第5話 あなたのキスを数えましょう 解決編(前編)

 桜の木の下で、突然話しかけてきたひと。

「ねえ、ほんとうにそこにいるの?」

「え?」

「なんだかきれいすぎる幻を見てるみたいだ」

 キスより鮮烈な私の物語。




 オフコース、浜田省吾。

 ファミコン、ドラゴンクエスト。東京ディズニーランド。


 校庭を行くほぼ同い年の女の子たち。

 みんな笑っている。

 なにがそんなに楽しいのだろう。


 ここから飛べばすべてが終わるんだ。

 きっと痛みなんか感じない。

 これからはもう痛みを感じることもない。ほら、あともう一歩。


 もう一歩。


 安保闘争には遅すぎて、バブルには早すぎた。

 日本という国も、あの頃の私と同じで危なっかしく揺れ動いていた。そんな大昔の私の物語。




「みなさんには想像もできないことでしょう」

 県立五十嵐浜いからしはま高校一年三組。

 窓の外にはそろそろ終わりを迎えた桜。

 朝のホームルームで校長先生は語りはじめた。

「私が高校生の頃、まだネットもスマホもありませんでした。世界につながる方法といえば、男子は短波放送に夢中で、もう少し進んだ子はハムをしていましたね」

 ハムとはアマチュア無線愛好家のことで、第四級アマチュア無線技士、れっきとした国家資格保有者だ。田舎や海辺にいけば、今でも個人の家に大きなアンテナが立っているを見ることができるだろう。

「私の場合は文通ですね。お手紙をやりとりするの」

 メールではない。

 便せんに手書きして、切手を貼った封筒にいれてポストに投函。相手には二三日で届く。

「何度も何度も読み返して文章を整えたり、たった一字書き損じただけではじめから書き直したり。信じられないでしょう。そういうものだと思っていたから、苦にもならなかった。私は当時東京に住んでいましたが、雑誌でペンパル――文通友達を募集できて、高知、神戸、この新潟、旭川にペンパルがいました」

 住所が雑誌の文通相手募集コーナーに載るのだ。

 そういう意味でも信じられない時代だろう。

「もちろん」

 にっこりと校長先生は笑った。

「全部、男の子」

 くすくすと笑い声が起きた。

「書くことは、こちらは今のSNSと大して変わらないかしらね。数学が難しい、あのテレビを見た、あの映画を見た、犬がこの頃元気がない。返事は一週間後。それでも一生懸命書かれた手紙が返ってくるのです。みなさん、優しい人たちでした。でも私は、そんな優しい彼らを試すようなことをしてしまったのです。あれは今のみなさんと同じ、高校生になったばかりの一九八六年の春のことでした」

 ピクッと反応した人が教室にふたりいる。

 藤森ふじもり先生と陽向ひなただ。

「みなさんの年頃にはよくあるように、あの頃の私もいろいろ考えることばかり。私はなんだろう。どうして生きているんだろう。私はどこに行くのだろう。この先いったいどうなるんだろう。そして私は、あんな手紙を出してしまった」


 私にキスをしたのはだれですか。


「そう、祥子しょうこさんの机に書いたのと同じ言葉。受け取った彼らは面食らったでしょうね。封筒には便せんが二枚。いつもより少ない。しかも書いてあるのはそれだけ」

「質問してもいいですか」

 手を上げたのは陽向だ。

 校長先生は微笑んだ。

「どうぞ」

「なぜ、その言葉だったのですか」

「キスをされたからです」

 校長先生が言った。

「もちろん夢の中の話です。夢の中で、不安で不安でたまらなかった私を抱きしめてキスしてくれた人がいたのです。嬉しかった。でもそれがだれかわからない。未来の夫かもしれない。私は知りたかったのです」


 あと一歩。

 あと一歩。


 もう一歩。――。


 一年三組には華やかな歓声が広がっている。

 まさか、校長先生からそんな言葉が出るなんて。

「返事は来たんですか?」

 陽向のおかげで質問しやすくなったのだろう。別の生徒がはにかみながらも手を上げた。

「それどころか」

 校長先生は、その生徒に微笑みかけた。

「私の家まで来てくれたひとがいたようです。住所はわかっているわけですからね」

 校長先生の家では、朝、新聞受けに朝刊を取りに行くのが校長先生の仕事だった。あの手紙を出して三日目の早朝。

「塀の上に、私が出した手紙とその押さえのようにルービックキューブが置かれていました」

 ルービックキューブ。

 当時世界で爆発的に流行った六面立体パズルだ。知らない子はわかる子に教えてもらっているが、多くの生徒が知っているようだ。

「その人はいなかったのですか」

「いませんでした。ただそのふたつだけ」

 どこかで隠れて見ていたのかもしれない。

 夜のうちにきて夜のうちに帰っていったのかもしれない。

 正直言って驚いた。そして嬉しかった。ルービックキューブが置かれている意味だってわかる。きっとメッセージ。こんな凝ったことしたのは互いにミステリ好きだから? それとも両親に先に見られてもわからないように?

「全面に書かれていたら困っちゃうところだったけど、文字っぽい書き込みがあるのは白の面だけでしたし、すぐに揃えることができました」

「なんて書かれていたんですか」

 次々に質問が出てくる。

 校長先生は教室をぐるりと見渡した。

 みんな、期待に満ちている。

「『しねばいいのに』。そう書かれていました」

 ええ~~!?

 驚きの声が上がった。笑いが混じっている。

「もう、私のために来てくれた人がいるとか、朝に自分の手紙とルービックキューブが置かれているのを見つけたドキドキとか、ぜーんぶ吹っ飛んでしまいました。そのうち他の人からも返事の手紙が届いたけど、下品な内容だったりなぜか写真がはいっていたり。バカバカしくなって文通も悩むのもやめてしまいました。そうですね、ショック療法の効果はあったかもしれませんね」

 笑いが教室に広がった。

「そんなものです」

 校長先生が言った。

「少女が見た夢に他の人を巻き込んでしまったのです。いつだって彼らは、一生懸命返事をくれた優しい人たちだったのに。しねばいいのに――自分のことしか考えることができなかったわがまま娘に対する、あたりまえの反応でしょう?」


 ダメだというの。


 校長先生のお話に聞き入っているクラスの中で、ひとりだけ顔を伏せている。


 たったこの程度のイタズラでも、脇役がしたらわがままだというの。

 脇役なら、なにもするなっていうの。


「一年三組の空き机の祥子さんは、願い事をかなえてくれて悩み事を解決してくれるそうですね。その噂は私も聞いています。それで試したくなりました。わからずじまいだったあのキスは誰のキスだろう。結局、あの時の手紙と同じように騒動を起こしてしまっただけでしたね。ごめんなさい。年甲斐もないイタズラにみなさんを巻き込んでしまいましたね。できればこの話は、このクラスだけの内緒にしていて貰えると嬉しいですね」


 でもやっぱり私は脇役。

 名乗り出て注目される勇気なんかない。ただの脇役。


 森川もりかわ志津子しづこさんは、うつむいて体を震わせている。


南野みなみの陽向ひなた

 校長先生が言った。

 森川さんもはっと顔を上げたが、もっと驚いたのは本人だ。ぱちくりと目をしばたたかせ、「おれ――私ですか?」と言った。

「そう、あなた」

「おれの名前を?」

「知っています。私をだれだと思っているのですか。この学校の校長ですよ。南野陽向さん、あなたは私の今の話になにか疑問があるようですね。言ってごらんなさい」

「……」

「いいから、言ってごらんなさい。ただし、差し障りのあるところは避けてくれると嬉しいですね。頭のいいあなたならわかりますね?」

 陽向は立ち上がり、「あの」と口を開いた。

「そのルービックキューブの人とは、きっと、それっきりではないのでしょう?」

「どうして?」

「東京の人だった校長先生が、今、新潟で校長先生をしている。つまり、そのルービックキューブの人は新潟の文通友達で、そのあとふたりは結婚したのでしょう?」

「ずいぶん大ざっぱな推理ですね」

「ルービックキューブの人は手紙を受け取ってすぐにやってきた。時間的にそれができるのは神戸の人か新潟の人。上越新幹線はもう開通してました。直接会う勇気が無かったのか、別の必要があったのかメッセージを残すことしかできなかった。だけど彼は校長先生のことを本当に心配していたんです。新潟の方言で書いてしまったのは、きっと本当に心配していたからなんです」


「しねばいいのに――こんなことしなくていいのに」


 しねばいいのに?

 方言? 言う、そんなの?

 むしろルービックキューブより理解できる生徒が少ないようだ。

「言うようです。少なくとも当時の夫は」

 校長先生が言った。

「正解よ」


 こんなことしなくてもいい。

 試さなくてもいい。


 ぼくはいつも君を大切に思っている。

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