4.
夕飯を作り終えイヤフォンを外す。もう声は聞こえない。
再び訪れた静寂な中で食事を済ませる。
無音な中で食事をしていると意識せずとも早く食べ終わってしまう。洗い物を手早く済ませ、お風呂を沸かした。
手元無沙汰になってなんとなく。何の気なしに家の外に出た。コンビニでも行こうと思って。
玄関の扉を開けて階段に向かって一歩。踏み出した足が何かにぶつかりそうになる。
「……え」
「…………」
セーラー服を着た女の子が膝を抱いて座っていた。
俯いていて顔は見えない。隣の部屋の住人だろうか。
思うところはあるが何の関係も無い赤の他人だ。関わっても良いことは無いだろう。当初の目的通りコンビニに向けて歩き出す。
「あざっしたー」
やる気のない店員に見送られコンビニを後にする。
賞味期限が切れていた牛乳、明日と明後日の朝食のパン。それとチョコレートのお菓子を買った。
時刻は八時。もうお風呂は沸いているだろうし帰り道を急ぐ。
「…………」
階段を上った先で顔を上げると隣の部屋の住人はまだ座り込んでいた。
無視して部屋に戻る。いつもの私ならきっとそうしていた。でも何故か、ほんの気まぐれで足が止まった。
「……帰れないの?」
「……」
ずっと俯いていた顔がゆっくり動き、ようやく目が合った。
「……ッ」
息を呑んだ。涙に濡れた顔。唇は切れて血が滲んでいる。腕には痛々しい
私は気まぐれで声をかけたことを既に後悔し始めていた。
「……無視して通り過ぎるかと思った。お姉さん、隣の部屋の人でしょ。朝たまに見かける」
「……そうだけど」
全くその通りだ。いつもの私なら無視していた。気づいたら特に理由もなく声をかけていたのだ。自分で自分が分からなくなる。
「お姉さん、人に興味無さそうだもんね」
くすりと笑う。口を動かすと余計に血が滲んで痛々しい。
「ねえ、何の気まぐれで声をかけたのか知らないけど。匿ってよ。お母さんが仕事に行くまでで良いからさ」
セーラー服の少女は部屋に入れろと言う。断りたい。けどこんなに傷だらけの子供を前にして非情になりきれない自分がいるのも確かで。
気づいたら少女に手を差し出していた。
「……ちょっとだけなら」
「やった。お姉さんありがとー」
私の右手を掴み立ち上がる。軽い。繋がった右手からほとんど重みを感じない。
この子は家で虐待を受けている? そもそも他人の子供を家に連れ込んで良いのか?
頭でぐるぐると思考が回る。
「大丈夫だよ。お母さん、十時には仕事に行くから。そしたらちゃんと自分の家に戻るから」
「……分かった」
少女の言い分を信じて鍵を開ける。お風呂に入って寝るだけだった予定が変わった。あと二時間。この少女の相手をしなくてはいけなくなった。
「洗面所そっちだから。顔洗ってきて。タオルは新しいの出して良いから」
「……顔? なんで?」
「血、滲んでる。痛くないの?」
人差し指で自分の唇を指した。少女もそれに倣って自分の唇に触れる。指に付いた血を見て呑気に本当だ、と言う。
「血出てたんだ。だからお姉さん、さっき私の顔見てびっくりしたんだね」
「……早く洗ってきて」
洗面所に向かう少女を見届けてからベッド脇にあるサイドテーブルの引出しを開けた。確かここに
乱雑につっこまれた書類や封筒をどけながら探すが見つからない。自分がケガをすることなんて滅多に無いし、使い切った後に補充をしなかったのかもしれない。小さく溜息が出た。
「お姉さん。タオル、洗濯機に入れちゃったけど良かった? ちょっと血が付いちゃったから水で洗ってから入れたんだけど」
「あー、うん。良いよ」
引出しを戻し、少女のほうに身体を向ける。まだ少し口の周りは赤い。目も充血して赤くなっている。
「ごめん。絆創膏、探したけど無かった」
「え? いいよ、こんなの。時間が経てば治るし。それよりお姉さん名前、教えてよ」
「
「下の名前も教えてよ」
「……
「じゃあ羚さんって呼ぶね」
この子と関わるのは今日だけのつもりだったが向こうはそうではなかったらしい。長く付き合うつもりが無いなら苗字だけで納得するから。気が無い人は下の名前なんてまず聞かない。
「私の名前も聞いてよ」
「……名前、教えて」
「
高校三年生と聞いてふと思い出す。神田さんが着ているセーラー服は見覚えがある。私が高校生の時に着ていたものと似ている。
「ねえ、その制服ってどこの?」
「
大商は私の母校だ。大沢商業高校、略して大商。商業高校に通っていたからこそ今の会社に就職出来た。
「羚さんはどこの高校だったの?」
「大商」
「先輩じゃん。ウケる」
何がウケるのか分からないが神田さんはウケていた。まさか隣の家の子供が母校の後輩なんて思わなかった。世間は狭いなとしみじみ思う。
こんなに楽しそうに笑っているのに口からは血が滲み、腕には痣がある。きっと見えないだけで他にも傷があるだろう。
この子がなんでこんなに元気なのか私には分からない。それを本人に聞いて良いのかも分からない。
「羚さん、今、私の心配してたでしょ。いいよ、これくらい慣れてるから」
慣れているなんて。そんなの異常だ。
「……それ、学校でなにか言われないの?」
「言われないよ。言わないでって顔してるから」
ガチャリ。まだ十時になっていないのに隣の部屋の扉が開いた音が聞こえた。階段を降りる音も聞こえるから誰かが出て行ったらしい。
「今日は早めに仕事行ったみたい。そろそろ帰るね。羚さん、また会ったら話しかけても良い?」
「……また会ったら、ね」
神田さんはにこりと笑うと自分の家に帰って行った。
この部屋で一人暮らしを始めてから数年。初めて一人じゃない時間を過ごした。親でも友達でもない、隣の部屋に住む女子高生と。
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