最終章

「ずいぶんお待たせしましたか?」

光彦は思わず立ち上がった。振り向くと、りんがいた。

 彼女は小さな笑みを浮かべて軽く会釈した。以前より少し痩せて、白いシャツにベージュのロングスカートという地味な服装のせいか、長い黒髪のせいか、大人の女性の穏やかな雰囲気に変わっていた。

「来てくれたんだ」

「だいぶ前からいらしてたのですか?」

「あ、うん。ちょっと前から」

「鈴木さん、時間を言ってくれなかったので、何時に来たらいいのか分かりませんでした。休みの日はベッドでごろごろするのが好きで、いつも起きるのは9時ぐらいだったので、それから食事したら、9時半くらいかなと思って。9時過ぎくらいに来て待ったらいいかなと思って、今来ました」

  そうだった。りんと一緒に暮らしていた頃は休みの日は大体9時くらいまで、ベッド中でぐずぐずしていたことを彼も思い出した。

「よく覚えているね」

「もちろんです。忘れるはずありません」

「今日はよく来てくれました。感謝しています」

 りんははにかんだように微笑んだ。光彦は隣に座るように促し、彼女はベンチに腰を降ろした。

「お久しぶりです」

「うん、久しぶり。もう七年にもなるよ。いつ関東に戻って来たの?」

「去年です。実は私、今、栄養士の資格を取るための専門学校に通っているのです。あれから、風俗で九州、沖縄まで行って、四国を回って、神戸まで日本一周しました。さすがに高知はスルーしたけど」

 そう言って、照れ笑いを浮かべた。

「その後は神戸に住んで、昼間と土日は飲食店で働きながら、定時制高校を卒業して、去年の春に今の専門学校に入りました。あと、タトゥーも消してしまいました」

「そうなんだ。別れる前に言っていたことを着実に実行に移してるんだな。立派だな」

「いえいえ、まだまだです。ただの学生なので」

 光彦は一番気になっていたことを思い切って口に出した。

「で、恋人はいないの?」

「そんなのいません」

「今の専門学校は女の生徒だけなの?」

「女子が多いけど、男子生徒も少しはいます」

「男から付き合ってくれとか言われない?」

「そんなのないですよ。若い女の子がいっぱいいるのに、私みたいなおばちゃんには誰も目もくれません」

 彼は安堵した。心が踊った。

「いや、君は相変わらず綺麗だよ。むしろ以前はなんか表情に険しいところがあったけど、今はそれがなく、落ち着いた女性の雰囲気に変わって、以前より綺麗になったと思う」 

「そんなことないですよ。ずいぶん歳とって、頬っぺたなんか、こんなに弛んでいます」

そう言って、笑いながら、頬の肉を指でつまんで、引っ張って見せた。光彦は思わず笑った。こんなに心が弾む気分になるのは久しぶりのことだ。りんと一緒に暮らしていた時以来だと思った。

「鈴木さんこそ、あの頃と全然変わっていないですね。口がお上手になったのは、彼女さんの影響ですか?」

「彼女って。そんな人はいないよ」

「昨日、奥様と別れたと言っていたでしょ。再婚したとか、新しい彼女とかいないのですか?」

「そんなのいないよ」

「ずっと一人だったのですか?」

「もちろん。今もあのアパートに住んで、あの頃と同じ生活のままだよ。年功序列で係長にはしてもらったけど、離婚の時に家や貯金は全部家内に渡したので、すっからかんだよ」

「そうなのですね。再婚する気はないのですか?」

「うん、一人の人以外は。その人のことを毎日思いながら、その人が来るのをずっと待っている」

「あ、そんな人がいるのですね。……その人とは別れたのですか?」

「うん。別れた。ひどいことを言ってしまって」

「そうですか」

「戻って来るのをずっとずっと、もう七年も待っている」

 りんは目を見開いた。

「それって、もしかして、私のことですか?」

「そう、君が会いに来てくれるのをずっとずっと待っていた」

「もし、昨夜会わなければ、それに私が来なければ、どうしたのですか?」

「家内と別れたのはケジメをつけたかったので、君とは関係ない。最後に会った時、僕が店に行った時のことを覚えているかい?」

「もちろんです。忘れるはずありません」

「あの時ひどいことを言ってしまった。あと、君がアパートから出る前の夜も……。それで、その償いの意味でも十年でも二十年でも待っていようと思っていた。

 それに、もし奥さんと手を繋いで歩けなければ、私が歩いてあげますと、最後にくれた手紙に書いていたじゃない。それを信じて、きっといつか会いに来てくれると思ってずっと待っていた。たとえ今日会えなくても、今後もずっと待っていたと思う」

「私こそ鈴木さんに物を投げたり追い返したりしてひどいことをしました。あの後、部屋で泣いていました。もう鈴木さんと会うことは二度とないだろうと思って。……しかし、年が明け、春になった時、時が色々な感情を全て洗い流してくれる、いつか私がおばあちゃんになった時、一緒に暮した時のことを楽しい思い出として鈴木さんと話せるようになる日が来るかなと思い、あんなことを書いたのです」

「そうなんだ」

光彦は彼女が最後に手紙をくれた翌日に、ちょうどこの公園のこのベンチに座って、自分も全く同じことを考えていたことを思い出した。自分がりんにこれほど惹かれるのは、彼女の物の見方、感じ方考え方が似ているせいなのかと思った。

「実を言うと私、去年入学する前に、鈴木さんのアパートにこっそり行ってみたのです。もしかしたらもう住んでいないかと思ったのですが、鈴木という表札があって、ああ今も住んでいるのだなって、嬉しかったし、安心しました。でも、会う気はなかったです。

 私、鈴木さんの家を出た時に、携帯を変えて、鈴木さんの電話番号もメアドもLINEもすべて消去しました。

 それは私はいつも不幸で悲惨で過酷な状況にいなければいけないと思い知ったからです。これ以上、鈴木さんに甘えて頼って、生暖かくて心地よい生活をしていたら、バチが当たり、私だけでなく鈴木さんも苦しめることになると悟ったからです。

 でも、鈴木さんのこと、鈴木さんと過ごし日々のことを忘れたことはなかったです。

 それで東京の専門学校にしたのも鈴木さんの近くに居たかったためだし、今の街に住んだのも、前に一度、あの街にあるフレンチレストランにランチを食べに行ったじゃないですか。それで、もしかしたら、また会えるかもという気持ちもあったのです」

 そう言われて、光彦は以前、有名な格安フレンチ店の支店がその街にあったので、一緒にランチを食べに行ったことを思い出した。東京に行く時は、いつも私鉄であの街に行き、そこからJRに乗り換える。一緒に東京の美術館に行った時もそのルートだった筈だ。

 天文学的確率の奇跡的な再会だと思ったけど、なるほどほんの僅かだが会う可能性はあったわけかと納得した。

「ああ、行ったね。よく覚えているね。でも、それならどうして昨夜は逃げたんだ?」

「やはりまだ会う心の準備が出来ていなかったのです。鈴木さんが奥さんと仲良くやって、幸せな生活をしていたら、私みたいな闖入者が突然現れても迷惑をかけるだけなので。……それなのに、昨日は思いがけなく会ってしまって。びっくりしました。それで思わず逃げたのだと思います」

「それなら、離婚したと言った時に待ってくれたら良かったのに」

「離婚したと聞いた時は凄くびっくりしました。でも、やはり勇気がなかったのです。……本当はなぜ逃げたのか自分でもよくわからないです。ごめんなさい」

りんは深々と頭を下げた。

「学校を卒業して、栄養士の資格を取って、きちんと勤め始めたら、いずれはこの町か隣町に住むつもりだったのです。鈴木さんに会いに行くつもりはなかったのですが、偶然会うのなら、それは神様が会ってもいいんだよと許してくれたことだと思って。

 しかし、昨夜家に帰ってから考えたのです。いつかまた会えると思ったけど、こんな奇跡のような偶然を逃したら、バチが当たって、もう二度と会えないかもしれない。そう思い直して、今日来ました。逃げてごめんなさい」

 りんはもう一度頭を下げた。

 彼女がそんな風に思っていてくれたとは、思いも寄らなかった。

「ううん。今日来てくれただけでもとてもうれしいよ」

 二人は黙った。いつの間にか家族連れや子供達が何人も公園に来て、遊具や砂場で遊んだり、ボールを蹴ったりしていた。

 しばらくして、りんは左斜め前方を指差した。

「さっきから蝶々が何匹も飛んでいるなと思っていたのですが、あんなところに花壇があったのですね。昔はなかったですよね?」

「うん、なかった。三年くらい前だったかな。地元の有志がボランティアで公園の中に作ったみたい」

「あの黄色い花はマリーゴールドですか?」

「そうなの?僕は植物に関しては殆ど知識がないので分からない。でも、植え替えているみたいで一年中何かの花が咲いているんだよ。費用も馬鹿にならないし、世話も大変だと思うけど、大したものだよ。この町にはこういう住民の繋がりや人情味があって、そういうところがこの町の良いところなんだよね。だから、僕もずっと住んでいるのかもしれない」

「立派ですね」

二人は花壇の方を向いた。白色や黄色や青色の蝶々が戯れるように黄色、赤、白、水色の花の周りを飛び交っている。

 その時、光彦は長い間ずっと胸の中にあり、りんと再会したら、言おうと決意していたことを思い切って切り出した。

「以前、蝶の海渡りの話をしたことがあったよね?」

「あ、はい。しました」

「絵の話を聞いていたので、CGでも蝶は蒼天に吸い込まれるイメージだったのだけど、よく考えると、蝶の群れはアーチを描いて上ってゆくだけでなく、大河を渡り終わると、それからは下降して遥か遠くの土地に降り立つんだよね」

「はい。そうなりますね」

 彼女は彼が何を言いたいのか分からず、不得要領に頷いた。

「蝶が延々と飛んでゆくのは、飛ぶことが目的ではなく、幸せな定住する場所を求めてのことだと思わないかい?」

「今まで考えたことなかったけど、確かにそうですね」

「ねえ、りん、君ももう飛ぶのは止めて、僕のところで永遠に羽を休めないか?」

「え?どう言う意味ですか?」

「僕と一緒に残りの人生の棲家を探そう」

「それって、もしかしてプロポーズなのですか?」

「うん、僕と結婚してくれ」

「本気で言ってるんですか?私は一生結婚出来ない人だと思っています」

「そんなことはない。君以外に結婚したい相手は僕にはいない」

「本当にこんな私でいいのですか?こんな汚い私なのに」

「君は汚くなんかないよ。立派な人だよ。君の方こそ、こんなお金もない年寄りでよければ、結婚してくれ。……旅はもう終わりにしよう」

 りんの目に大粒の涙が溢れ、はらはらと頬に流れ落ちた。

「私、終わってもいいんですか?」

「ああ、もちろん。君はよく頑張ったよ。運命の風に抗って、十五年、いや、もの心ついた時から三十年も晴れの日も雨の日も雪の日も嵐の日もずっとずっと飛び続けてきたのだから、もう終わりにしてもいいよ。苛烈な状況に身を置かなくていい。生暖かく心地よい陽だまりで僕と一緒に暮らそう」

「本当に終わってもいいんですか?バチは当たらないですか?」

「バチは当たるかもしれない。君と出会って、結果的に僕は離婚した。家族も家も財産も失い、それは世間的にいえばバチが当たったということかもしれない。しかし、僕の心はむしろ今の方が元気で生き生きとしている。自分の意志で進むことを選んだ結果、それで罰を受けても、それは受け入れられる罰できっと悔いることはない」

「鈴木さんは私と出会ったことを後悔していないのですか?」

「もちろんだよ。天に感謝こそすれ、後悔なんて全くしていないよ」

「わかりました。鈴木さんが後悔していないのなら、私もバチが当たることをもう恐れません。……もう旅は終わりにします」

「じゃあ、プロポーズを受けてくれるんだね」

「はい。こんな私ですが、よろしくお願いします」

 りんは深く頭を下げた。それから、前屈みの姿勢のまま、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。

 光彦は彼女の背中を優しく撫でた。

 

 一人の女の子が「ちょうちょだあ」と叫びながら、駆けて来た。そして、りんの前に来ると、立ち止まった。3、4歳だろうか。首を傾げて、不思議そうな顔をして、りんを見ていた。それから、「泣いてるの?お腹が痛いの?」と言った。

 りんはハッとしたように顔を上げて、女の子の方を向いた。

「ううん。違うの。痛みがなくなったの。いっぱいいっぱい心が痛かったのが飛んでいったの。痛いの痛いの飛んでけーって、全部無くなったの。それが嬉しくて嬉しくて泣いてるの」

「へんなの」

 幼女は口を尖らせて言った。

「すみません」

 母親が駆けて来て、女の子の手を取って、向こうに連れて行った。

「ママ、変なんだよ。あの人、痛くないから泣いてるんだって」

そう言っているのが聞こえた。

りんは振り向き、二人は顔を見合わせて、笑った。


「ねえ、お願いがあるのだけど、お腹が空いたらから、これからアパートに入って、朝ご飯を作ってくれないかな?」

「もちろんです。でも、スーパーが開くまでにはまだ少し時間がありますね」

「いや、君がいなくなってから自炊をし始めたんだ。だから、食材は一応揃っている」

「へえー、鈴木さん、料理出来るようになったのですね。びっくりです。昔は卵焼きも作れなかったのに。一度私にご馳走してください」

「料理のプロの君に作るのは面映ゆいけど。君の勉強が忙しい時とかには僕が光彦特製カレーを作るよ。……それにもう鈴木さんと呼ばないでよ。光彦と呼んでくれたらいい」

「では、光彦さん。いえ、あなたと呼ばせてください。……では、あなた、家に帰りましょ」

そう言うと、鼻に皺を寄せて笑った。光彦はこの笑顔を見るために自分は七年間も待っていたのだと思った。


 二人はベンチから立ち上がった。

「手を繋いでもいいかな?」

「はい、もちろんです」

 澄み切った青空の下、柔らかな陽光の中、穏やかな大気に包まれて、二人は手を繋いでゆっくりと歩を進めた。まるで、バージンロードを歩くようにゆっくりと。

「ともに白髪になるまで。十年、二十年、三十年先もこうして手を繋いで歩ける素敵な夫婦になろう」

「はい、きっとなりましょう。ずっとついて行きます。いつまでもいつまでも」


「バイバイ」

さっきの女の子がりんに向かって手を振っていた。

「なおって、良かったね」

りんは繋いでいない右手をまっすぐ上に上げた。

「うん。バイバイ。心配してくれてありがとうね」

 大きな声で、弾ける笑顔で、りんは朗らかに何度も何度も手を振り返した。その笑顔はこの日の太陽のように、光彦には眩しかった。




(了)


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蝶が舞う 御通由人 @onihei55OLI2020

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