第24章

 光彦は給湯器の扉の中に、鍵といっしょに手紙を置いていた。

 それには「家内とは別れる。君と人生を歩みたいから、もう一度戻って来てくれ」と書いていた。が、りんが戻ってくることはなかった。

 

 朝、出掛けて、仕事をし、帰宅するという刺激のない単調な日常がまた始まった。

 しかし、光彦の生活には変化が起こっていた。毎日の時間を大切にし、些細なことに楽しみを見つけ、それを大切にしながら過ごそうと思うようになった。

 コンビニ弁当ばかりを食べるのを止め、休日にはスーパーに食材を買いに行き、スマホでレシピを調べて、自分で料理をするようになった。これまで自炊をすることは殆どなく、包丁も碌々使えなかったため、始めは簡単な料理さえ苦戦した。が、次第に凝ったものも少しは作れるようになってきた。

 デジタルピアノを買って、通信講座でピアノを習い始めた。会社から帰宅した夜も迷惑にならないようヘッドフォンで自分の音を聞きながら毎日少しずつ練習した。その甲斐あってか拙いながらも簡単な曲はなんとか弾けるようになってきた。

 

 三月になり、蝶が舞い始める季節になった時、思いがけずりんから手紙が来た。

 

 今、名古屋にいると言う。

 早くお礼の手紙を書かなければという気持ちと書かない方がいいのではという気持ちで揺れていた。しかし、先日、公園に行って、蝶が飛んでいるのを見て、あの日のCGの映像を思い出し、どうしても手紙を書かずにはいられなくなった、とのことだった。

 

「素晴らしい映像、ありがとうございました。あの時はまるで夢の世界に立っているように感じました。鳥肌が立ち、見終えた後は涙が止まりませんでした。あの映像は一生忘れません。あれを見たので、蝶のタトゥーを消す決心がつきました。そして、新しい生活を始める覚悟も出来ました。

 タトゥーを消すための手術代が貯まったら、風俗は止めます。

 無学な自分に何が出来るか分かりませんが、料理が好きなので、調理師の免許を取ろうと思っています。子供が好きなので、高卒認定資格を取り、栄養士の免許を取って、保育園の給食のおばさんになるのもいいかなと思っています。

 実は誕生日に抱いて欲しいと言ったのは子供が欲しかったからです。

 いずれ鈴木さんとはお別れをしなければいけない。その時、一人で生きてゆくのは辛いけど、子供と二人なら頑張れる気がしたのです。

 もちろん鈴木さんには一切迷惑をかけるつもりはありませんでした。が、今思うと、あの時は主婦のような生活をしていて、本物の主婦になったような気がして、欲が出て、母親にもなりたいと思っただけだと思います。

 本当に甘い考えですね。こんな私が子供を育てても不幸にするだけだから、結果的に良かったのかもしれません。

 何年先になるかわからないけれど、今の日陰の生活から抜け出して、日の当たる真っ当な生活を送れるようになったら、一度会いに行きます。その時には会ってくださいますか?

 奥さんと別れるなんて言わないでください。年を取っても手を繋いで歩けるような夫婦になりたいと言っていましたよね。奥さんと話し合ってください。きっと分かってくれますよ。

 もし、もしもですよ、奥さんが手を繋ぐことを拒むようなら、いつか私が手を繋いで歩いてあげます。

 あと、鈴木さんはセックスが出来なかったことを気にしていたみたいですが、私にとってはセックスレスとかどうでもよかったです。毎晩いっぱい話をしましたよね。人生で、あんなに自分のことを人に話したことはなかった。あんなに自分のことを真剣に聞いてもらったことはなかった。とても幸せな時間でした。

 そんな幸せな夢を見させてくれたことを心より感謝しています。  りん」

 

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