⑵ウンディーネ

 大量のナチュラルウォーターが浴槽よくそうに溜められている。

 空になったペットボトルが山積みされる様を、葵は冷ややかに見ていた。


 昴はロキの言うことを信じて、馬鹿正直に水を張っている。そのロキは何を考えているのか分からない顔で腕を組み、手伝おうとしない。側から見ていると、馬鹿みたいだ。


 彼等が何処まで本気なのか解らないが、これで和輝が何でもない顔をして目覚めたら、葵は二人を横一列に並ばせて銃殺するかもしれない。自分をこんな茶番に巻き込んだ罰だ。


 浴槽がナチュラルウォーターで満たされると、重労働を果たしたみたいに昴が息を吐いた。

 葵が買って来た訳ではないけれど、勿体無いなと思った。


 其処で漸くロキが歩み出て、満たされた浴槽の前に立った。此処で妙な呪文詠唱が始まったら、葵の頭はストレスで爆発すると思った。


 ロキは掌を翳した。

 展開された真っ赤な魔法陣が、風車のようにくるくると回転する。刻まれたルーン文字は残念ながら解読不能だ。


 彼等の作り出す魔法陣は数学なのだ。魔法陣が記号の役割を果たしている。それがどのような原理なのかは文字が解読出来れば或る程度は理解出来そうだが、葵は興味が無かった。


 魔法陣が水面に映り、小さな気泡が浮かび上がる。それは少しずつ大きさを増し、音を立てて弾けて行く。


 透明な水の中に、何かがいる。


 目には見えない。

 思わず葵は昴と並んで身を乗り出していた。

 おびただしい程の気泡が湧き上がっては割れて行く。それは縦に押し出される水流のように伸び上がり、ついには一人の女の姿となった。


 陶器のような白い肌と、腰まで伸びたあでやかな黒髪。長い睫毛まつげに彩られた瞳はラピスラズリのようにきらめき、唇は血を吸ったかのように紅い。


 美女と呼ぶのなら、これ以上の女はいないだろう。

 その完成された美しい容姿は、何処か突き放すような冷たさと刺々とげとげしさを持っていた。例えるならば、それは毒蝶。触れる者全てに死を与える、この世ならざる者の威圧感を放っていた。


 水の中から現れたにも関わらず、薄手の白いワンピースはからりと乾いている。透き通るような白い肌は血の気を感じさせず、一目見ただけでそれが人間ではないと分かった。


 葵は言葉を失っていた。

 元来、人の顔の造作にはうとかった。それが生理的に受け付けない程に崩れているものは別として、美醜には頓着とんちゃくしたことが無い。


 醜いと思うことや、嫌いだと思うことはある。しかし、女性に対して本当に美しいと思ったのは、生まれて初めてだった。


 ――とは言え、葵は異性への興味がほとんど無かった。性的不能というよりも、過去のトラウマが原因で、気の強そうな女を見ると興奮よりもえるのだ。


 ぽーっと見惚みほれている昴を無視して、葵は問い掛けた。




「ウンディーネか?」




 女は、ラピスラズリの瞳で葵を見遣ると、口元に微かな嘲笑ちょうしょうを浮かべた。




「人間よ、私は美しいか?」




 口裂け女かよ。

 葵は苦々しく吐き捨てた。嫌いなタイプだ。




「うちのヒーローの方が綺麗な顔をしてるよ」




 謎の対抗心で葵が言い返すと、ウンディーネは分かり易く顔を不機嫌に歪ませた。ロキが噴き出すようにして笑った。


 じとりとめ付けるウンディーネに、ロキが降参を示すように手を上げて笑う。神秘的な登場とは打って変わって、喜劇みたいな軽快さだ。葵は肩透かしを食らったような心地になったが、此処が風呂場であることを思い出して、虚しくなった。


 ウンディーネは、濡れたように流れ落ちる黒髪を払って、高飛車たかびしゃに言った。




「何の用なの?」

「お前の力を貸して欲しいんだ」




 ロキはその目を愉悦に歪ませながら答えた。

 ウンディーネは、ロキと昴、そして葵を順に見遣ってから、はっきりと言った。




「いやよ」

「なんで」

「気分じゃないの。魔法なら貴方が使えばいいでしょう、サラマンダー」




 サラマンダーとは、ロキの本当の名前だ。

 ロキは飄々ひょうひょうとした態度を崩すこと無く、笑いながら言う。




「助けてやりたい人間がいるんだが、人体操作は俺の分野じゃない」

「どうして私が人間なんかの為に魔法を使わなければならないと言うの?」




 ロキは腕を組んで、天井を眺めた。

 そして、何かをひらめいたとばかりに口を開く。




「その人間っていうのが、さっきそいつが言ってたヒーローなんだよ」




 葵は女心が分からない。だが、ロキの言葉はデリカシーが無いと思う。

 エレメントと呼ばれる概念そのものに人格があるのかはよく分からないが、このままでは童話の白雪姫のように、和輝は殺されてしまうのではないかと思った。


 ウンディーネは、いささか不満げに目を細めて、その人間のところへ案内しろと命令した。従う義理も無いが、目的を達成する為には仕方が無い。

 葵はきびすを返し、風呂場を出た。




「殺すなよ?」

「どうかしら」

「お前が殺すくらいなら、俺があいつを殺す」




 浴槽から抜け出したウンディーネの衣服は乾き切っている。彼女は水の化身なのだ。話には聞いていたが、目の前にしても理解出来ない。


 ウンディーネは意地の悪そうな笑みを浮かべた。




「熱烈ね。どんな美女なのか、見定めてあげる」

「男だけど」

「男?!」




 大声を張り上げたウンディーネが、驚いたように両目を釣り上げる。アーモンドの形をしたその目は驚愕と憤怒が滲む。




「貴方、この私と人間の男を比べて言っていたの?!」

「お前が聞かなかっただけだろ」




 葵は面倒になって、後ろできゃんきゃん騒ぐウンディーネを無視した。

 気の強い女も、うるさい女も嫌いだ。


 和輝の自室を開けると、ベッドの上には先程と変わらずヒーローが苦悶くもんの表情を浮かべたまま横たわっていた。葵は側に置いていた洗面器でタオルをしぼり、ひたいに浮かぶ汗を拭いてやる。


 目を覚ます気配は無い。普段は仕事に忙殺されているのだから、幾らでも寝かせてやりたいと思う気持ちはある。しかし、もだえ苦しむ友人の顔を見たくはない。




「憎たらしい程、綺麗な顔をしているわね」




 ウンディーネは音も無くベッドの側まで歩み寄ると、和輝の顔を覗き込んだ。そして、掌を翳し、青い魔法陣を広げた。

 淡い水色の光が降り注ぐ。すると、苦悶に呻いていた和輝の呼吸が幾らか落ち着いたようだった。




「確かに、これはサラマンダーには向いていないわ」




 ウンディーネが言うと、ロキはそうだろうと言うように力強く頷いた。

 黒髪をひるがえして、ウンディーネは葵を見た。




「これは魔法と言うよりも、呪いよ」

「呪い? なんで、和輝が」




 こいつは馬鹿だが、人に恨まれる人間ではない。

 ウンディーネは言った。




「誰か強力な魔法使いが、夢に閉じ込めたの」

「どんな夢なんだ」

「それは此処からじゃ分からないけど……、彼の表情を見る限り、良い夢ではないでしょうね」




 葵は舌打ちをした。

 目の前にいるのに、何も出来ない。

 葵は衝動のまま、壁に拳を叩き付けた。騒音に昴が顔を覗かせるが、無視した。


 後からやって来たロキはウンディーネと和輝を交互に見て、言った。




「こいつの夢の中に入ることは出来ないか?」

「出来るけど、それは敵の術中に入るってことよ? 入った者も悪夢を見ることになる」

「だとさ。どうする?」




 ロキは他人事と割り切って問い掛ける。

 答えは一つしかなかった。




「俺がやる」




 挙手しようとした昴をさえぎって、葵が言った。ウンディーネが冷ややかな視線を送った。




「貴方、ただの人間でしょう。何が出来ると言うの」

「やってみないと分からない。それに、夕飯がまだなんだ。早く目を覚まして貰わないと困る」




 昼食は手抜きだったから、夕飯には期待していたのだ。

 葵があっさりと言うと、ウンディーネは呆れたように肩を落とした。




「――いいわ。人間に何が出来るかなんてたかが知れてるけど、見ていてあげる」




 他に行く人は?

 ウンディーネが問い掛けると昴が挙手をする。しかし、葵はそれを却下した。

 昴は一応、魔法使いだ。だが、その力は犠牲無くしては使えない。正直、足手纏あしでまといだ。ロキには端から期待していない。

 ウンディーネは深々と溜息を吐いた。




「私が行くわ」

「お前が行ったら、ゲートは誰が維持するんだ?」




 ロキが問い掛ける。

 どうやら、和輝の悪夢の中へ行くにはゲートをくぐる必要があり、出て来る為にも維持しておかなければならないらしかった。

 確かに、ウンディーネがこの場から離れるということは、出口を失くすことになる。


 すると、ウンディーネは笑いながら言った。




「ゲートの維持くらいなら、サラマンダーにも出来るでしょ。私は見たいのよ。私よりも綺麗だと言うこの男の見る悪夢ってものを」




 言い出したら聞かない――。

 そういう頑固なところは、嫌いではない。葵はそっと笑った。




「何をしたら良いんだ?」

「そうね。まずは、彼の悪夢の原因を知る事ね。それから、彼の心を縛るくさりを解き放つ必要があるわ」

「鎖って何のことだ」

「きっと、行けば分かるわ」




 そう言って、ウンディーネの翳した魔法陣は回転を始めた。何かのルーン文字が白く発光する。




「準備は良い?」

「もちろん」




 馬鹿の癖に、面倒なことにばかり首を突っ込みやがって。目を覚ましたら、夕食にデザートのチーズケーキも焼かせてやろう。

 葵はそんなことを考えていた。


 その時、魔法陣は目が眩むような強烈な光を放った。それは見る見る内に全てを白く染め上げて行った。







 5.オルフェウスの竪琴

 ⑵ウンディーネ








 葵が気付いた時、其処は一筋の光も差さない闇の中であった。人工的な冷たい風が何処からか吹き付け、肌寒いくらいだ。

 体は宙を浮いていた。ウンディーネは隣に並ぶと、前方を指差した。


 闇の中で、その一部だけが仄かに発光している。

 葵は導かれるように足を進めた。


 微かに感じる血の臭い、金属音。――そして。


 ががががががががが ががががががががが

 ががががががががが ががががががががが

 ががががががががが ががががががががが


 耳を塞ぎたくなるような音がとどろいた。それはまるで、骨を削り取っているかのようなおぞましい音だった。

 反射的に葵が耳を塞ごうとした時、聞き覚えのある声の悲鳴が聞こえた。


 葵は弾かれたように駆け出していた。

 辺りは闇に包まれている。けれど、音の中心地ばかりが仄明るい。其処は、――手術室だった。


 葵は、これを知っている。

 和輝が記憶を失くす程に追い込まれた拷問だ。

 拷問を受けているのが和輝ならば、下手人は間違いなく。




翡翠ひすい




 葵はぽつりと零した。

 知的好奇心を満たす為なら人を殺すこともいとわない猟奇的な殺人鬼。他者への共感能力は無く、人間を実験動物と同様に扱う。


 和輝は翡翠に拉致され、拷問を受けた。それは人格を破壊する為の拷問であったという。


 見れば、和輝の爪は全てがされ、針が突き刺さっている。何かの液体を掛けられたのか皮膚は焼きただれ、皮がべろべろとめくれ上がっていた。


 指の骨は折られ、辺りには吐き気を催す程の血液が溢れ、施術する翡翠も返り血で真っ赤に染まっている。


 けれど、その緑柱玉の瞳は爛々らんらんと輝き、格調高いオーケストラの演奏でも聞くかのように、うっとりと和輝の悲鳴に耳を傾けていた。


 沸々と、胸の内に黒い感情が湧き上がる。

 翡翠は、この場で和輝が死んでも構わなかった。


 ふざけんなよ。

 葵は握り締めた拳を振り翳した。だが、それは敢え無くウンディーネによって阻まれた。




「忘れたの? 此処は夢の世界。過去なのよ」

「そんなことは、分かってる!」




 和輝の悲鳴が、嗚咽おえつが、助けを求める声が。

 これが夢だとしても、何もせずにはいられない。




「人間は、残酷なことをするのね」




 エレメントらしかぬ、労りと同情に満ちた声だった。

 あれは、人間じゃない。化物だ。葵は堪らず言い返した。


 だが、もしも、これが過去ならば、助けの手は現れる。




「和輝! 此処にいるのか!」




 あの日、心神喪失状態にあった葵の代わりに、助けに来たのは霖雨だった。

 不甲斐なさ、遣る瀬無さ、虚しさ。この胸に染みる苦味をどのように表現したら良いのか、分からない。


 メスを置いた翡翠が、和輝の拘束を外す。そして、意識の無い和輝を引き摺るようにして、手術室の扉まで歩いて行った。


 其処で場面は移り変わる。

 木の葉が木枯らしに舞い上がるようにして、目の前から手術室が掻き消されて行く。和輝の意識が途絶えたから、記憶が無いのだ。


 葵はその場に座り込み、酷い疲労感に溜息を吐いた。

 和輝の身に何が起きていたのか、概要は知っていた。だが、事実はより凄惨を極めていた。あの和輝が記憶を消したいと願う程に。


 ウンディーネは一頻ひとしきり見終えると、切り替えるようにして言った。




「これはあの子の抑圧されて来た過去の記憶よ。彼を縛る鎖ではないわ」




 さあ、行きましょう。

 ウンディーネはそう言って歩き出す。葵はその後を追う為に、かちかちに固まってしまった足を無理矢理動かした。

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