第31話

 師匠との帰り道。学校から駅までの道のり。


「そういえば、君って、私のことを『師匠』って呼ぶよね」


 隣を歩く僕をチラリと見ながら、そんな当たり前のことを口にする師匠。一体何が言いたいのだろうか。


「そうですね。まあ、師匠は師匠ですし」


「……たまには、私のこと、名前で呼んでみない?」


「……へ?」


 師匠の突拍子もないお願いに、思わず間の抜けたような声が出てしまった。


「だめかな?」


「……だめ……じゃないですけど……」


「じゃあ、お願い」


 そう言って、師匠は立ち止まった。つられるように、僕も立ち止まる。向かい合う僕たち。


「えっと……いきますね」


「うん」


 師匠は、いつものような穏やかな表情を浮かべながら僕を見つめる。その目には、『期待』の二文字が浮かんでいるように見えた。


 ただ師匠の名前を呼ぶだけ。分かってはいるのに、口が思うように動いてくれない。僕の心臓が、バクバクとその鼓動を速めている。


「……し……し……し……おん……さん」


 やっとのことで師匠の名前を口にする。おそらく、今の自分の顔は、かつてないほどに真っ赤になっているだろう。


 そんな僕を見て、師匠は、ふふっと笑みをこぼした。


「な、何で笑うんですか?」


「ごめんね。君が、あまりにも照れてるから」


「そ、そりゃ、照れますよ。今まで、ずっと『師匠』って呼んできたんですから」


 もし、僕が、師匠のことを名前で呼び続けていたのなら、名前を呼ぶことに恥ずかしさを覚えることはなかっただろう。急に呼び方を変えるなんて、恥ずかしいことこの上ない。


「……ねえ、もう一回お願い」


「……もうしません」


「……お願い」


「…………」


「…………」


「……分かりました」


 僕、弱いなあ。いや、相手が師匠だからなのかな……。


 キラキラと目を輝かせる師匠。期待度が、先ほど以上に高まっているのを感じた。


「し……し、おん……さん」


「……もう一回」


「しおん……さん」


「……もう一回」


「詩音さん!」


 ハアハアと肩で息をする僕。あまりの恥ずかしさに、心臓が張り裂けてしまいそうだ。


「これは……なかなか……」


 ほんの少し顔を赤く染めながら、師匠はそう呟いた。おそらく、僕ほどではないにしても師匠も恥ずかしがっているのだろう。


「し、師匠、もういいですか?」


 さすがに、これ以上は僕の心臓がもたない。師匠もそろそろ満足したはずだ。


 だが、そんな僕の予想は大はずれだったようだ。


「も、もう一回だけ」


「ええ……」


 その後、僕は、何度も何度も師匠の名前を呼ぶこととなった。いつもは大人びた雰囲気を漂わせている師匠だが、今日の師匠は、子供っぽいという表現がピッタリだった。

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