190.
「おかえり」
机の上には筆箱に電卓、何かの問題集が置かれている。ついさっきまで勉強をしていたようだ。
「ただいま。それ、宿題?」
「うん。簿記の宿題」
パラパラと問題集をめくると見覚えのある単語が目に入る。懐かしいけど、解ける自信は全くない。
「うわぁ……難しい……」
「高校の時、やった?」
「やったけど……もう覚えてないなぁ」
一通り見終わり、彩織に問題集を返した。……うん。こんなに難しいことを勉強している高校生、偉い。
「お風呂行ってくる」
「はぁい」
着替えとバスタオルを片手に脱衣所へと向かう。脱いだ服を洗濯機に突っ込み、そのままお風呂へ。
お湯に浸かりながらぼうっと天井を見上げた。ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。
「……ふぅ」
さっき洗濯機を開けた時、何も感じなかった。前は彩織の服が入っていると変にドギマギしたけど、今日は何も感じなかった。慣れてきたのかな、彩織がいる生活に。
一緒の布団に横になってもすぐに眠れるし、すぐ近くに彩織が座っても大丈夫。居心地は悪くない。
「あつ……」
どれくらいの時間、湯船に浸かっていたのか。頭がぼんやりしてきた。そろそろ出ないと……。
ぼんやりとした頭のままお風呂場を後にする。タオルで頭を拭きながら洋室へと——
「……えっ」
何も考えずに洋室の引き戸を開けると素っ頓狂な彩織の声が聞こえた。
「羚ちゃん、流石にそれは油断しすぎ……。服……」
「……あ」
いつもの癖でTシャツを着ないで部屋に来てしまった。恥ずかしそうに目を伏せた彩織を見てようやく気付いた。この格好は流石に……。
「ごめん、すぐ着るから……え?」
慌てて右手に持っていたTシャツを着ようとしたら、背中に小さな手が触れた。
「え、なに……? どうしたの?」
「…………」
何も答えず彩織はするりと私の腰回りを撫でた。くすぐったい。
「えっと……?」
「もうちょっとだけ」
何がそんなに楽しいのか、彩織は手を止めない。両手で腰を掴んだり、撫でたり。
彩織に触られていると、くすぐったくてなんだか変な気分になっちゃいそうだ。
「……もうTシャツ着てもいい?」
「あ、うん……」
彩織の手が止まるのを待ってから聞いてみると、意外にもすんなりと頷いた。なんだったんだろう……。
「どうしたの、急に。服着ずに出てきた私が悪いけどさ」
「羚ちゃん、腰細すぎ」
今度は手は触れず、じっと私のお腹周りを見つめる。これはこれで恥ずかしい……。
「普通だって」
「いや、普通よりかなり細いって。ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。見てるでしょ?」
最近は朝も夜も、彩織と一緒にご飯を食べることが多い。私がちゃんとご飯を食べているところは見ているはずなんだけど。食べる量も彩織と変わらないはずなのに。
「昼は?」
「昼は……食べない、けど?」
「はぁ……」
彩織から深いため息が漏れた。そんな、大袈裟な……。
「ちゃんと三食食べないと。体壊しちゃうよ」
「大丈夫。朝と夜は食べてるから。それに明日はお弁当持ってくつもりだし……」
「明日だけじゃなくて毎日にしようよ」
まいったな。入社してからずっとお昼は抜くようにしているから、今さらそのスタイルを変えるのは気が進まない。
食べられなくはないけど……うーん……。
「明日は羚ちゃんが作ってくれるんだよね?」
「うん。今日準備した鮭とサラダ。あとは何か適当に詰めるつもり。苦手なものがあったら教えて」
「苦手なものはないから大丈夫」
答えつつ、彩織はキッチンに置かれた二つのお弁当箱に視線を向けた。何かを考えるように逡巡したのち、ポンと手を叩いた。
「お弁当も交互に作ろう!」
「え。いいよ、私のは毎日じゃなくても……」
「嫌。私も羚ちゃんにお弁当作りたいもん」
はっきりと拒否され、これ以上なにも言えなくなってしまった。作りたいと言われてしまっては食べるしかない。
「……朝起きるの大変じゃない?」
「私、結構早起き得意だよ? 今日はちょっと寝坊しちゃったけど」
「彩織が良いなら良いけど……」
明日だけのつもりだったが、どうやらこれからは毎日お弁当生活になるらしい。それを見た双葉さんがニヤける光景が目に浮かぶ。
「じゃあ今日は早く寝よ!」
「わ……!」
私の腕を力強く引き、ベッドへと倒れ込む。そのまま彩織の両手の中にすっぽりと収まった。
ぎゅっと抱き締められながら伸ばした右手で部屋の電気を消す。
「…………」
真っ暗闇の中、うるさいくらいドクドクと鳴る心臓の音。僅かな息遣い。視覚に頼れない分、聴覚だけが研ぎ澄まされていく。
「…………なに?」
だからすぐに分かった。彩織が顔を寄せて何かしようとしていることが。
「いや。昨日の。調べたんだけど」
「昨日の?」
「私もお返ししようと思って」
ゴソゴソと身を寄せ、あと数センチで顔が触れる。それくらいの距離で彩織は甘く囁いた。
「喉元へのキスは相手への強い欲求。私も羚ちゃんを自分だけのものにしたい。じゃあ……するね?」
ちゅ。と音を立て、私の喉元へ吸い付いた。彩織の柔らかな唇が触れ、その感触が脳にまで伝わる。
これで私たちは、お互いがお互いのものになったわけだ——
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