、闘技場から運ばれて来た双子の弟を前に、余りにも無力であった。


 生きてさえいれば、回復の余地がある。湊はそう思っていた。だが、赤黒い血液を吐き出しながら痛みにうめく航に、湊は何もしてやれなかった。


 昴は兎も角、怪我に慣れているウルも、航の治療は出来なかった。

 人間界なら救急車を呼んで、即刻開腹手術だ。航の怪我はそういうものだった。格闘技の大会ならば、怪我も想定しているはずだ。けれど、倫理観の破綻した此処にそんなものは無く、出場者は皆、怪我を負いながら戦い続けている。それこそ、死ぬまで。


 航は勝った。

 もうすぐ、湊の試合が始まる。航程の重傷ではないが、湊だって満身創痍だ。身体中の裂傷と火傷、疲労は蓄積され、これまで通りには動けない。相手は一回戦以上の強敵となるだろう。


 だからと言って、撤退はしない。

 戦わずして敗北なんて有り得ない。


 湊は忙しなく貧乏揺すりをしながら、ほぞを噛む思いで航を見ていた。どうする。どうする。どうする。

 答えのない自問を繰り返し、迫り来る開戦の時に焦燥ばかりが募る。航を放っては置けない。


 その時だった。




「――ウル?」




 背後から掛けられた声に、湊は自分が呼ばれた訳でも無いのに振り向いた。其処には、金色の髪を腰まで流した美しい女がいた。


 ビスクドールのような肌と宝石のような碧眼、高い鼻梁びりょうと桃色の唇。薄手のショールを肩に掛け、繊細な金色の装飾が歩く度に音を立てて揺れる。湊は、彼女が天使のように見えた。


 女はウルの元まで歩み寄ると、あどけなく小首を傾げた。




「貴方、ウルじゃない?」




 ウルは答えなかった。居心地悪そうに目を背けている。




「私、ベガよ。忘れてしまったの?」

「人違いだよ」

「そんなことないわ。貴方、ウルだわ」




 ウルの知り合いだろうか。

 湊は航の患部を抑えながら、彼等の声をぼんやりと聞いていた。


 ウルは別人だと一点張りだった。ベガと名乗る女は納得致しかねるとばかりに口を尖らせていたが、ふと此方を見て、眉を寄せた。




「貴方たち、トーナメントに出ていた子ね」




 ベガは側に膝を突くと、横たわる航を見遣った。痛ましげに目を細めた彼女は、長い睫毛を伏せる。碧眼がウルを冷ややかに睨んだ。




「子供を巻き込むなんて、貴方らしく無いわ」

「生憎、別人なんだ」




 ウルの言葉を信じたようではなかったが、ベガは追及しなかった。


 湊は、彼女の横顔を見ていた。嘘は吐いていないし、悪意も感じられない。信用出来る人間だと思う。けれど、悪意の無い殺意というものがある。


 警戒を解かない湊の前で、ベガは掌から魔法陣を展開した。仄かな水色の光が蛍のように浮かび上がる。咄嗟に湊は彼女の前に割り込んだ。




「何をする気だ」

「治療よ。其処を退いて」

「駄目だ。貴方が何者か分からない」




 梃子てこでも動かないと、湊は腕を広げた。

 魔法界に医療は無い。もしも魔法に治療というものがあるのなら、この街のような惨状は防げたはずだ。彼女の言葉を信用する根拠が無い。


 ベガは溜息を一つ吐いて、ショールに隠れた白銀の肩当てを見せた。煌びやかな細工の施された五芒星のエンブレムだった。身分を証明するものなのだろうが、湊には分からなかった。


 顔を真っ青にした昴が、湊の腕を掴んだ。




「王の軍勢が、何の用だ」




 王の軍勢?

 湊は記憶を探った。臨戦態勢を取った昴に、穏やかでない事態だということだけは分かった。


 恐らく、昴の敵だ。名の通りならば、王家に従う軍隊なのだろう。けれど、それが湊の敵とは限らない。


 問題なのは、王家にとって、自分たちがどのような位置付けになっているのかということだ。敵と看做されているのならば、迎撃しなければならない。そうでなければ、無用な争いは避けたい。


 湊は昴の腕を押し留め、緑柱玉の瞳をじっと見詰めた。




「貴方は、味方ですか」




 ベガは逡巡するように黙り、答えた。




「敵ではないわ」




 嘘は吐いていない。それでも、信用の根拠にはならない。今の自分たちの立場は弱い。素直に甘言に乗れば、不利な取引に持ち込まれないとも限らない。

 湊が注意深く睨んでいると、頭の上からアナウンスが響いた。


 湊を呼ぶアナウンスだった。

 次の試合が始まる。湊は舌打ちを漏らした。どうする。このまま航を置いて行けない。彼女が何者なのか分からないし、昴とウルを信じ切れない自分がいる。


 自分のプライドを折れば済む話だ。

 このまま不戦敗になっても、航の側にいる。一度離れたら、また会えるとは限らない。


 前にも後ろにも動けなくなった湊に、ウルが言った。




「この女は敵じゃない」

「でも、味方じゃない」




 ウルは肩を落とすと、ベガをあごでしゃくった。

 ベガは湊と航の間へ身を滑り込ませた。今度は止める間も無く、魔法陣を展開した。阿吽の呼吸でウルに羽交い締めにされ、湊は自身の傷も忘れて制止を叫んだ。


 魔法陣はくるくると回転し、航の身体へ転写された。水色のルーン文字が光り、傷口へ吸い込まれて行く。

 破れた皮膚が時間を逆再生するように塞がれる。骨折によって歪んだ腹部は、嫌な音を立てながら波が静まるようにして回復して行った。


 そして、次の瞬間、固く閉ざされていた航の瞼が微かに震えた。

 小さな呻き声が聞こえた。




「湊……」




 譫言うわごとのように航が呼んだ。湊は堪らずその手を取った。

 脈拍は安定し、出血も止まっている。湊には何が起きたのか解らなかった。ベガは再び魔法陣を広げると、今度は湊へ向けた。先程と同じように、水色のルーン文字が傷口へ吸い込まれ、皮膚を修復して行く。見る見る内に傷は消えていた。


 ベガは腕を下げ、無表情に言った。




「治癒魔法よ」




 治癒魔法。

 湊はその言葉を復唱した。魔法界に医療は無い。その代わり、怪我や病気の時には、魔法によって治療が出来る。医療が発達しない訳だ。




「治癒魔法は患部を癒やし、病を退しりぞける。けれど、元通りになる訳じゃないわ。怪我が癒えても傷痕が残るように」




 湊は元通りになった両腕と航の腹部を見比べた。彼女の言葉の通り、腕には薄っすらと傷痕が残っていた。


 事実が無くなった訳ではない。治癒魔法とは、人体の修復機能を手助けする程度なのだろう。人の細胞分裂数には限りがある。その場は癒えても、何処かで帳尻を合わせなければならない。


 それでも。




「――ありがとう、助かりました」




 深く頭を下げて、湊は感謝の言葉を告げた。

 彼女が何者なのかは分からないが、助けられたという事実は変わらない。


 湊は傍の洋弓を引っ掴んで立ち上がった。

 次の試合が始まる。体力は万全ではないけれど、彼女のお蔭で助かった。これで死んだら、自分は大馬鹿だ。




「どうして俺たちを助けてくれたのかは知らないけど、この御恩は忘れません」

「子供が恩なんて感じなくて良いの」

「いえ、必ず返します。俺たちは、誰にも借りは作らない」




 最後に一礼し、湊は昴とウルへ目を遣った。

 二人は気遣わしげな視線を向けていた。危険な状況を脱したとは言え、航は弱っている。自衛の術が無い。自分が側にいられたら一番良いのだけど、目を覚ました航が、自分の為に勝負を捨てたなんて聞いたら、きっと怒る。


 他人を信じるのは、とても怖いことだ。

 湊は他人の嘘が分かる。人は嘘を吐くし、裏切る。けれど、全ての人がそうではない。


 湊は両手をぎゅっと握った。航の言葉を思い出していた。


 仲間っていうのは、そんな風にして作るもんじゃない。


 湊がこれまで築いて来た人間関係は、後出しじゃんけんみたいなものだ。相手の手の内を見てから、信じるかどうかを決められる。けれど、みんなはそんな風にして生きていない。


 信じる覚悟無く、信じて欲しいなんて言ってはいけない。

 湊は絞り出すような声で言った。




「航を頼んだ」




 昴とウルは、晴れ晴れとした笑顔で頷いた。




「任せろ」




 湊は口元を緩め、背中を向けた。

 胸に温かいものが込み上げるのを感じた。父が死んでから伽藍堂になった其処に、春の木漏れ日が差し込むような、穏やかで優しい温もりだった。









 12.かたちなき正義

 ⑷信じること









 湊を送り出した後、昴は観客席へ移動する為に航を背負った。大男を相手に死闘を繰り広げたとは思えない程、小さな身体だった。同年代の子供がどの程度なのかは分からないが、決して体格に恵まれている訳では無い。


 思い返せば、生前のヒーローも小柄で痩せ型だった。昴は、小さな身体に感じる命の重みに、泣きたくなる。


 彼等は覚悟を決めて道を選んだ。

 横で見ていただけの昴に、口出しする権利は無い。けれど、それでも、傷付いて欲しくない。これは自己満足なのか。傲慢なのか。もう分からない。


 本当に、これ以外の選択肢は無いのか?

 自分の事情に、彼等を巻き込んでしまっているのではないか?


 湊も航も、無意味に他人を励ましはしない。自分たちには自分たちの目的があり、その責任は自分たちで背負うと言った。彼等の選択だ。だが、彼等はまだ子供で、人間界ならば親の庇護の下にいるべき年齢だ。それがどうして、異なる世界で命を危険に晒さなければならないのだろう。




「――おい、昴」




 背中で、航が呼んだ。

 喘ぐような辛そうな呼吸に、昴は胸が潰れそうに苦しくなる。




「絶対、泣くんじゃねぇぞ」




 絶対だぞ。

 念を押すように、航は言った。




「俺が選んだんだ。お前の同情なんて、いらねぇ」

「そうだね……」




 昴は一度、鼻を啜った。


 観客席は既に満員だった。犇めく観客は演者の登場を今か今かと待ち侘びて、期待に胸を膨らませていた。

 入口付近の空いた席に航を座らせてやろうとすると、軽く叩かれた。自分で出来ると強がった航は、油の切れた機械のように腰を下ろした。その向こうにウルが座ると、歓声がどっと溢れ出した。


 演者の登場だ。

 洋弓を携えた湊が、人形のような無表情で現れた。その横顔には悲壮な決意が滲み、まるで張り詰めた糸のようだった。


 そして、対戦相手がやって来る。

 昴は、祈る思いで見詰めていた。


 現れたのは、ベガだった。

 美しい金髪を風になびかせ、颯爽と歩いて行く。囃し立てる観衆の中で、湊は相変わらずの無表情だった。


 一言二言会話を交わし、すぐに離れた。

 煽るアナウンスが時雨のように頭上から降り注ぐ。昴は、彼女の白銀の肩当てを思い出した。


 王の軍勢だ。

 これまで昴を執拗に追い掛け、守るべき民を視肉と嘲り、大勢の血を流させて来た。彼等はいつでも昴の敵であった。だが、ベガは違った。湊と航を助けてくれた。




「あの人は、何者なの」




 昴は問い掛けた。ウルは闘技場を真剣な眼差しで見詰め、顔も向かずに答えた。




「王の軍勢だよ」

「それがどうして、僕等を助けてくれたの? それに、あの人はウルのことを知っていたみたいだけど……」




 ウルは表情を曇らせた。




「助けた理由は分からねぇ。目的は昴ではなく、湊と航なのかもな。エレメントが、特異点と呼ぶくらいだ」




 確かに、この双子には、何か特別な力がある。それが何なのかは分からない。

 ウルは顔を陰らせた。




「俺のことは、来るべき時が来れば話す。――今は、それじゃ駄目か?」




 こういう時、湊なら食い下がるのだろう。

 けれど、昴はウルを信頼出来る仲間だと思っている。其処にどんな事情があったとしても、信頼が揺らぐことは無いだろう。




「ウルを信じるよ」




 こういう言い方は、ずるいのかも知れない。だが、今の昴には、それ以外に信頼を示す方法が無い。




「ありがとさん」




 ウルは苦笑を漏らした。


 試合開始の合図が叫ばれる。

 航は既に意識を闘技場へ向け、会話には口を挟まなかった。

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