第22話 猫と和解せよ 2



「夢で私にキスした人はだれですか」



 その一言で、裕美ゆみが一年三組にセンセーションを起こした少し前。朝の五十嵐浜高校に、もうひとつ小さな事件があった。

「きゃあ、猫! 子猫も!」

 昇降口から学年棟に向かう渡り廊下。

 その脇の繁みの中に、生徒たちが猫の親子を見つけたようだ。

「やだ、子猫、震えてるよ」

「でも逃げないね-」

「慣れてるのかも。ただ寒いだけなのかも」

 陽向ひなたに裕美、そして篠田しのださんに林原はやしばらさんのミステリ研究会もその横を通り過ぎた。四人ともチラチラと気にしているようだが、もう生徒たちの塊ができてしまっている。押しのけて見に行くわけにもいかない。

 ただ、

「ねえ、笈川おいかわさん、ほら!」

 その声にぎょっとして、陽向と裕美は振り返った。

 ウェーブのかかった長い髪。

 笈川真咲まさきが四人のすぐ後を歩いていたのだ。

「猫だよ、猫の親子!」

 どうやら、騒いでいるのは笈川真咲と同じクラスの子らしい。

 真咲はチラとだけ見て、すぐに視線を前に戻した。そして陽向と視線が合った。合ったと思うのだが、真咲は無視した。

 昔から愛想は悪かったけどさ。

 だいじょうぶかな、あいつ。

 陽向は思った。

 たしかにあんたは女王さまだったよ。

 でも、それが通用したのは取り巻きがいたからだろう? 男子のヒエラルキー高い子たちまで取り巻きにいてくれたからだろう?

 今のあんたはひとりじゃないか。

「なんかない、なんかない?」

「お弁当、食べる?」

 ほら、彼女たちだってもうあっさり切り替えてる。

 今の真咲に無視されてもなんてことはないんだ。ただ、愛想のないやつだという悪印象が彼女たちに残されただけさ。

 まあ、いいや。

 関わりになりたくない。

 陽向は前に視線を戻したが、裕美がまだ真咲を睨んでいるようだ。へえ、裕美にしては珍しい。

「裕美、いこう」

 声をかけると、裕美は無表情で歩きはじめた。

「お弁当はダメだよ。人の塩辛い食べ物は猫には毒なんだ」

「そうなんだ」

「私、自転車で猫缶かなにか買ってくる」

「よっちゃん、授業はじまっちゃうよ」

「でも、この子たち震えているんだもの」

「おお、勇者ー」

「いってこい!」

「がんばれー、よっちゃん!」

 そのときだ。

 その済んだ声が聞こえてきたのだ。


「馬鹿みたい」


「あっ!」

 と、陽向はまた振り返った。裕美とそして篠田さんに林原さんもだ。

 笈川真咲は目を伏せて歩いている。

 でも、今のは真咲の声だ。

 渡り廊下には上級生もいる。その渡り廊下がしんと静まっている。猫をとりまいていた一年生たちも凍り付いている。


「猫の健康を考えるくらい偉いのなら、飼ってあげなさいよ」


 やはり真咲の声だった。みなが自分に注目しているというのに、真咲はそう言ってのけた。真咲は陽向と裕美の前を通り過ぎた。今度は、チラとも見ない。

 馬鹿!

 陽向は思った。

 だから、あんたはもう女王さまじゃないんだ!

「わああっ!」

 猫を囲んでいた生徒の一人が泣き始めた。

 ショートボブの子だ。

「よっちゃん」

「よっちゃん」

 寄りそう友達たちは真咲を睨み付けている。

 長身で大きな黒いセルフレームの生徒も、そしてリコという生徒も見ている。長身の生徒は口笛を吹く仕草までした。

 笈川真咲は、何事もなかったように一年棟へと歩いていく。



 あいつ、ほんと、なんでうちのような女子高に来たんだろう。



「私はお父さんとファッションショーに出た夢を見たことがあるのですが」

 目の前で裕美が不思議な話をしている。

 お昼。

 空き机は陽向と裕美の予約席だ。

「お隣のきれいで背の高いモデルのお姉さんを、夢の間中、ずっとお父さんだと認識していたのです」

 どんな絵面だよ。陽向は思った。

 祥子しょうこさんの空き机。

 桜もまだ散りきらないうちに、それは一年三組の伝説となってしまっている。

 だれにも見られずに祥子さんの机に願い事を書けたなら、その願いごとが叶う。だれにも見られずに祥子さんの机に悩み事を書いて、それが朝まで消されていなかったら解決する。誰にも見られずに――。

 今朝、空き机に新たに書き込まれていたのは、「夢で私にキスした人はだれですか」。

 そのロマンチックさと過激さで一年三組は沸き上がっている。

 浮かれている。

 今だけ教室が少し静かになっているのは、「夢キス」の謎をミステリ研の二人が解き明かしてくれるのを期待して、裕美の言葉に聞き耳を立てているからだろう。

「夢を自由に操れる明晰夢ってものもありますけど、それこそキスの相手がわからないなんてことはないと思うのです」

 独り言のような裕美の言葉はそれで終わり、教室にざわめきが戻ってきた。

「あれ?」

 陽向は首筋に視線を感じた気がして振り返った。

 空き机は窓側で、一年三組の教室は一年棟の三階だ。のぞけるとしたら向かいの二年棟。少し離れているけれど理科棟の四階。いずれも廊下側だし、お昼の今はあまり人がいない。屋上は施錠されて自由には出入りできない。

「自意識過剰かな」

 陽向はコロッケパンの残りを口に放り込んだ。



「ふっふっふっふ」

 不気味な笑い声を上げたのは理科棟の屋上に伏せている長身の生徒だ。

 セルフレームのメガネを上にずらし、手摺りの陰から大きな双眼鏡を突き出して一年三組の教室をのぞいている。

「ふっふっふっふ。陽向の奴、今日もコロッケパンじゃないか。のろまめ。のろまめ。身長以外は進歩がないな、陽向」

 彼女の脇には、食べかけとまだラップに包まれたふたつの卵サンドパン。

「ああ~ん、裕美は今日もちんまいお弁当で、ほんとかわいーーいー」

 食べかけの卵サンドパンに小さな手が伸びてきた。

 長身の生徒は、さっと卵サンドパンを取り上げた。

「だめ」

 長身の生徒が言った。

「あのの言うとおりよ。あんたたちに人間の食べ物はだめなの」

 つぶらな瞳で見上げているのは双子の子猫だ。

「だからだめ! 塩分もだけど、卵の白身はあんたたちには良くないの。あんたたちにはカリカリを買ってあげたでしょう。ああ、でもあれもほんとうはだめなんだよね。そうよね。笈川真咲の言うとおりだよね。そんなことまで気にするのなら、飼ってあげないとだめだよね。ちゃんと育てて、去勢や避妊もして、最後まで看取ってあげなきゃだめだよね。でもごめんなさい、私には無理なんだ。できないんだよ」

 あらためて視線を投げてみると、双子の子猫は変わらずにつぶらな瞳でじっと生徒を見上げている。

 とてつもない破壊力がある。

 長身の生徒は体を震わせた。

「ごめんなさい!」

 長身の生徒は子猫にひれ伏した。

「私は幽霊なの。少しすればどこかにいってしまうの。ここから離れてしまうの。あなたたちを飼ってあげられないの」

 きゃっと、生徒が小さな悲鳴をあげた。

 ひれ伏している生徒の背中に子猫たちがのぼってきたのだ。これは動けない。どすん!と衝撃があったのは、母猫までもがのぼってきたのだろう。

「あのう、どいては頂けませんでしょうか……」

「にゃー」

「動けません……」

「にゃー」

 それでも猫のどれかが卵サンドパンの匂いを嗅いでいるのを視野の端に見て、さっと奪い取る。しかし、それからまた動けない。

「猫さま、どうか……」

「にゃー」

「私、一生このままなのでしょうか、猫さま……」

「にゃー」

 あれ。

 背中を歩き回っていた猫の重みを急に感じなくなった。

 たぶん、背中の上で寝転んだんだ。

 ああ、本当にしばらくこの格好のままだな、長身の生徒は思った。驚かせないようにゆっくりと、なるべく楽な体勢をとる。

 わかっております。私などに許されるのはそれくらい。

 猫さまには逆らえない。

 それでも長身の生徒はなんだか嬉しそうだ。




 裕美の「夢で私にキスした人はだれですか」で始まり、衝撃的な校長先生の「空き机の祥子さんにそうお願いしたのは私です」をクライマックスに、そして桜の舞う中を歩いていく森川志津子さんをエピローグに、夢キス事件が終わった。

 五十嵐浜高校の校庭に咲き誇っていた数百数千の桜も散る時を知り、でも春はむしろ深まろうとしている。そんな夜、陽向の家の固定電話が鳴った。

「陽向か?」

 電話を通して聞いたのははじめてだった。

 でも、すぐにわかった。

「太刀川先輩」




 五十嵐浜高校の校舎では、シュラフに猫の親子とくるまって、長身の生徒が幸せそうに眠っている。

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