第27話 猫と和解せよ 7

「猫殺し」


 朝、笈川おいかわ真咲まさきが自分の下駄箱を開けたら、その紙が置かれていた。

「……」

 その真咲の肩越しに長い腕が伸び、真咲より先にその紙をつまみ上げた。そして悪意のあるいたずらがないのを確認して握りつぶした。

「ひとつ確認しておきたいんだ」

 陽向ひなただ。

「おれはピエロになる気はないんだ。だからこれだけは知っておきたいんだ」

「あなたが殺したわけじゃないわよね、あの猫を」

 しかし、陽向が言おうとした言葉を先に口にした少女がいる。

 真咲を挟んで片方に陽向。

 そしてもう片方に、大きなセルフレームに長い髪の生徒。笈川真咲も背は低い方じゃないが、長身のふたりに挟まれてすごい圧迫感がある。

 あっと陽向は思った。

 真咲も思った。

 こいつ、卵サンドパンの高笑い女!

 この子、昨日のドライフード女!

「確認だよ」

 セルフレームメガネの生徒が言った。

「笈川真咲。あなたを助けろと裕美ゆみがご所望だ。私は裕美が願うことならなんでも聞くんだ。だけどもし猫を殺したのがあなたなら、私はむしろあなたをぶちのめす」

 えっと、陽向は目を見張った。

 こいつ、なにをいい出しているんだ!?

「あなた、だれ」

 真咲が言った。

「一年三組、松岡まつおか祥子しょうこ

 えええっ!

 陽向の両眼は、もう限界までひろげられている。

「さあ、答えて、笈川真咲。毒餌を置いてあの猫を殺したのあなた?」

「違う」

 にいっと松岡祥子が笑った。

「よろしい。それでは張りきってあなたを護るとする。ねえ、陽向!」

「!」

「!」

 松岡祥子はきょとんとしている。

「あれ、なんだよ。こんなに近くで見ても私が誰だかわからないのか? ひどいな、陽向」

「……だれだよ」

 そう言いながらも、とてつもなくいやな予感がまとわりついてくるのも事実なのだ。なんだろう、このガリっと来る予感は。身の危険すら感じてしまう予感は。

「だから、松岡祥子だよ! ファーストキスの相手も忘れちゃうのか、陽向は!」

「はああ!?」

 あとから陽向は思った。

 やっぱり剣道を続けておくべきだった。そうだったなら、こんな無様なことにはならなかったろう。


 松岡祥子は両手で陽向の顔をつかんだ。

 そして唇を押しつけてきたのだ。陽向の唇に。


 朝の昇降口だ。

 生徒たちが多い。

 なにごとだこいつはなにごとだと目を丸めている生徒もいるし、わあっと嬉しそうに頬を染めている生徒もいる。

 松岡祥子は舌まで入れようとしてきた。

 陽向は松岡祥子を突き飛ばした。

 ぺろり、と松岡祥子は唇を舐めた。そして高笑いを上げたのだった。

「その様子だとおまえ、やっと二度目のキスだな!」

 勝ち誇っている。

「喜べ、陽向! 私もこれが二度目だ!」

 県立五十嵐浜いからしはま女子高等学校。

 まだ新学期が始まったばかりの四月。早朝の昇降口はフェスティバルだ。



 私はいったいどこにいったの。

 笈川真咲は思った。



「一年三組の南野みなみの陽向が、朝の昇降口で濃厚なラブシーンを演じたらしい!」

「ほんとにキスしたらしい!」

「見たかった!」

「見たかったー!」



 葉桜の下で、きれいな長い髪をなびかせてたたずんでいるのは、夢キス事件の森川もりかわ志津子しづこさんだ。

 夢にさえ、出てきてくれないのに……。

 夢ですら、キスしてくれないのに……。

 あなたは他の人とキスしたのですね……人前で……堂々と……朝から……。私、あなたの物語の中で、踊る侍女や魚どころか珊瑚にもなれませんか……。

 さみしげな笑顔に涙が光っている。



太刀川たちかわー!」

 太刀川先輩の教室に飛び込んできたのは例によって生徒会長だ。

「泣くなよー、太刀川ーー!」

「なんなんです、生徒会長」

「気をしっかりもてよー、太刀川ーー!」

「だから、なんなんです」

「南野陽向がキスしてたんだってなーー!」

「?」

「あれ、知らなかったの。南野陽向とうちの生徒が、衆目の中、キスしてたらしいんだ」

 さっと、太刀川先輩の顔が染まった。

「でもさ、つまり相手は女だよ。あ、おまえにはむしろ微妙か」

「あの」

 太刀川先輩の眼が据わっている。

「なにをしに来たんです。授業始まりますよ」

「おまえをいじめに」

「受験生のくせに暇ですね」

「太刀川ーー!」

 生徒会長は太刀川先輩の頭を自分の胸に押しつけた。

「放課後は生徒会室に来いーー! 剣道で忙しいというのなら昼休みに来いーー! 私が慰めてやるーー! 来るのだーー!」

 苦しい。

 無駄に大きいのだ、この人の胸は。

「生徒会長、予鈴です」

 おそろしく事務的な声で、太刀川先輩の近くの席の生徒が促した。

「しょうがない、続きはあとで」

 生徒会長は浮かれた足取りで教室を出て行った。

 陽向がキスを?

 正直、すこし乱れてしまう太刀川先輩なのだ。



 当然、フェスティバルは一年三組も巻き込んでいる。

 失恋したばかりらしいと噂の(本当にこの人のプライベートはダダ漏れなのだ)担任の藤森ふじもり先生も、朝のHRの間じゅうニタニタとご機嫌だったし。よそのクラスからわざわざのぞきに来ている子たちもいっぱい。

「ひなたちゃん。ひとりで先に登校しちゃったと思えば、朝からご活躍だったようですね」

「……」

 陽向は頭を抱えて机に突っ伏している。

 オカメインコ篠田しのださんはおびえて近寄ってこない。来るわけがない。クールビューティ林原はやしばらさんの視線はなんとなく冷たかった。

「裕美……」

「なんでしょう、色男」

 裕美の声は冷たいのか緩んでいるのかよくわからない。突っ伏しているので表情を確認できない。

「あのさ……裕美は覚えている……?」

「なにをでしょう、色男」


「鏡屋敷」

 陽向が言った。


 裕美の返事がない。

 陽向は顔を上げた。裕美の眼が輝いている。

「思い出したんですね、ひなたちゃん!」

 裕美が言った。

「しょうこさんを!」


 いたんだ。

 裕美が机で呼びかけた相手は。

 架空のだれかなんかじゃなかったんだ。


 しょうこ――松岡祥子。


 小学生の頃だったと思う。

 夏だったと思う。突然現れた変な子。

「私は松岡祥子だ!」

「裕美! おまえを私の嫁にしてやる!」

「馬鹿だな、陽向! 喜べ、おまえも私の嫁だ!」

「おまえ、初めてのキスだな、陽向! 喜べ、私も初めてだ!」


 わあああああ!

 わあああああ!


「実はですね、ひなたちゃん」

 裕美が言った。

「なぜか来ないって藤森先生は言ってたでしょう。でも、しょうこさんは来ているんですよ、この高校に。どこにいるのかは裕美さんにもわからないのですが」

 堂々と校舎を歩いているよ。

 ていうか、おれにキスしてきたのがそいつだよ。

「なぜ裕美さんにそれがわかるかは、ひなたちゃんにもナイショですけど」

 ごめん。

 それに関しては裕美の勘違い。その祥子はおれなんです。

「もしかしたらひなたちゃんはしょうこさんを忘れたのかなって思ってました。なんか、そんなリアクションが多かったですから」

 忘れてました。

 ていうか、あいつのこと、名前で呼んだことなかったじゃないか。「高笑い」とか「野球帽の子」とか。

「忘れるわけないですよね」

 ……。

 ……。

「だって、しょうこさんは、ひなたちゃんのファーストキスの相手ですからね!」


 わあああああ!

 いやああああ!


「それでですね、ひなたちゃん」

 わかった。

 裕美は緩んでいる。楽しんでいる。

「今日のキスの相手は誰なんです。裕美さんにだけは教えなさい」


 その松岡祥子だってばああああーーーー!!!!




 私を守るとか言っていた陽向は朝以来顔を見せない。

 あのドライフード女も。

 なにがなんだかわからない。

 体育のあと、制服の胸ポケットに入れていた生徒手帳までがない。そっちのほうが今は気になる。

「笈川さん、あの……」

 更衣室からは最後に出たつもりだったのに、あとを追いかけてきた子がいる。

 ああ、よっちゃんだ。

「ごめんなさい。笈川さんの言うとおり、私があの子たちを引き取っていればこんなことにならなかったのに……」

 お人好しだな、この子。

 そんなことを言うために私を待っていたのか。

「笈川さんに迷惑をかけちゃうこともなかったのに……」

「ねえ」

 真咲が言った。

「私に声をかけると、あなたも私の仲間だとみなされるよ」

 よっちゃんはビクッと体を震わせた。

「そんなわけがないと思う? あなたは猫を殺された当事者なのにって思う? 人を悪者にしたいときは、どんな理不尽だって通っちゃうものなんだよ」

 もう一度「ごめんなさい」と言って、よっちゃんは小走りで駆けていった。




 ねえ、おまえたち。


 どうしてそう思った?

 私が殴り返さないなんて、なんで思った?

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