19.
「……お母さん?」
ヒリヒリと頬が痛む。
「私の男に手出すな!」
もう一度、叩かれる。
「ちっ……」
男は舌打ちをし、お母さんが気づく前に去って行った。
残されたのは私を非難し続けるお母さんと私。
もう私の心は限界だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい——」
ひたすらお母さんの平手打ちに耐えて、謝って。そうしていればいつか許されると信じて。
頭を床に擦りつけ、許しを請う。
他人から見ればこれ以上ないくらい情けない姿だと思う。それでも私は許されたい。お母さんに許されたかったんだ。
それから
来訪が途絶えたあの日からお母さんの悲痛な叫びと私への暴力は止まない。
「あなたさえいなければ、あなたさえいなければ私は……!」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。お母さんの子供に生まれてきてごめんなさい——。
そうして私とお母さんの今の関係が出来た。
殴り、殴られ。怒鳴り、謝る。
その関係は崩れない。住むアパートが変わっても、私が高校生になっても、お母さんとの関係性が変わることはなかった。
変えたいと思ってもどうしたら良いか分からない。
高校生になって私の身体の傷を見た同級生たちは珍しいものを見る目でどうしたの、と問う。
担任の先生は露骨に厄介そうな目をして見て見ぬふりをした。
その時に初めて知った。
どれだけ困っていても誰も助けてくれないんだ、私は一人で生きていくしかないんだって。
学校では見て見ぬふりに合わせた。そっちが見ないなら私も見せないように振る舞う。
家で派手に殴られて出来た痣は化粧をして隠した。たまに友達には気づかれそうになったことがあったけど気にならないように明るく振る舞った。
自分の心を守るために、何重にも重ねた仮面を着けて。
もう外し方が分からない。どこで、いつ、外せば良いのかも分からない。
私はいつ、私になれるんだろう。
あの日はどうしようもなかった。
学校が終わって家に帰ったらお酒を飲んで酔っていたお母さんが私に掴みかかってきた。
「アンタ、いつまでこの家にいるの。さっさと出て行ってくれない? じゃないと私は、私は……!」
「……う…………いた、痛い……ごめんなさい……ごめんなさい…………」
いつもは頬を叩いたり、お腹を蹴ったり。痛いけど手加減しているから何とかなっていた。傷や痣ができても、それは服や化粧で誤魔化せる場所だった。
でもその日は酔っていたからなのか、手加減が
何度も壁に頭をぶつけられた。
床に
泣いても謝ってもお母さんは許してくれなかった。
顔を見るだけで不愉快だと言われ、外に締め出された。
どうしようもなくドアの前に座り込む。
唇も頭も横腹も痛い。どこか遠くへ逃げたくてもこれじゃあ動けない。遠くへ逃げて、お母さんがいない場所に行って……。
逃げた先で私はどうしたいんだろう。
座り込んでいると誰かの足音が聞こえた。トントントンと階段を上る音が。
「……」
左隣の部屋の住人が気まずそうな顔をして私を見る。
「…………」
ガチャリ。扉が閉まる。
私のことは気になっても関わろうとは思わないらしい。
そりゃそうだ。もし私が同じ立場なら同じことをする。きっと、気にはなるけど関わると面倒だと思って
もしかしたら気にもしないかもしれない。私には関係ないって。
左隣の住人が部屋に入ってから結構な時間が経った。動く気力は未だ湧かず、私はずっと同じ体勢で座り込んでいた。
「……え」
今度は右隣の住人が私の前を通った。
さっきと同じようにちらりとこちらを見てそのまま素通り。この人もそうか、と思う。慣れたけど
このままここにいると仕事に行くお母さんと鉢合わせてしまう。それだけは避けたい。また、殴られるのは嫌だから。
動こうと思っても身体は言う事を聞かなくて、結局座り込んだままだ。
スマホを持ってこなかったから分からないけど、もう八時近い気がする。あと二時間、下手したら一時間半でお母さんが出てくる。
嫌だな、顔を合わせたくないな。
トントントン。
階段を上る音が聞こえた。
また好奇の目で見られるのが嫌で顔を伏せる。
「…………」
すぐに通り過ぎるだろうと思ったのに、私の目の前で足が止まった。どうせ何もしないんだから早く立ち去って欲しい。
「……帰れないの?」
「……」
急に話しかけられて心臓が跳ねる。
動揺を悟られないようにゆっくりと顔を上げると目の前にはさっき出て行った右隣の住人が。
隣の住人のお姉さんは私の顔を見てひどく驚いている。
「……無視して通り過ぎるかと思った。お姉さん、隣の部屋の人でしょ。朝たまに見かける」
話しかけられたのが嬉しくて口角が上がりそうになったけどギリギリ堪える。出来るだけ明るく、何でもないように振る舞う。
「……そうだけど」
お姉さんは困惑しながら返事をする。
このお姉さんは何度か見たことがある。朝、学校に行く時とか、学校から帰って来たときとか。いつもそそくさと部屋に入っちゃうから挨拶すらしたことない。
なんとなく、人が苦手なのかなーって思ってた。完全に私の偏見だけど。
「お姉さん、人に興味なさそうだもんね」
聞こえるか、聞こえないかくらいの声で
「ねえ、何の気まぐれで声をかけたのか知らないけど。
気づいたらそんな言葉を吐いていた。
自分でもよく分からない。なんでこのお姉さんにそんなことを言ったのか。
お姉さんは答えない。いや、答えられないのかもしれない。
面倒なこと言っちゃったな。
少しの沈黙が耐えられない。期待して裏切られるのは辛い。お姉さんが断る前に冗談だよって言ってしまおうか。
「……ちょっとだけなら」
目の前に手が差し出される。
傷一つない真っ白な手が。
「やった。お姉さんありがとー」
動揺と泣きそうな顔を誤魔化すように明るくお姉さんの手を取る。そのまま勢いよくお姉さんは手を引いた。
思ったより力強くてびっくりしたけどそのおかげで立ち上がれた。
お姉さんの顔をまじまじと見つめると困った顔をしていた。
本当に部屋に入れて良いのか。私の身体の傷と家庭の事情。このまま居座ったりしないか。そんな杞憂が見て取れる。
そんなの心配しなくたっていいのに。
私はお姉さんを利用する。だからお姉さんも私を利用して良い。このまま部屋で襲われたってしょうがないと受け入れるつもりだ。
この困り顔を見ていると、とてもそんなことをする人じゃなさそうだけど。
「大丈夫だよ。お母さん、十時には仕事に行くから。そしたらちゃんと自分の家に戻るから」
「……分かった」
お姉さんが頷きやすいように明確な時間を提示する。遅くても私は十時には帰る。それが分かっていれば安心でしょう?
ついさっきまで他人だったお姉さんの部屋に入る。
ここにいれば明日の夜までお母さんと顔を合わせなくて済む。
ズキズキと痛む。身体も心も、もう限界だ——。
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