第6話 あなたのキスを数えましょう 解決編(後編)

 朝、その家の玄関から出てきたのは、パジャマ姿の少女だった。

 ああ、彼女だと思った。

 肩までのボブがよく似合う。

 彼女は、ぼくが置いた手紙とルービックキューブに顔を輝かせた。小躍りしている。やった。よかった。だいじょうぶだ。

 夕方に新幹線に飛び乗り、本当なら最終便で帰るつもりだった。すねかじりの高校生の身ではホテル代まではきつい。受験の学年だというのに高校をサボるのも両親に言い訳がつかない。だけど気になった。怖かった。ぼくの早とちりだったのならまだいい。もし彼女が本当に――。

 でも、だいじょうぶ。

 彼女なら、だいじょうぶ。

 あの笑顔なら、きっと。

 帰ろう。

 今から帰れば午後の授業には出られるだろう。深夜営業の喫茶店で、録音した受験講座をイヤホンで聴いて過ごした。眠いが新幹線で仮眠をとればなんとかなる。

 背を向けたとき、すごい音がした。

 振り返ると彼女が怒り狂っていた。ぼくが残したルービックキューブを地面に叩きつけ、なんども踏みつけている。


 なんで!?


 いや、でも、だいじょうぶ。

 あれだけの元気あるなら、だいじょうぶ。


 でも、なんで!?



 校長先生によると。

 三年後に二人は再会したらしい。東京の大学で。

 サークルの入会申し込みに校長先生が書いた名前を見て驚いている上級生がいた。それが彼だった。「わあ、すごくきれいになったね!」とも言ったらしい。そのいいぐさと甦る屈辱の記憶に、その時にはひっぱたいてしまったのだという。その後、誤解は解けたとはいえ、校長先生は彼を避け続けた。それでも彼はへこたれなかった。

「祥子さんに聞くまでもないことなのにね。あのキスは夫のものなのですから」

 校長先生は、藤森ふじもり先生とクラスに邪魔をしたことを謝罪して、教室を出て行った。森川さんが、そっとそのあとを追った。周囲の何人かの生徒、陽向ひなた裕美ゆみ、そして藤森先生もそれに気づいていたが、藤森先生はなにも言わなかった。

 クラスは、ちょっとロマンチックな話に酔っている。


「校長先生」

 森川さんの声に、廊下を行く校長先生が振り返った。

「なんでしょう、森川もりかわ志津子しづこさん」

 本当に全員の名前を覚えているんだ。森川さんは少しひるんでしまった。

 だけど言わなきゃ。

 さっきは名乗り出ることができなかった。今度は言わなきゃ。

「あの、校長先生」

「はい」

「――ごめんなさい、あの書き込みは――わたしが――」

「森川志津子さん。私はひとつも嘘を言っていません」

「――」

「さきほど私が語った物語は、ほんとうに三五年前にあった私の物語です。ちょっとだけ隠していることがありますけれど。そうですね、それは南野みなみの陽向ひなたさんと佐々木ささき裕美ゆみさんに聞いてごらんなさい。私が伏せた部分も含めた本当の物語を、空き机のふたりがあなたに教えてくれるでしょう」

「本当の物語……」

「森川さん。あなたの物語は、だれも肩代わりできませんよ」

 校長先生は廊下を歩いていった。



「あれ」

 お昼休みの一年三組。お弁当を手に声をあげたのは、裕美のように少し小動物が入った少女だ。裕美がハムスターぽいなら、この少女はオカメインコぽい。

「南野うじと佐々木うじがいませんね、空き机に」

「佐々木さんはお弁当箱を持って、森川さんと教室を出て行ったみたい」

 そう答えたのはクールビューティな少女だ。

「南野さんは例によって授業が終わると購買に走っていったし、どこかで合流するのかな。南野さんと佐々木さんが別々にお昼を食べるとは思えない」

「ですよねー」

 かぱっと口を開け、クックルーとオカメインコが笑った。



「また、卵サンドがなかった……」

 全力疾走で教室を飛び出し、全力疾走で購買から戻ってきた陽向だ。

 いつもなら祥子さんの空き机に戻ってくるのだけど、今日は校庭。終わりかけている桜の下だ。校長先生に言われたことを森川さんが伝えると、「それじゃ」と、陽向がここをお昼の場所に指定したのだ。「あまり人に聞かれちゃいけないし。空き机でのおれと裕美の会話は、クラスの連中、ダンボで聞いているし」。

 桜の下と聞いて森川さんはドキッとした。

 この人は覚えていてくれているのだろうか。

「それで」

 どかっとあぐらをかいて座り、陽向が言った。

「嘘はついてないって校長先生が言ったんだね?」

 この人、手が塞がってなくても片手で牛乳パックにストローを入れるんだな。器用に。森川さんは思った。

「でも、小さな嘘はひとつついちゃったかな」

「あの書き込みは自分のだと言ったことですか?」

 いつも通りのちんまいお弁当箱をつつきながら裕美が言った。

「ひなたちゃん、校長先生は、空き机に自分だと言ったのです」

「あ、そっか」

 陽向は頭をかいた。

「じゃあ、やっぱり校長先生は嘘をついていないのか。近い言葉だったかもしれないけど、校長先生が手紙に書いたのは『私にキスをしたのはだれですか』じゃないと想像してたんだけどな。そんな言葉で驚いて慌ててやって来る男なんている? 下心で来ると言うのならわかるけどさ」

「私にキスをしたのはだれですか」

 もぐもぐもぐ。

 ウインナーを食べながら裕美が言った。

「手紙にそう書いたのは、本当のことだそうですよ」

「えっ」

「ただし、もう一言つけたそうです」


 私にキスをしたのはだれですか。

 あのとき、私を後から抱きしめてくれたのはだれですか。


「それ、どこ情報……?」

「秘密情報」

 うーーんと陽向は考え込み、眼を閉じたまま牛乳のストローを咥えた。ほんとに器用だなと森川さんは思った。

「校長先生がその手紙を出したっていう、一九八六年の春」

 陽向が言った。

「社会現象といえる事件が起きたんだ。人気絶頂だったアイドルが飛び降り自殺したんだ。全国で中学生や高校生の後追い自殺が続いてしまったそうなんだ」

 裕美と森川さんは顔を見合わせた。

「校長先生が森川さんには伝えてもいいと言ったのだから言うんだ。たぶん、校長先生も自殺を考えたことがあるんだ」


 あと一歩。

 もう一歩。

 これからはもう痛みを感じることもない。ほら、あともう一歩。


「その時、だれかに抱きしめられた感じになったのかもしれない。キスされたように感じたのかもしれない。それで校長先生は飛び降りないで済んだ。校長先生はそれを手紙に書いたんだ」

「ルービックキューブの人だけがそれに気づいたのですね……」

 裕美が言った。

「それでいえば、ルービックキューブの人も無意識に不用意だったんだ。校長先生がたまたまそういう性格の人でよかったんだ」

「そういう性格の人なんです」

 もぐもぐもぐ。

 もぐもぐもぐ。

 陽向と森川さんはウインナーを食べる裕美を見ている。

「なんでしょう」

「裕美さん、もしかして校長先生と知り合いなのですか」

「昔からのネット囲碁友達なのです。校長先生だと知ったのは五十嵐浜いからしはまに合格したと伝えたときでしたけど」

 陽向は、かぱっと口を開けた。

 森川さんも驚いた。

「あの、裕美さん」

「なんでしょう、ひなたちゃん」

「あなたは何者なのですか」

「裕美さんです」

 二人のやりとりに、森川さんはくすっと笑った。かなわない。この人たちにはかなわない。

「ごちそうさま」

 森川さんは食べ終わったお弁当箱を整えて立ち上がり、スカートをはらった。

「お話を聞かせてくれてありがとう。もちろん、誰にも言いません。あと、私のイタズラで迷惑をかけちゃいました。ごめんなさい」

「いや、そんなことないけどさ」

 頭をかきながら、陽向が言った。

「相変わらずきれいな髪だね」

「えっ」

「覚えてない? 入学式の日に、おれ、この桜の下で森川さんに声をかけたよね?」


 ねえ、ほんとうにそこにいるの?

 なんだか、きれいすぎる幻を見てるみたいだ。


「ええっ、おれ、そんな気障なこと言ったの!? マジ!? ええ!?」

「色男ですね、ひなたちゃん」

「なんでそんな目でおれを見るの、裕美!?」


 覚えていてくれた。


 うれしい。

 この桜の下でだったことまで、あなたは覚えていてくれた。


 ごめんなさい。私は嘘をつきました。

 夢でキスして貰った事なんてありません。ただの夢にすら、あなたは出てきてくれません。せめて夢の中だけでも、あなたを好きでいてもいい私でいたいのに。



 南野陽向さん。

 あなたはだれですか。


 あなたの物語の片隅に、もう少しだけ私を置いてくれますか。ほんのちょっとの脇役でいいから。



 終わりの桜が舞っている。

 きれいな髪をなびかせて歩いていく森川さんを見ながら、陽向が言った。

「裕美はなんで、森川さんがあの書き込みをしたんだとわかったんだ?」

「はい?」

「あ、いや」

 まずい。これ以上突っ込むと色々とバレてしまう。

「知りませんでしたよ?」

「え?」

「しょうこさんが教えてくれたんです。あれは森川さんが書いたものだと。そしてたぶんヒントをくれたのです。『彼女はなぜそんな事を書いたのか?』」

 もぐもぐもぐ。

 お弁当を食べている裕美の横で、陽向は呆然と眼を見開いている。



 夜。

 裕美がネットで囲碁をしていると、対戦相手がチャットで話しかけてきた。

『空き机の祥子さんは、私のお願いをきいてくれるかしら』

 裕美は返答した。

『なんの話かわかりません』

『あの時、私を抱きしめてキスしてくれたのはだれなのかしら。やっぱりね、風呂上がりにビール呑んでがははって笑ってるようなおなか出てきたおっさんじゃなくってね、ほんとはね、ポーの一族のエドガーやアランみたいなね、きっとね』

『わかりません』

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