⑶葵と和輝

 昴は歩いていた。


 ロキが帰宅してから、葵と和輝は何事も無かったかのようにそれぞれの作業に戻った。手持ち無沙汰ぶさただった昴は家の中でぼんやりしているのも気が引けて、界隈を散歩することにした。


 現在、昴は和輝の家に居候いそうろうしている。収容されていた精神病棟が焼け落ちてから、昴は存在を忘れられてしまったらしく、居場所が無かった。事情を聞いた和輝が見兼ねて、自宅へ招いてくれたのだ。葵ばかりが苦い顔をしていたが、和輝は快く受け入れて世話をしてくれている。


 多分、和輝は担当医だったから放って置けなかったのだと思う。本来ならば他の精神病棟へ収容されるべきだが、事情を考慮してくれたのだろう。もちろん、今の和輝には何の責任も無い。


 そう、彼には何の責任も、落ち度も無かった。

 それでも、昴の事情も他人の嘆きも全て背負い込んで、今も苦しんでいる。昴の前ではおくびにも出さないが、葵が周囲を警戒している様を見るに、相当落ち込んでいるのだろう。


 自分に何が出来るのだろう。

 あの場所にとどまれば、和輝や葵が巻き込まれる。だからと言って姿を消せば、追い込まれるのは御人好しの和輝だ。それに、逃げたところでその場凌ばしのぎでしかなく、今度は逃走先が危険にさらされる。


 誰も傷付けたくないし、巻き込みたくない。けれど、今の自分には何も出来ない。


 ならばせめて、自分に出来ることを一つでも見付けようと思った。王の器に宿るという理解不能の魔法を制御する方法を考えなければならない。彼等を巻き込まないことが不可能ならば、彼等を守れるだけの力が欲しい。


 昴は答えの無い思考と同じように、只管ひたすらぐるぐると歩き回った。初夏の日差しが容赦無く降り注ぎ、頭頂部から焼け焦げてしまいそうだった。


 界隈に詳しくない昴は、和輝の自宅を中心に円を描くように歩き回っていた。首都圏とは異なり、大きな建物も無い。住居が点在するばかりで、その殆どは鬱蒼うっそうとした森であった。住民が使用する道路も整備されているとは言いがたく、獣道けものみちに近い。


 遠くまで行ってしまうと戻れなくなる。昴がきびすを返そうとした時、目の前から畑道具を担いだ男たちが歩いて来た。


 男たちは昴には目もくれず、すぐ横の脇道に入った。興味本位で覗いて見ると、彼等は何かを取り囲んで話し合っているようだった。


 会話は聞こえず、昴は茂みの影からそっと覗き込んだ。円筒形に積まれた煉瓦れんがの上に、古びたトタンと重石おもしが幾つか乗せられていた。


 井戸だ。

 昴は井戸というものをメディア機器でしか見たことが無かった。初めて見るそれに興味や興奮は無く、ただただ、不気味に思った。


 どうやら、彼等はその井戸を取り壊したいらしかった。だが、井戸を壊すには費用も掛かる。加えて、寂れてはいるが由緒ゆいしょある古井戸である為に中々手が出せない。


 しかし、このまま放って置けば、誤って子供が転落するかも知れない。調べたところによると、この井戸は既に水が枯れているが、その奥は測定が出来ない程に深く、迷路のように入り組んでいるらしい。


 安易に埋め立てを行えば地盤沈下を起こす可能性がある為、立入禁止にして、少しでも人を遠ざけるしかないのだそうだ。


 昴には想像も出来ない。

 井戸というのは水を入れ汲み上げる為の地下穴だ。水が枯れてしまったあとにどうなるのかなんて分からない。


 黙って盗み聞きしていると、くわを担いだ壮年の男が冗談交じりに言った。




「迷路といえば、その奥には財宝があるのが定番だ」




 財宝。

 昴はその単語に立ち去ることが出来なくなった。脳裏に過ったのは、ロキの言葉だった。

 魔法を制御するレアアイテム――。




「そんな、御伽噺おとぎばなし!」




 男たちは笑っていた。

 兎も角、此処は危険だから立入禁止にしよう。明日にでも役所に相談しようじゃないか。そんな結論を出して、彼等は他愛の無い話をしながら立ち去った。


 昴は、誰もいなくなった古井戸を見詰めていた。










 3.ヒーローと魔法使い

 ⑶葵と和輝










 家に戻った昴は、リビングの無人を確かめた。

 葵と和輝はそれぞれ自室にこもっているのか、顔も覗かせなかった。時刻は午後四時。そろそろ和輝が夕飯の支度を始める筈だ。


 昴はリビングに置かれたアウトドアのリュックを引っ掴んだ。和輝は多趣味で、サーフィンやバスケットボール、登山にもっている。リュックの中には登山に使うだろう用具が幾つか入れたままになっていた。


 携帯用のランプ、レインウェア、方位磁針、ロープ、十徳じっとくナイフ等、使い方のよく分からないものが几帳面きちょうめんに押し込められている。


 姿の見えない和輝に胸の内で謝罪し、昴はリュックを黙って持ち出した。

 玄関で履く靴は、葵から貰った運動靴だ。和輝の靴は小さくて履けなかったのだ。


 昴は辺りに人気ひとけが無いことを確認して、先程の古井戸の元へ戻った。日は傾き、外灯の少ない町は既に暗くなっている。昴はリュックから懐中電灯を取り出してポケットへ押し込み、近くの木の根元にロープを結んだ。


 やけに硬くて重いロープだが、丈夫そうだ。これなら、途中で切れるということも無いだろう。昴はロープの先を井戸の中へ放り込んだ。


 その先端が地面に当たる音がした。懐中電灯で内部を照らすが、もやが掛かったように底は見えない。まるで、化物の口の中へ自ら飛び込むような心地だった。


 嫌な汗が背中を伝う。だが、その不安を打ち消したのは、ヒーローの裏表の無い明るい笑顔だった。

 身を挺して自分を救ってくれた彼の為なら、何だってやれると思った。わらにもすがるような思いで、昴は井戸の中へ足を踏み入れた。


 ロープを握る手は汗ばみ、壁に向けた運動靴も滑る。少しずつ降下するつもりが、昴は自重を支え切れず、ほとんど一直線に落下してしまった。


 底に到着すると同時に尻餅を突き、昴は痛みにうめいた。しびれるような痛みを感じて掌を見ると、皮膚が擦り切れて出血していた。


 手当の仕方も知らず、懐中電灯を取り出そうとしても力が入らない。リュックに何か入っていないかとあさって見ると、軍手とゴム製のグローブが出て来た。


 確認すれば良かった。救急セットが入っていたので、見様見真似みようみまねで両手に包帯を巻き、軍手を着けた。痛みはあるが、先程よりは幾らかマシだった。


 兎に角、進もう。

 昴は懐中電灯で辺りを照らした。しかし、僅かな光源ではその全体像はまるで掴めず、どちらへ進めば良いのかすら分からない。


 出だしから失敗だ。

 一度戻るべきなのかも知れない。だが、こんなことを彼等に知られたら、止められるだろう。昴はリュックから携帯用のランプを取り出した。


 すると、先程まで闇に包まれていた辺りは薄明かりに照らされた。


 四方は剥き出しの岩壁で、一本道である。水は枯れているが、酷い湿気で息苦しい。昴は足を踏み出した。


 一本道は途中、何度か曲がり、下っているようだった。何処かで落ちる水滴の音が不気味に木霊こだまし、時折、蝙蝠こうもりらしき生き物の羽ばたきが聞こえた。


 歩いている内にひざが重くなって行った。それが疲労感であると知らなかった昴は、怪我をしてしまったのか、それとも何処かで魔法使いが妨害しているのかと恐ろしくなった。


 昴が此処にいることは、誰も知らない。もしも、昴が此処から出られなくなっても、誰も助けに来ない。このまま自分は死ぬまで此処を彷徨さまようのかも知れない。


 不安が次第に大きくなって行って、身体中が鉛のように重くなる。時計を持って来ていなかったので、まるで途方も無く長い時間を過ごしているように感じられた。


 自分にむち打ってどうにか前進を続ける昴の前で、道は突然、二つに分かれた。


 どちらに進むべきなのか解らない。この先に何があるかも分からない。当てずっぽうで進んで、行き止まりならば引き返そうか。そんなことを考えながら、昴は何と無く左の道へ足を踏み出した。


 その時だった。




「そっちは駄目だ」




 突然、背後から声を掛けられ、昴は悲鳴を上げそうになった。

 恐る恐る振り返ると、闇の中で靄が僅かに揺れているのが見えた。昴は目を凝らす。そして、其処にいた人物に、今度こそ声を上げて驚いた。




「葵!」




 葵は大声を出されたことに対してか、呼び捨てにされたことに対してか、眉根を寄せて不満げに口を尖らせる。


 敬称を付けて呼び直そうかと考えている間に、葵は足音も無く昴の前に出て、ポケットからマッチを取り出して灯した。


 左の道から流れて来る風に炎が揺れる。しかし、炎は突然、青色に変わり、奇妙にくすぶると消えてしまった。


 葵はそれを興味深そうに眺め、今度は右の道にかざす。マッチの火は消えず、穏やかに揺れていた。


 昴は何が起きているのか分からず、葵の背中を見詰めることしか出来なかった。


 葵はマッチが燃え尽きるのを待ち、振り返った。




「地下空間では、有毒なガスが出ている場合があるんだ。それは無臭であることも多い。このまま進んでいたら、お前は死んでいたぞ」




 感情のない淡々とした声だった。

 葵はただ、事実を口にしただけなのだろう。昴は彼の言葉にぞっとして、今更自分が如何いかに無謀なことをしているのかと恐ろしくなった。


 葵は、真っ青になった昴を冷ややかに見遣り、冷静に問い掛けた。




「お前はこんなところで何してるの?」

「そっちこそ、」




 彼の名を呼び掛けて、何と呼ぶべきか迷った。

 神木さん?

 葵さん?

 昴が躊躇ためらっていると、葵は素っ気なく「葵でいい」と言った。




「お前の実年齢が幾つか知らないが、無知のまま興味だけで探検なんてするもんじゃない。死にたいのか」

「死にたい訳じゃない」

「じゃあ、何をしてるんだよ」




 昴は答えに迷った。嘘を吐いても隠しても、意味は無さそうだった。昴は正直に、理由を話した。


 葵は呆れたようだった。




「そんな御伽噺おとぎばなしみたいな話を信じたのか。それは冗談だろ」

「そんなことは分かってるよ。でも、じっとしていられなかったんだ」




 葵は片眉を上げたが、昴は頭の中でぐるぐると考え続けたことを思い切って打ち明けた。




「僕は――、蜂谷先生を、二度も巻き込んで死なせ掛けたんだ。もう、あんな思いはしたくない!」

「だからと言って、何の根拠も無い与太話よたばなしに乗る神経が分からない」




 葵は冷静そのものみたいな顔で言った。

 多分、彼の中で自分の評価は地より低いのだろう。言われてみると、確かに自分の行為は衝動的で、浅慮せんりょだ。


 後悔の念が沸々ふつふつと込み上げて来て、穴があったら入りたいと思った。


 葵は溜息を一つ零した。其処からどんな叱責の言葉が出て来ても、受け入れようと思った。けれど、葵は想像とは違う言葉を口にした。




「仕方がないから、お前が満足するまで、付き合ってやるよ」

「え?」

「放って置いて死なれたら、俺の寝覚めが悪くなる。それに、あいつをこれ以上巻き込みたくない」




 葵の指すあいつと言うのが、和輝のことであることは分かった。


 そういえば、葵と和輝はどういう関係なのだろう。葵は何かのやまいを患っていて、和輝はその担当医らしい。だが、彼等はそれだけの関係ではないように思う。


 昴の興味とは裏腹に、葵はそれ以上を語る気は無いらしかった。


 行くぞ、と言い置いて、迷いの無い足取りで進む。よくよく見ると葵は普段着のまま、懐中電灯一つ持っていなかった。慌てて追い掛けて来てくれたのかも知れない。無謀と言うのなら、葵だって余程だ。


 昴は懐中電灯を手渡した。すると、葵は黙って受け取り、代わりに携帯用のランプを消すように言った。燃料を温存したいらしい。昴もその言葉に従った。


 闇の中、葵は振り返らずに、迷いの無い足取りで進んで行く。まるで、行き先が分かっているみたいだった。方位磁針を渡そうとしたら、背負っていたリュックを奪われた。途端に背中がすっと軽くなる。


 彼はぶっきら棒で無愛想だが、悪い人間ではないのだろうと思う。


 先を行く葵は終始沈黙を守っていた。

 昴は何と無く、その背中に問い掛けた。




「葵と蜂谷先生は、どういう関係なの?」

「その蜂谷先生って言うの、止めろ。似合わないから」




 他に何と呼んだら良いのか分からないと言えば、ぶっきら棒に「和輝と呼べ」と言われた。本人の許可も取らず、良いのだろうか。

 だが、本人のいないこの場所なら、構わないだろう。

 昴は素直に従った。


 葵は考えるようにして少し黙り、答えた。




「俺はサイコパスと診断されていたんだ」

「サイコパスって何?」

「他者への共感能力や罪悪感が無い、社会にける捕食者。生まれ付いての犯罪者だよ」

「なんで」

「知らねーよ。俺は専門家じゃないからな」




 そう言って、葵は足元の小石を蹴った。

 小石は弾かれたように闇の中を転がって、何処か遠くに落ちて行った。


 少しの静寂のあと、葵が言った。




「俺は母国で、そういうレッテルを貼られた。こいつは野放しにして置いたら、犯罪を起こすって」

「酷い」

「当然のことだ。危険があると分かっている人間を放って置く方が問題だ」

「本当に危険があったの? 葵が何かをしたの?」




 葵は少し黙って、機械のように淡々と言った。




「人を殺した」




 昴は息を呑んだ。

 背中を向けた葵の表情は見えない。だが、笑っている筈も無かった。




「一人や二人じゃない。必要に迫られて殺した相手もいるが、そうじゃない相手もいた」

「なんで」

「分かんねーよ。その頃は、殺さなきゃいけないって、思ってたんだ」

「誰を」

「凶器を持った人間を見ると、殺さなきゃいけないと思っていたんだ。どうして人を殺したらいけないのか、分からなかったからな。正直、今も分からない」




 それが恐ろしいとは、思わなかった。

 昴も、同じだったからだ。


 どうして人を殺してはいけないの。

 和輝に問うたこともある。彼がどんなに必死になって説明しても、言葉は掌から砂が零れ落ちるみたいに、消えてしまった。昴に理解出来たのは、一つだけだった。


 俺が嫌だから、駄目なんだ。

 和輝はしぼり出すような声で言った。その時、彼がどんな顔をしていたのか分からない。その頃の昴にとっては、和輝はころころ代わる担当医の一人でしかなかった。ただの他人だった。




「母国でサイコパスの診断が下されて、俺は精神病棟とは名ばかりの隔離施設に収容されることになった。だけど、俺は全部に嫌気が差して、逃げるように海を渡った。その頃に和輝に出会ったんだ」




 辺りは静かだった。まるで、暗闇さえも葵の話に耳を傾けているかのようだ。




「お節介でお人好しだろ、あいつ。俺の事情なんてお構いなしに手を引いて、どんなに突き離しても、明るいところに連れて行こうとするんだ。俺も段々面倒臭くなって、絆されちまったんだ。……そんな頃、或る異常者が俺を狙って事件を起こした。本当に散々な目に遭ったが、一番被害を受けたのは、和輝だった」




 葵の声は、暗かった。このまま闇の中に沈んでしまいそうな程に。




「和輝は拉致されて、拷問を受けた。人格を破壊する為の拷問だったらしいが、詳しいことは分からない。その後遺症で、俺と関わる一年間の記憶を失くした」




 人格を破壊する拷問というものが、どんなものか分からない。だが、きっとそれは、昴には想像も出来ないくらい凄惨で、残酷なものだった筈だ。あの和輝が、記憶を失くしてしまう程に。




「俺はその事件がきっかけで母国の警察に見付かって、強制送還された。なるべくしてなった結果だ。当然の報いだった。そうして隔離施設に収容されて何年か過ぎた頃、和輝がやって来たんだ」

「なんで? 記憶が戻ったの?」




 葵は首を振った。




「記憶は戻っていなかった。だが、和輝は出会った頃と同じように手を伸ばして、俺を隔離施設から引っ張り出した。その時に、言ったんだ」

「なんて?」

「俺はサイコパスではなく、PTSD ――心的外傷後ストレス障害だって」




 昴の知らない言葉だった。だが、和輝は、社会から貼られたレッテルを剥がし、葵の診断をくつがえしたらしい。




「俺の知らないところで色々立ち回ったらしいな」

「すごいね」

「それで、俺は隔離施設から出られることになった。でも、交換条件として、和輝は俺を監視することを義務付けられた。その頃から和輝の勤務地は欧州だったから、俺も監視の名目で引き取られた。それが、二年前」




 以来、和輝は葵の監視をする為に精神科医を続け、葵には自由が与えられたのだろう。


 彼等の関係性が正常なものなのか、昴には分からない。


 誰が悪い。誰を責める。誰を憎む。彼等は社会という逆境の中で、必死にあらがい、生きて来たのだ。それが例えいびつな関係性であろうとも、とがめる権利は誰にもない。だって、誰も葵を救わなかった。


 あの日――。

 俺には、和輝しかいない。

 悲痛な声でそう訴えた葵が思い出されて、息が詰まるように苦しくなった。


 和輝をこれ以上巻き込みたくないと言った葵の言葉が重く伸し掛かる。昴は素直に謝った。




「勝手なことをして、ごめん」

「いいよ、もう」




 そう言って歩調を早めた葵が笑っているような気がして、昴はその背中を追い掛けた。

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