第28話 猫と和解せよ 解決編

 子猫がいない。

「ねえ、どこよ」

「あんたたち、どこにいるの」

 母猫が死んでから、あの双子の子猫を見ない。

 母親が死んだから逃げたのだろうか。昨夜は校舎を彷徨って探したが見つからなかった。今日は外で寝ようか。まだ春の先だけど、シュラフがあるからだいじょうぶ。寝過ごしても誰にも見つからないような場所を探して、そうしようか。

「お願い、出てきて」

 でも子猫たちを見つけたとして、どうすればいいのだろう。

 よっちゃんに委ねようか。

 だけど彼女はマンション暮らしなのだという。

 松岡まつおか祥子しょうこの視線が止まった。

「……」

 子猫ではない。なんに使ったものなのだろう、細長い鉄パイプが繁みの中に転がっているだけだ。

「……」

 松岡祥子は無言でその細長い鉄パイプを拾い上げた。

 長さもちょうどいい。いや、なにに?

 ぶん。

 ぶん、ぶん!

 松岡祥子は鉄パイプを振り回しはじめた。彼女に沖縄空手や棒術の経験はない。ただ漫画やアニメで見たマネをしているだけだ。しかしだんだん熱が入ってくる。

「あーーちょーぉう!」

 これでは、いたとしても子猫も寄りつかない。

 空に広がるのは群青の夕闇だ。




 ねえ、おまえたち。


 どうしてそう思った?

 私が殴り返さないなんて、なんで思った?


 残念でした。

 私は怒っています。おまえたちに復讐します。


 覚悟しなさい。




 夕暮れの校庭に動き出した影がある。

 すらりとしたきれいな立ち姿。ウェーブのかかった長い髪。意外なことに、このウェーブは天然なのだそうだ。それまで桜の木の陰で息をひそめていた笈川おいかわ真咲まさきが、薄暗い校庭を歩きはじめた。

「あれ」

 と、真咲が声をあげた。

 ビクッと激しく反応したのはもうひとりの人影だ。

「なくしたと思っていた私の生徒手帳、こんなところで見つけちゃった。どうしてだろうね、リコ」

 リコが真っ青な顔で振り返った。

 真咲は生徒手帳をもう一度確かめ、胸ポケットに入れた。そしてリコが花壇に置いたもうひとつのものを拾い上げた。

「これはなあに?」

「おねがい、真咲……」

いているの、リコ」

「違う、あたしじゃない。あたしじゃない……」

 真咲の手にあるのは、開けられた猫缶だ。

 親猫の死体の近くにあったはずなのに、どこかに消えてしまったあの猫缶だ。

「ねえ、リコ。知ってる? 毒入り猫缶に入ってるの砒素なんだって。きっと人だって死んじゃうね」

「ごめんなさい、許して……」

 リコは泣きはじめた。

「それは拾っただけ。猫を殺したのはあたしじゃない……」

「でも、これで別の猫を殺そうとしたのでしょう? そばに私の生徒手帳を置いて、全部私のせいにしちゃうつもりだったのでしょう?」

「やめて、おねがい、真咲……」

 真咲は、視線をリコに残したまま猫缶を月明かりの夜空に高く掲げた。

 リコにはもうそんなことはわからない。

 涙が溢れて止まらない。真咲を見ることができない。

「どうして震えているの、リコ」

 真咲が言った。

「私が殴り返すとでも思った? 私が怒っているとでも思った? 私が復讐するとでも思った? 残念でした。あなたなんかにそんな面倒くさいことしてあげないのよ」

 リコは悲鳴をあげた。

 真咲はなにを言っているのだろう。顔を上げたリコの目の前で、真咲は大きく口を開けていたのだ。掲げた猫缶を傾け、中身を口に入れようとしていたのだ。

「おめでとう、リコ。猫殺しから人殺しにランクアップだよ!」

 楽しそうに真咲が言った。



 にゃー。

 にゃー。バッグの中で子猫が鳴いている。


 私は怒っています。おまえたちに復讐します。


 かわいがっていたのに。

 野良猫でも分け隔てなくかわいがってあげていたのに。


 うちの子を円形脱毛症に追い込んでくれたね。丹精込めた私の庭をおまえたちの糞尿で酷い匂いにしてくれたね。


 どうしてそう思った?

 私が殴り返さないなんて、なんで思った?


 覚悟しなさい。


 にゃー。

 にゃー。


「ねえ」

 と、その声は彼の背後から聞こえてきた。

 この高校に毒餌どくえさを置くのは二度目だ。前の時には親子猫がさっそくやって来たが、親猫が苦しみはじめたのを見た子猫は毒餌に手をつけなかった。それどころか親猫は苦しみながらも子猫を追い払ったのだ。

 感動的だと思った。

 それにやはり子猫はかわいいものだ。

 彼は子猫をバッグに入れ、家に持ち帰った。今もバッグに入れて一緒に連れてきた。おまえたちはかわいい。尊い母猫の愛に育まれた良き存在だ。うちの子ともうまくやっていけるだろう。だけど、いけない猫がまだいるかもしれない。私は彼らを排除しなくてはいけない。女子高だという。学校猫は他にもいるかもしれない。

 さあ、いけない猫たち。

 私の猫缶をお食べ。私は仕事で砒素の扱いには慣れている。人間の致死量に相当する砒素を入れてある。

「バッグの中にいるの、おじさんの子猫なの?」

 振り返ると、すらりとした長身の女生徒。

 手にはなぜか鉄パイプ。そして目には明らかな殺意。

 ぶん!

 女生徒は鉄パイプを振り回した。その初老の男は悲鳴をあげた。



 二つの悲鳴に反応したのは二つの人影。

 ひとりは、真咲を守ると宣言したのにその後のとんでもない出来事やらしまいには真咲本人にまかれてしまったために、こんな時間まで校門でひとり真咲を待つしかなかった長身の生徒。

 もうひとりは、今日も居残り稽古で全校退校時間ぎりぎりに昇降口を出てきた生徒。

 ふたりは走り出した。



「おめでとう、リコ。猫殺しから人殺しにランクアップだよ!」

 真咲は口を開け、毒入り猫缶に舌を伸ばしている。

「あなたの猫缶じゃないって主張する? 私が死んだあと、缶の指紋を全部消して証拠隠滅しちゃう? 馬鹿ね、どうしたってあなたの記憶に残るのよ。死んでいく私の姿があなたを放さないのよ。一生あなたは、私を殺した記憶に震えて生きるのよ」

 リコは悲鳴をあげ続けている。

 おかしい。

 この子はおかしい。

 真咲の手から猫缶が叩き落とされた。真咲の前に飛び出してきたのは長身の人影だ。

陽向ひなた

「なにしてるんだ、馬鹿ッ!」

 陽向が叫んだ。



「逃げないでよ。頭かち割れないじゃない」

 鉄パイプを振り回し、女生徒が言った。

 狂っている。

 この子は狂っている。

「うわあああ!」

 その初老の男は子猫が入れられたバッグを放り投げ、逃げ出した。男を追おうとした松岡祥子はバッグを拾い上げた。祥子が男を追わなかったのは子猫がいるバッグのほうが大切なため。そして、その姿を見たから。

 太刀川たちかわ琴絵ことえ先輩が走ってくる。

 手には竹刀袋だけ。その竹刀袋ももう開けられている。

「そいつが毒餌事件の犯人!」

 男の背を指し、祥子が叫んだ。

 次に繁みを指す。

「毒餌を置いたばかり!」

「キエアーーあエーーん!」

 太刀川先輩が声をあげた。今のはたぶん「めん」と言っている。ぜったいそうは聞こえないが、そう言っている。男の脳天に竹刀が叩きこまれた。



 この夜、この町の愛猫家や愛犬家を震撼させた毒餌事件は犯人逮捕によって終結した。

 だが同じ夜、同じ県立五十嵐浜いからしはま女子高等学校で、もうひとつの小さな事件が起きていたのは知られていない。

 妙に五十嵐浜高の事情に詳しい裕美ゆみも、校内にスパイ網を構築しているという地獄耳の生徒会長も、保健室のおばさんも知らない。その場にいたリコも陽向登場とともに走って逃げていったので知らない。


 ぱあん!


 陽向は猫缶を叩き落とし、真咲の頬を叩いた。

「なにしてるんだ、馬鹿っ!」

 真咲は大きな眼を見開いている。

「――なんでぶつの!」

「えっ」

「いきなり出てきて、なんでぶつの!」

「あっ、えっ、その」

 押しにはめっぽう弱い陽向である。

「私を守るとか言っておきながらすぐに消えて! そうよ、ぜんぜん私の近くにいなかったくせに! どうしてぶつの!」

「真咲がおれをんじゃないか!」

「だいたい、なに、その『おれ』っての!」

「わかんないよ! どうしたんだよ、真咲!」

 毒の猫缶を食べようとしたのだから、そりゃ、とっくにどうかしている。

「急によそよそしくなるし! あのドライフード女とは私の目の前で平気でキスするし!」

「その話はやめてよ、頼むよ! ねえ、真咲、あのさ!」

 そして、またしても陽向は思った。

 やっぱり剣道を続けておくべきだった。そうだったなら、こんな無様なことにはならなかったろう。


 笈川真咲は両手で陽向の顔をつかんだ。

 そして唇を押しつけてきたのだ。陽向の唇に。


 さすがに真咲は舌を入れようとはしなかった。呆然としている陽向を突き飛ばし、ただ一瞥だけ投げて歩きはじめた。桜の木の下に隠してあったカバンを拾い、一度も振り向かずに校門を出て歩いていく。

 パトカーがすれ違っていった。

 笈川真咲は、それにも振り返らなかった。


 残されたのは、石像のように動かない陽向がひとり。

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