第26章

 光彦はりんに言われた通り、妻とやり直すための話し合いを持ったが、元に戻るのは難しいと拒絶された。

 今までなら諦めて、これまでと同じの生活をまた続けただろう。しかし、もう様々なことに目をつぶり、感情も考えも意志もなく、眠ったように生きたくはなかった。お互いのこれからの人生をやり直すためにもケジメをつけることが必要だと思った。

 それで光彦は離婚を切り出したのだが、彼がそんな思い切ったことを言うことに妻は驚き、狼狽えたようだった。結婚以来、知り合いのところでのパートくらいしかしたことがない彼女にとっては、生活費の問題が大きかったようだ。

 彼女は彼が浮気をしていたとは知らない。光彦のようなうだつの上がらない地味な男が浮気する甲斐性などないと思っていたので、想像さえしていなかったようだ。

 妻と会っていない時にはなんとも思わなかったが、妻と会い、話をすればするほど、彼の中で疾しい気持ちが増していった。その贖罪の気持ちもあり、娘が大学を卒業するまでの学費と養育費を払い続ける、家や貯金、有価証券などの財産はすべて妻のものとするという条件を全面的に受け入れた。 

 離婚は成立した。

 

 離婚しても光彦の生活は殆ど変わることはなかった。同じ神奈川のアパートに住み、毎日同じようにバスに乗って会社に通った。


 七年の歳月が流れた。

 

 ゴールデンウィークに高校時代の恩師が東京に来るので、関東にいる同級生が集まって先生を囲んで夕食を食べることになり、鈴木も来ないかと誘いのメールが友人から送られてきた。

 特に用事もなく、長期休みで暇を持て余していた光彦はすぐに承諾した。

 先生は東京のホテルに泊まっていて、男子5人と女子2人の同級生が集まり、そのホテルのレストランで夕食を食べた。

 メールをくれた友人と会うのも数年ぶりだったが、高校卒業以来初めて会った同級生もいた。

 昔話に花を咲かせ、時間はあっと言う間に過ぎ、食事の後もさらにホテルのバーで飲むことになった。

 しかし、光彦と同様に近県から来ている同級生が三人いたし、明日仕事がある人もいた。それで、名残り惜しかったが、 21時を回った時には解散することになった。

 

 そのホテルからアパートに帰るにはJRを乗り継いで東京の南の街に行き、それから徒歩で私鉄の駅まで行き、私鉄に乗り換えなければならない。

 光彦はJRの改札を出ると、夜の街をゆっくりと歩いた。酔いで火照った身体に夜風は心地よく、鼻歌交じりの気分で、ぶらぶらと歩いていった。途中にドラッグストアがあり、何気なくその店の方を見た。

 と、その時、彼は驚きのあまり立ち尽くした。

 ドラッグストアの店先にりんがいた。信じられなかった。酔いのせいだと思った。これまでもりんだと思ってよく見ると他人の空似だったことが何度もあった。

 それで、目を凝らして見たが、今度は間違いなかった。髪は長くて真っ黒になっていたが、紛うことなく、りんであった。 

 光彦は全身が痺れるような感覚になり、息苦しいほどに鼓動が高なった。彼女を見つめながら、夢遊病者のようにふらふらと近づいていった。

「りん?」

 光彦が声をかけると、店先の品物を見ていた彼女は身体をビクッと震わせ、恐る恐るという感じで顔を向けた。そして、彼に気がつくと、目を大きく見開き、顔をこわばらせた。

「りん、りんだよね?」

再び声を掛けると、突然彼女は身を翻して、逃げるように走り出した。光彦は驚き、慌てて追いかける。

「待って。待ってくれ」

りんは大通りから路地に入った。続けて、光彦も路地に入る。

「待ってくれ。話したいことがある。家内とは離婚した。話を聞いてくれ」

 大声で叫ぶと、りんは立ち止まった。そして、彼の方を振り返った。

 が、光彦が近づいていくと、また彼女は駆け出した。

 アルコールが入っているためか、歳のせいか、息が切れて、もう走れない。彼は追いかけるのを止めた。

 「明日の朝、いつもの公園で待っている。来てくれ。来てください。お願いだ」

そう叫んだが、りんの姿は暗闇の中に消えてしまった。


 それから、彼は私鉄の駅の方へと背を丸めてとぼとぼと歩いていった。

 

 





 

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