87.

 うちにはベッドが一つしかないから。

 そう言ってかえでさんは寝室に案内してくれた。

 リビングと扉一枚を挟んだ寝室の端にはベッドが一つ。一人暮らしにしては大きめなサイズに少し驚いた。


「私、さっきの部屋のソファーで寝ますよ? 同じベッドっていうのは流石に……」

「良いの。ダブルベッドだし、大丈夫だよ。だから、一緒に寝よ?」


 楓さんは有無を言わせず、私の手を引いた。


「……あんまり寝相良くないです、私」

「私もそう大して変わらないから大丈夫」


 私の言い分を全く聞くつもりが無いらしい楓さんはそのままベッドに潜り込んできた。私が壁側で、楓さんがその横に。

 少し口を開けば吐息がかかるほどの近さ。同性と言えど、あまりの距離の近さに緊張して体が固くなってしまう。



「なーに。緊張してるの?」


 楓さんに背を向けて寝ているからお互い顔は見えない。それでも、私が緊張していることは何となく伝わってしまっていたらしい。


「そりゃ、緊張しますよ。よく考えたら知らない人と同じベッドで寝てるわけ、だし……」


 自分で口にしておいてようやく気付く。

 私、今日初めて会った人と一緒に寝てるんだ……。


「ね。昔、子供の頃にさ……」


 唐突に楓さんが話し始める。なんの脈絡もなく、ふと思いついたことを口に出したように。

 一体、何の話だろう。

 楓さんがこの後、何を言うつもりなのか私には見当もつかなかった。






「——知らない人に着いて行っちゃ駄目って言われなかった?」






 そう言うや否や、楓さんの両手が私の頬を包み込んだ。


「んっ!?……ん…………んん……」


 突然の息苦しさに戸惑い、必死に楓さんの肩を押すがビクともしない。


「可愛い反応だなぁ。本当に嫌なら……もっと本気で抵抗しないと、ね」

「んっ…………う……んん……」


 さっきまで隣に寝ていたはずの楓さんはいつの間にか馬乗りになり、私の両手首を掴んでいた。

 抵抗らしい抵抗も出来ず、視線だけで楓さんに訴えたものの、状況は何も変わらない。



「……っは…………はぁ……はぁ……」

「うわぁ、その顔はエロすぎ」

「んっ……」


 必死に呼吸を繰り返すが、すぐに楓さんの唇がそれを拒んだ。


 なんで。どうして。意味が分からない。なんで楓さんはこんなことを……。朦朧とした意識の中で考えていたが分からなかった。

 私も楓さんも女だし、お互い今日が初対面だ。それなのに、どうしてこんなことに——



「…………っは。意味わかんないって顔してるね」

「はぁ……はぁ…………。分かりま、せん。私には……なんでこんなことになってるのか、全く分からない、です……」

「私さぁ…………女の子が好きなんだよ」


 私の上に乗り、笑みを浮かべる楓さんは初めて会った時とはまるで違う。獲物わたしを狙う捕食者おんなの顔。そんな顔で襲われたら……ひとまりもない。


「変だと思う? 女なのに女が好きだなんて」

「それは……」


 もちろん話では聞いたことがある。確か学校で教わったはずだ。だけど知識として知っているだけで、実際にそういう人と会ったのは楓さんが初めてだった。

 しかも、その感情が私に向けられるなんて。……考えたことも無かった。


「男だけじゃないんだよ。女の人相手でも気を付けないと。ほら。こうやって……食べられちゃうんだから」

「……ひっ」


 ねっとりとした、ぬるい感触。楓さんは私の首筋に顔を埋め、ゆっくりと舐め上げた。


「待っ……て。なんで、私なの……?」


 聞かずにはいられない。

 だって、私たちは出会って間もない。ほんの数時間の付き合いのはずだ。この一夜が明ければもう二度と会うことは無い。そんな関係になるはずだった。


「好きになっちゃった」

「……え?」

れいのこと。一目見た時から可愛いなーって思ってたけど。うん、好き」

「私は——」


 返事なんて最初から求めていないのか、私の言葉を封じるように唇を重ねた。さっきまでとは違う、深いキス。

 こんなのは、知らない。こんな感覚なんて知らない。


「……はっ…………はぁ……はぁ……」


 何度も角度を変え、楓さんは貪るように私の口に吸い付いた。

 離れることは許さない。いつの間にか両手は頭の上に。逃げることも抵抗することも出来やしない。完全に、楓さんのペースだ。


「涎、垂れてる。舐めてあげるね」

「んっ…………止めて……もう止めてよ、楓さん……」


 わけ分かんないくらい気持ち良くて、頭が蕩けそうだ。怖い。キス一つでこんなふうになってしまう自分が怖い。


「止めてって顔、してないけどね。止めてじゃなくて…………もっとして、でしょ?」

「ちが、う……。そんなこと思ってな――」

「——素直になりなよ。私の前では」

「……ッ」


 咄嗟に体を捻って逃げようとした。だけどそれを見越していた楓さんは慌てることなく、壁際に私を追い詰めた。


「なんで羚に壁側で寝てもらったか分かる?」

「……どういう、こと?」


 蕩けた頭では難しいことは考えられない。

 楓さんの口から出る答えを待つことしか出来なかった。




「こうやって追い詰めるためだよ。もう逃げられないね」

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