82.

 彩織いおりが部屋を出て数分、着信を知らせる鈍い音が鳴り響いた。発信元は……かえでさんだ。


「……もしもし」

『あ、れい? 昨日大丈夫だった?』


 念のために連絡先は交換していたものの、電話がかかってきたのは今日が初めてだ。


「大丈夫、です。あの、昨日って……」

「駅前で倒れそうになってたから、私が家まで運んだよ。ごめんね、勝手に入って」

「いえ……。こちらこそ迷惑かけてすみませんでした」


 楓さんの殊勝な態度に驚き、スマホを落としかけた。

 こんなこと言う人だったっけ、この人……。


『ん? どしたん?』

「いや、なんか……。勝手に部屋に入ってごめん、なんて言うと思わなくて」

『なにそれぇ』

「だって……そんなこというタイプでしたっけ? 前はもっと私がいない間に勝手に部屋に上がって、くつろいでたくらいだったから」

『あの時は付き合ってたからね』


 ズシリと楓さんの言葉が圧し掛かる。だって、あの時は楓さんが……!


『ねえ。私、昨日終電逃したんだけど』

「え。すみません、私のせいで……」

『それで結局、水積みずみ駅の近くのネカフェで一晩過ごしたんだけど』

「水積駅、ですか……?」


 私の最寄り駅だ。きっと私を送った後、帰りの電車に間に合わなかったんだろう。申し訳ないことしちゃったな……。


『で。まだ水積駅近くにいるわけ。このまま羚の家、行って良い?』

「…………え?」


 まさかそんなことを言い出すとは思わなくて、素っ頓狂な声が出てしまった。


『良いよね? 久々にゆっくり話したいし』

「…………良い、けど」


 昨日のこともあり、断りにくい。楓さんだって大人だ。何もしないし、なにも問題ない……はず。


『やった! 今から行くねー』

「はい……あ、待って。楓さん。私これから部屋の掃除するから、もうちょっと後が良いです」

『じゃあ適当にブラついてから……一時間後で良いかな?』

「はい」


 通話を終え、急いで着替える。

 部屋は昨日のまま。昨日着ていた服も、会社用のリュックも。何もかも片付いていない。

 ほんの数分前までここに彩織がいたのが信じられない。見せたくないところを散々見られてしまった。

 脱ぎ散らかった服だけなら良かった。よりにもよって楓さんを見られるとは……。

 その楓さんがあと一時間もしたらここに来る。

 何が目的なのか知らないけど、ここでキチンと話さないといけない。

 まずは部屋を片付けて、迎え入れる準備をしないと……。










「はい、これ。お土産」

「わ。すみません、ありがとうございます」


 楓さんに手土産にバームクーヘンを貰ってしまった。それもそこそこ有名なお店のヤツ。


「……どこまで行ってたんですか?」

「んー、駅の南側と北側を適当に。ちょうどお店あったから買ってみただけ。気にしないで。私が食べたいだけだから」


 手渡された手土産を片手に部屋へと引き上げる。このバームクーヘン、今食べたいってことだよね。飲み物と一緒に——


「どうせ水しかないんでしょ。紅茶買ってきた」

「……よく分かりましたね」


 楓さんの言う通り、冷蔵庫の中には水しかない。普段そればかり飲んでいるから、他の飲み物は何一つない。


「そりゃ分かるよ。今までずっとそうだったんなら、これからだって変わらない。不変的って言うのかな。そういうタイプでしょ、羚は」

「そうですね……」


 よく、知ってるなと思う。あの日から……四年も経っているというのに楓さんは私のことをよく分かっている。


「バームクーヘンも紅茶も後で良いよ。それよりも……」

「ちょ、っと。止めてください……!」


 腰に添えられた手、脇腹をなぞる指。四年前と何も変わらない楓さんの手つきにゾクリとした。


「そういうつもりで家に上げたんでしょ、羚だって」

「違う……私はそんなつもりなんて……全くない」

「昔と何も変わらない。ねえ、やっぱり私が一番羚のことを分かってるよ」

「違う……! 止めて、楓さん……!」


 強く、突き放した。


「ふぅん。そういうところは変わったね」

「どういうところ……?」

「前は何をしても無反応、されるがままだったのに」


 楓さんは私のことを分かっているって言うけれど、一つだけ勘違いをしている。


「楓さん。私は……もう四年前の私じゃないよ。嫌な時は嫌って言う。楓さんとは……もうそういうことはしたくない」


 やっと、言えた……。

 楓さんに流されるがままの私じゃない。私は私の意思で、ちゃんと拒んだ。




「じゃあ……あの子とするの?」




 あの子って誰。そう言い返すつもりだったのに、口が凍り付いたように動かない。心なしか手も震えている。


「……何を、言ってるの?」

「昨日、家にいた子。今日はいないの?」


 昨日この家にいたのは……彩織だ。楓さんのことを見たと言っていたから、二人は当然面識がある。あるはずだけど……。


「……楓さんには関係ないでしょう」

「それはどうかな。昨日少しだけお話したよ。若い……高校生くらいの女の子と」


 ……ああ、やっぱり。

 今朝の彩織の態度を見て薄々思ってたんだ。楓さんと何か話したんじゃないかって。そうじゃなきゃ、彩織はあんなにしつこく見知らぬ人のことを聞かない。


「何を、話したんですか」

「別に。ただの世間話だよ」


 嘘だ。そんなわけない。酔っ払った私を抱えて、この人がそんなつまらない話をするわけがない。


「あの子に……何を言ったんですか」


 もう一度強く言うと、楓さんは肩をすくめた。


「どういう関係ですかって聞かれたから、元カノだよって答えただけ」

「なっ……なんてことを……」

「事実でしょ」

「そうだけど……でも……!」


 頭では分かっていた。ここで楓さんに食って掛かっても何も得るものは無い。そんなこと、初めから分かっていたはずなのに。


「なに。あの子に知られたらマズいの? 今時おかしくもないでしょう。女の子が女の子と付き合っていたって」

「そういうことじゃない……!」


 だから、これは罠。

 狡猾な、楓さんの罠だったんだ。



「じゃあ……あの子のことが好きだから知られたくなかったの? 私との関係を」

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