⑸湊

 嫌な事件があった。


 ニューヨークのブロンクスで、就学前後の男児が連れ去られ、翌週には遺体で見付かった。


 遺体には性的暴行の形跡があり、地区内の子供を持つ親を震え上がらせた。それは一件にとどまらず、一ヶ月の間に三名もの尊い命が奪われた。


 BAUとして出動していた葵は、同じニューヨークに住む二人が気に掛かった。流石に和輝も帰国して、登下校に付き添っていた。


 その凄惨な殺人事件が解決したのは、正に急転直下のことであった。


 偶々ブロンクスの側を通り掛かった和輝と二人の息子は、公園でキャッチボールをしていたらしい。湊は二人の姿を遠くに見ながら、芝生で寝転ぶ少年に気が付いた。


 少年は湊に気付くと、擦り寄るようにして近付いた。そして、子供が喜びそうな言葉を並べて、一緒に遊ぼうと言った。


 その少年を見た湊が、言った。







 その時、少年の顔は感情が抜け落ちてしまったかのような無表情だったらしい。




「俺は、他人の嘘が分かる」




 事件が急展開を迎えたのは、その時だった。


 異変に気付いた和輝と航がやって来て、少年に話を聞いた。少年は嘘と言い訳を口にしていたが、次第に落ち着きが無くなり、支離滅裂しりめつれつな言葉を次々に並べ立てた。

 不穏に思った和輝が地元警察に送り届けると、少年は観念したみたいに犯行を自供した。


 未成年者による連続幼児誘拐殺人だ。

 犯人は僅か十歳の少年だった。


 犯人を逮捕しても終わらない事件というものがある。長く世間を騒がせて、マスコミは犯人以外のターゲットを探す。その時は、少年を育てた保護者が槍玉に挙げられていた。少年はソシオパシスと診断された。


 葵にとっては、その少年も家族も他人だったので、特別心を動かされるようなことは無かった。

 問題は其処じゃない。


 湊は、初めて会った人間の嘘を見抜いたのだ。

 それは和輝の持つ特技の一つだった。


 どうやら、湊は物心付いた頃から人の嘘が分かるようになっていたらしい。天真爛漫で素直な湊は、その裏で人の嘘を見抜き、信頼に足る人間かどうかを常に値踏ねぶみしていたのだ。

 悪人は嘘を吐き、善人は嘘を吐かない。その特技は善悪を見極めるものだと考えていたらしい。


 人間関係に明確な線引きをするところも、他人の嘘を見抜くところも、和輝そっくりだったのだ。葵から見た湊は素直で扱い易い子供だった。けれど、その本性は年齢に見合わず成熟し、悲しい程に達観してしまっている。


 正直、分かり易い航よりも性質たちが悪い。


 湊は間違っていない。常に正しい選択をする。相手の気持ちを汲める優しい人間だ。けれど、葵にはそれが恐ろしく見えた。


 嘘を見抜くなんて、六歳の子供が持つべき能力ではない。


 警察署のロビーでお手柄だと褒められる湊に、和輝は苦い顔をしていた。賞賛される湊がやって来ると、目の前に膝を突いて、和輝はさとすように言った。




「嘘が分かっても、その人の心が分かる訳じゃない。それを善悪の基準にしてはいけない」

「どうして?」

「全ての嘘が悪い訳じゃない」




 和輝は事態を重く受け止めて、湊と二人で話をする時間を作った。航の性格は成長の過程で良くも悪くも摩耗まもうして行くだろう。けれど、湊のそれは、今の内に正さなければ、取り返しの付かないことになる。

 葵は二人が話をする間、ぶうぶうと文句を言う航を預かった。


 不安定だった航の精神は和輝という逃げ場の確保と共に落ち着いていた。家庭内の不和は跡形も無い。


 航は退屈そうにしていたが、葵の問い掛けに答えるようにして、身の周りの話を自分からするようになっていた。父親の存在が此処まで影響するとは思わなかった。それが良いことなのか悪いことなのか、葵にはもう分からない。








 8.オリジン

 ⑸みなと








「クソババアが、うるせえんだよ」




 相変わらず、航は口が悪い。

 何処で覚えるのか乱暴な物言いで、態度も不躾ぶしつけだ。それでも、今は奈々とも適度な距離を保ち、精神的に安定して来ている。


 葵は口汚さに眉根を寄せることが多かったが、それが彼なりの信頼の証であると気付いたのは、壁に飾られた奈々の似顔絵を見た時だった。


 双子は母の日には毎年、似顔絵を贈るらしい。精神的に不安定だった頃に描いた絵はモノクロで、角が生えていた。その頃の航には、鬼に見えていたのだろう。そして、今年の絵は、奈々の笑顔だった。鮮やかな色合いのクレヨン画は、何処か懐かしく温かかった。航の心境の変化がよく分かる。航にとって、奈々は敵ではなくなったのだ。


 航は絵画を通して自己を表現する。そして、湊は、いつも明るい色合いで幸せに溢れた絵を描く。それは湊の精神的な安定を表しているのか、それとも、望まぬものを排除して、理想だけを追い求めているのか。


 葵は、和輝と湊がどんな話をするのか見当も付かなかった。嘘を見抜く能力なんて、生き難いだけだ。けれど、湊にとっての幸運は、同じ境遇を生きた父親がいるということだった。


 不貞腐ふてくされたようにオレンジジュースを啜る航に、葵は言った。




「お前にとってはクソババアかも知れないが、母親は偉大だ。お前の尊敬する父親に出来なかったことを成し遂げた」

「何?」

「お前を産むこと」




 航はきょとんと目を丸めて、悪戯っぽく笑った。


 そんなの、知ってる。

 航は皮肉っぽく笑いながら、そう答えた。


 この頃の航のことは、安心して見ていられた。母親とのみぞも、振り返れば良い思い出だ。当時はもう駄目かと諦めてすらいたけれど、それは航が成長する為に必要な時期だった。母の日に贈られた似顔絵が、それを裏付けている。




「葵くんは、親父の友達なんだろ?」

「そうだよ」

「あんなめちゃくちゃな人間と、よく友達やってるね」




 航から、和輝に対する批判的な評価を聞いたのは初めてだった。珍しいものを見たような気がして、葵は笑ってしまう。




「息子からも、そう見えるか?」

「そりゃそうでしょ。周りの父親と比べると、一目瞭然」




 したり顔で言う航に、邪気は無かった。

 周りと違うけれど、それでいいと思っている。多様性を受け入れている。葵は気分が良くなって、何となく口を開いた。




「お前の親父はヒーローだよ」

「知ってる」

「お前がこの先で出会うどんな人間よりも、尊敬に値する人間だ」

「マイケルジョーダンよりも?」

「もちろん」




 航は年相応の幼い笑みを返した。




「葵くんは、親父の何処が立派だと思うの?」

「俺の家族は死んでヒーローになった。だが、和輝は生きてヒーローであり続けている。そういうところ」




 尊敬する父親が褒められて、航は照れ臭そうに頬を掻いた。照れ隠しをする時の和輝の癖だ。

 航はオレンジジュースを飲み下した。




「親父のしてることって、難しい。誰からも褒められないし、お金もあんまり貰えない。でも、必要なことだから、頑張ってる。親父を見てると、頑張ることは悪いことじゃないって思える」




 努力することに躊躇ためらいの無い航は、所謂いわゆる、天才と呼ばれる人種だった。だが、周りはそうではない。高い理想を持ち、努力することが当たり前の航にとって、和輝の生き方は正に支えだった。例え、側にいられなくても。


 俺が生きて自己実現し続けているということが、あいつ等の支えになる。


 いつか和輝の言ったことを思い出し、葵はやはり、苦い思いになる。何処までも予定調和的だ。


 夕方になると、和輝と湊が帰って来た。二人はサーフィンに出掛けていたらしく、航は文句を言っていた。

 奈々が夕食へ誘ったが、断った。仕事が残っていたし、家族の団欒だんらんを邪魔したくなかった。


 湊と航が玄関まで見送りに来た。

 湊は何事も無かったみたいに、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。彼は他人の嘘が分かる。そして、その能力をつい最近まで隠して来た。嘘の巧みさは父親譲りだろう。


 湊はリビングから聞こえる両親の声に耳を澄まして、気配を探っているようだった。そして、秘密を打ち明けるみたいにそうっと言った。




「親父に言われたんだけど、俺はもっと考えた方が良いらしい。嘘が見抜けても、その理由が分からなければ駄目なんだ。人の心なんて知るべきじゃない。でも、知ろうとすることは必要なんだって」




 難しいよね。

 湊は困ったみたいに肩を竦めた。




「俺は、もっと色々なことを勉強しようと思う。沢山勉強して、見て聞いて、世界の広さを感じたい」




 次に会う時は、今の俺じゃないよ。

 宣戦布告するみたいに、湊が言った。その眼差しは和輝にそっくりだった。


 きっと、彼等はこの先、何度も挑戦して、壁にぶつかって、苦しむのだろう。それでも、前を向いて歩き続ける。和輝がそうであるように。


 葵が玄関を出ると、外は夜だった。

 もうすぐ、冬が来る。彼等は七歳になる。

 天鵞絨ビロードの夜空に浮かぶ星が硝子片のように光っていた。青く輝く星が尾を引いて流れて行く。吐き出した息の白さやかじかむ指先の感覚も忘れて、葵は空を見上げていた。


 クリスマスが終わると、年越しまではあっという間だ。冬はイベントが多いので、寒さに震えている間も無く、春がやって来る。


 葵は彼等と出会ってから、冬が異様に短く感じていた。年末年始の連休は異常者も暇なのか活発になる。それが春を迎えると、蕾が花開くようにおぞましい事件となって表出するのだ。


 有給休暇とは虹のたもとと同じで、見えるけれど、触れられないものだ。葵に休暇なんてものは無く、家にいても呼び出されるので、大抵は本部に在留していた。


 湊と航はエレメンタリースクールの二年生に当たる年齢だったが、飛び級して四年生になった。その優秀な頭脳や身体能力を評価した学校側は更なる進級を提案したらしいが、湊と航が断ったそうだ。


 両親は飛び級という制度に消極的で、子供時代が短くなるのは彼等にとって不利益だと考えているらしかった。とは言え、この国の教育制度では学力が及ばなければ留年も有り得る。湊と航にとっては閉鎖的な母国の教育制度よりは適した環境と言える。


 彼等が進級した年、何の前触れも無くBAUの本部にやって来た。事前の連絡も無かったので、門前払いされ掛けていたところを葵が見付けたのは偶然だった。


 子供の成長は驚く程に早い。数ヶ月会っていなかっただけで、二人は見目麗しい少年になっていた。二卵性の双子は幼さを残しながらも、それぞれ異なる成長を果たした。

 葵がいつも思うのは、湊と航は、子犬と子猫に似ているということだった。


 航は、猫のようなアーモンド型の瞳を怒りに燃やしていた。感性が豊かなのだろうが、いつも彼は何かに腹を立てているように思う。


 そんな航に引き摺られるようにして、湊が悲しげに顔を曇らせている。珍しい光景だ。しかし、見ると湊の滑らかな頬は赤く腫れていた。二人で喧嘩でもしたのかと思ったが、どうやら違うらしい。


 流石に本部へ連れて行く訳にも行かず、葵は二人を近くのカフェテリアへ誘った。


 湊の頬に湿布を貼ってやり、こっそりと奈々に連絡を入れた。すぐに迎えに行くと返事があった。一先ひとまず安心して、葵は何があったのかを問い掛けた。この二人が誰かを頼るのは珍しいことだ。


 ふくれっつらの航はオレンジジュースを啜り、この世の不条理を嘆くみたいに叫んだ。




「こいつ、殴られてもやり返さないんだ!」




 事情が分からない葵は、詳細な説明を求めて湊を見た。

 しかし、湊は意気消沈したように目を伏せていた。


 テーブルを叩いて怒りを示す航の話を辛抱強く聞くと、どうやら、湊は周囲のやっかみを受けて殴られたらしい。相手は同級生だが年上で、複数だった。湊が殴られたところに航が駆け付けて、返り討ちにした。そして、航はやり返さない湊に腹を立てているらしかった。


 何というか、彼等らしくて、葵は微笑ましくなる。

 思えば以前、彼等が乱闘した時も真っ先に立ち向かったのは航だった。


 どちらかと言えば、とがめられるべきは航だった。しかし、彼の性格や気持ちを考えると安易に否定も出来ない。


 困り切ったように唇を噛んでいた湊が、そっと言った。




「だって、殴られたら、痛いよ」




 それを聞いた時、幸福感に胸が温かくなった。

 他人の嘘が分かるという子供に不釣り合いな能力を持ちながら、相手の気持ちをおもんばかることが出来る。他人の痛みが分かる優しい子だ。和輝の軌道修正は成功したと言える。


 しかし、その優しさは航にとっては理解出来ないものなのだ。だから、苛立つ。




「臆病者!」

「臆病者でも良い!」




 双子でも、此処まで違うのか。

 葵は目の前で言い争う二人に感心してしまった。


 うじより育ちと言うが、彼等は同じ環境で育ったにも関わらず、異なる価値観を持っている。それは生まれ持ったもので、変えることは出来ない。


 彼等の母親である奈々は、湊を庇うことが多い。航はそれが気に食わず、反発する。しかし、実際に聞いていると、湊を庇いたくなるのも分かる。此処で葵が庇えば、航は二度と相談しようとはしないだろう。


 航は強情だ。一度でもその手を掴み損なえば、二度と手を伸ばさないような危うさがある。


 結局、葵は奈々が到着するまで二人の喧嘩を宥めていた。


 湊は心根の優しい少年だった。自己犠牲的な平和主義者で、聖人君子みたいな性格の癖に、何処か抜けている。高い学力の割に好い加減で、大抵のことは受け流せる度量の大きさがある。貧乏籤びんぼうくじを引き易いようで、昔とは逆に航が世話を焼くことが多いらしい。


 和輝に似ている。

 これは、航が苛立つのも分かる。


 そんな湊だが、酷い喧嘩をしたことがある。

 相手は二人の所属するバスケットボールチームのキャプテンで、体格も歳もずっと上の少年だった。努力する航をあざける物言いにかちんと来て、気付くと殴り掛かっていたらしい。


 そういう意味の分からない融通ゆうずうの利かなさが、ますます和輝に似ている。普段の物静かな態度が幸いして注意を受ける程度で済んだが、その衝動的な性格は最早、爆弾みたいだ。


 流石に、航もこの一件には閉口していた。しかし、兄弟喧嘩では流血沙汰もざらで、奈々の手に負えないと葵が駆り出された。


 湊は正義感が強く、正しいこととそうでないことの基準を求めているらしかった。その為に様々な本を読み、教師に教えを乞うが、求める答えは返って来ない。曖昧なことには歯痒さを感じるようで、時々、自分でも制御出来ない衝動に駆られるのだと言った。


 そういう時は目を閉じて深呼吸をする。目を開けると、周りがモノクロの世界になり、物事がコマ送りになるらしい。それが会話の中で起こると、タイムスキップみたいに話題がずれてしまう。湊は自分の言葉がどうして相手に伝わらないのかいつも不思議で、腹立たしいらしい。


 みんなは一階のリビングで話しているのに、自分は別の階層でそれを画面越しに見ている。湊はそう言った。航とは違った意味で、生き難い少年だった。




「何が正解で間違っているのか、答えはないのかも知れない。でも、俺は自分が正しいと思えることをしたいんだ」




 航と殴り合いの喧嘩をして、頬を腫らした湊がそう言った。まるで、昔の自分と和輝を見ているようだ。青臭い正義感と理屈っぽいところがそっくりだ。


 和輝が母国を離れた理由が何となく分かる。信じるものが何も無くて、独りぼっちだった頃の自分と彼等を重ね見た。自分もこのくらいの頃に、和輝や湊、航に出会えていたら、違った時間が過ごせたのかも知れない。


 多様な価値観の中で自己を確立して行くのは、大海原にコンパスも持たずにいかだぎ出すようなものだ。けれど、葵は彼等の成長が楽しみだし、見守って行きたいと思っていた。

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