96.

 それから私とかえでさんは何度も逢瀬を交わした。デートもしたし、お泊りもした。恋人らしいことはひと通り経験したと思う。

 金曜日の夜は楓さんの家に泊まる。それが日常で、私たちにとってなくてはならない習慣。付き合い始めて半年を過ぎても違えることは無かった。

 だけど……。

 私と楓さんが一緒に迎える初めての冬、それまで一度も違えることの無かった私たちだけの慣習は破られてしまった。





 今週は予定があるから。お泊りは無しにしよう。


 楓さんはいつも私のために土曜日を丸一日空けていてくれる。それなのに急に会えないなんて。どうしたんだろう……。

 会社が終わり、急いで家に帰った私は頭を抱えた。仕事が忙しいのかな、それとも体調を崩したのかな。

 楓さんは風邪を引くといつもそれを私に隠す。弱っているところは見せたくないらしい。

 もしかしたら今日も体調が悪いのかも。居ても立っても居られず、私はアパートを飛び出した。




「……さむっ」


 部屋の外に出ると、辺りは一面の雪景色。

 傘を差しても、コートを羽織っても身体が凍えてしまう。こんな日だからこそ楓さんに会いたい……。

 かじかむ手をポケットに突っ込み、駅へと急ぐ。水積駅から上大沢駅までは十分程度だ。今から向かえば十九時前にはマンションに着くだろう。


 上大沢駅から徒歩数分。その住宅街の一角に楓さんが住んでいるマンションがある。

 数えきれないほど通った場所だ。

 だけどこうして一人で向かうのは初めてじゃないだろうか。

 楓さんは私を一人にしようとしない。家に行く時は必ずアパートまで迎えに来てくれるから。




「………………え」



 初めて一人で訪れた楓さんのマンション。エントランスに辿り着く前に見てはいけないものを見てしまった。


「だれ……?」


 楓さんと腕を組んで歩く女の人。私より年上、たぶん楓さんよりは年下。

 食い入るように二人を見つめていたら、急に楓さんが振り向いた。

 一瞬、楓さんと目が合ってしまった気がする。慌てて背を向けたから本当に気づかれているかどうかは分からないけど……。

 あの人は誰なんだろう……。それになんで腕を組んで……。

 早くこの場を去ったほうが良い。まるで警鐘が鳴るように、ドクドクと心臓が強く鳴っている。

 結局私は楓さんに声をかけることも、部屋に行くことも出来なかった。






 寒空の下、一人で歩く。誰もいない、静かな道を。

 ポツリポツリと雨が降り始めた。急いで家を飛び出したから傘は持っていない。凍えそうになりながら駅に向かって歩く。

 ああ、寒い。凍えてしまいそうだ。こんなことなら手袋をしてくればよかった。

 手を繋いでくれる人もいない、温めてくれる人もいない。こんな寂しい夜は死んでしまいたくなる。

 どうしようもないくらい、今の私は独りぼっちだ——





れい!」

「楓さん……なんで……」

「何してんの! 風邪引くじゃん!」


 急に隣に車が停まったと思ったら、楓さんに腕を掴まれた。

 顔が見るからに怒っている。私がこうして雨に打たれているのが許せないらしい。


「……傘を持ってなくて」

「困ってるなら連絡してよ! 傘くらい持ってくし!」


 ……どの口が言うんだ。


「……私が雨に打たれても楓さんに関係ないでしょ」

「関係なくないよ。羚が風邪引いたら悲しいよ」


 いつものように楓さんは手を伸ばす。私の頭を撫で、キスをする。いつもの流れ。だけど今日は……!



「……え」

「…………」



 頭に手が触れる瞬間、楓さんの手を振り払った。無言の拒絶。目の前の出来事が信じられない。呆然と楓さんは私を見つめた。


「どう、したの。頭触られるの嫌いだったっけ?」

「……楓さん、私のこと好き?」

「え。なに、今さら。好きだよ?」

「私のことだけ、好き?」

「……ッ……好きだよ?」


 今、一瞬詰まった。楓さん、なにか心当たりがあるんじゃないの?


「……さっきの人、誰?」

「さっきの人?」

「さっき腕組んでた人、誰?」


 そこまで言ってしまえばもう言い訳は出来ない。楓さんはハッとして目を見開いた。


「やっぱり、さっきの人影は——」

「あ、いた! ねー、急に今日は無理とか言われても困るんだけど。もうそういう気分で来てるんだからさぁ…………あれ、取り込み中?」


 背後から駆けてきたその女の人は楓さんの腕にしがみついた。甘えるように、強請るように。無遠慮に胸を押し当てた。


「さっきの人……」

「誰? この子。楓の知り合い?」


 私とさっきの女の人、二人を困ったように見比べながら深いため息をついた。


「カナ。今日は無理ってさっき言ったじゃん」

「無理やり今日会いたいって言ったのは私だけどさぁ。家の前まで来たのに追い返すのはあんまりだよ」

「私のプライベートに──」

「セフレのくせに出しゃばるなって?」


 楓さんが何か言おうとしたけど、女の人がそれを制した。

 セフレ……?今、セフレって言った?


「はぁ。それ以上なにも言わないで。余計に話がこじれる。埋め合わせはちゃんとするから今日は帰ってよ」

「埋め合わせー? じゃあ休みの日に一緒にいてくれる? 楓、いつも土日は無理って言うじゃん。私の休みに合わせてよ、たまには」

「はいはい。また今度ね」


 あまり納得していないようだったけど、女の人は帰っていった。最後に捨て台詞を残して。


「アンタ、楓のなんなの? もしも、こいつと付き合おうとか思ってるんなら止めときなよ。泣くことになる」


 そんなの言われたってもう遅い。

 私の心はさっきからずっと傷だらけだ。





「……ねえ、楓さん。お仕事辞めたって言ってたよね? 転職したって言ってたよね?」

「言ったね。もう風俗では働いてないよ」

「じゃあ、さっきの人はなんなの? 仕事じゃないとしたら……」


 言おうとしていた言葉が出てこない。言ってしまえばその事実を受け入れることになる。それが耐えられなくて言葉が出てこない。


「浮気って言いたいの?」

「……ッ!」


 それをあっさりと楓さんは口にする。

 私の傷つく顔を見ても顔色一つ変えない。今の楓さんは何を考えてるのか分からなくて怖い。


「私、羚のこと好きだよ」

「じゃあ、なんで……!」

「さっきの子はセフレ。本命は羚だけ。……ね、それなら良いでしょ?」


 良くない。何も良くない。

 右手は頬に、左手は腰に。獲物わたしを逃さないように距離を詰める。

 あとは……。


「今日お泊り無理って言ったけど、やっぱりおいでよ。濡れてるし、風邪引く。……温めてあげる」


 あとは獲物を喰らうだけ──。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る